◆ 霧 1 ◆

 


 
山は深い霧の中。
触れたら掴めそうな程の密度の濃い霧。
里人は不安げに見交わしあう。
 
――あれは、あやしの物の仕業なのでは?――と。
 
 
「あー、面倒くせえ、面倒くせえ」
「お前ねえ、いい加減に仏頂面で文句ばかり言うのを止めてくれませんか?」
後ろを歩きながらぶつぶつ言っている犬夜叉を、弥勒は振り向いた。
「てめえで勝手に引き受けたんだろ?四魂の欠片も関係ねえのに、なんで俺まで行かなきゃならねえんでぇ」
「お前ねえ…」
ため息と共に弥勒の錫杖が、がつんと犬夜叉の頭を直撃する。
「人助けも法師のつとめです。第一、これは楓様から頼まれたことでしょう」
「だーかーら!てめえが1人で行きゃ良いだろうが!」
「かごめ様が自分の国に帰る前に仰ってたでしょう。『困ってるみたいだから、助けてあげてね』と。戻ってこられたら、言いつけますよ」
「う…」
例の「お座り!」の連発を想像したのか、犬夜叉の耳がたれる。
 
山をいくつか超えた向こうの村の名主の使いだというものが楓の元を訪れたのは、かごめが現代に帰ろうというまさにその直前。
半月ほど前から山に深くて怪しい霧が立ちこめ、中に入った者が皆戻ってこないと言って、楓の元へ相談に訪れたのだ。
かごめは「じつりょくてすと」のためとかでどうしても戻らなくてはならず、帰り際、仏頂面の犬夜叉に、くれぐれもちゃんと手伝うようにと言い残していったのである。
おりわるく楓は神事の準備があるために自分で動くことが出来ず、珊瑚はその手伝いが前から決まっていたのでこれも動けず、いずれにしろ「自分達若い者がいるのに、お歳を召された楓様に無理をさせるわけにはいきません」と言い出した弥勒に犬夜叉はむりやり引っ張ってこられたのだった。
とはいえ、実際にその場に来てみれば犬夜叉の顔つきも変わる。
山を覆う深い霧は、例えようのない強い妖気と邪気をはらんでいた。
 
 
 
「あれ?ここどこだろう…」
りんは辺りを見回した。
リスを追いかけて森の奥まで迷い込んでしまったようだが、ふと気がつくと足下も見えないような深い霧。
きょろきょろと見回しながら、りんはうろ覚えの帰り道を探そうとする。
「いた!」
りんは地上に現れている太い木の根に足を取られ、その場に転ぶ。
「いたた…」
すりむいた膝小僧を撫でながら、りんは座り込んだままぐるりと頭を巡らした。
何も見えない。
真っ白な霧以外は。
 
 
遊びに夢中になって姿が消えたりんの匂いは、霧に覆われた森の外れで消えている。
殺生丸は、無表情に白く覆われた森を見やった。
どう見ても妖気によって作り出された霧。
その中に含まれるあまり質の良くない気配に、殺生丸は僅かに眉を潜める。
足下で邪見がおろおろと殺生丸を見上げている。
「ここに入り込んだのですか?あの小娘は、まったく持って落ち着きがないというかなんというか。すぐに探して参ります」
「…いい、私が行く」
「え?」
邪見は主の言葉に、間抜けな声を上げた。
「中には入るな。結界になっている、外に出られなくなるぞ」
素っ気なく説明すると、殺生丸は躊躇う様子もなく霧の中へ入っていく。
「…え…え??」
意外な主の行動に、邪見は口を開けて前を見つめるが、霧の中に入っていった主の姿はどこにも見えなかった。
 
 
霧の中は文字通り白一色。
妖気を含んだ霧は匂いを判らなくし、方向感覚も狂わせる。
殺生丸は少しだけ思案げな表情を浮かべたあと、じっと意識を集中させ、妖気の触手を森中に伸ばす。
余計な匂いを排除し、りんの気配だけを探り続ける。
つと殺生丸は顔を上げた。りんを見つけたのだ。
そして、あと二人――覚えのある匂いを持つ者。
弥勒と犬夜叉の存在を確認し、殺生丸は僅かに眉を潜めると森の中へと分け入っていった。
 
 
 
不吉な鳥の鳴き声が間近で聞こえ、りんはびくりと体を竦ませた。
殺生丸と共にいると大抵の怪事には平気だが、1人となるとやはり別だ。
ずるずると重い何かを引きずる音、木の枝が弾かれて戻る音、獣の息づかい。
霧の中を大きな何かが通り過ぎていく影。
進もうにも進めず、りんはさっき転んだ場所でじっと蹲ったまま息を潜ませる。
…殺生丸様、探しに来てくれるかなぁ…
りんははぁーっと長いため息をついた。
殺生丸はりんを放りだしはしない、置いて行かれたとしても、言われた場所で待っていれば必ず戻ってくる。
言われたとおりにしていれば――今回のりんは、1人でかってに動き回って迷子になってしまったのだ。
迎えに来てくれる、探しに来てくれる。りんはそう信じてはいる。
でも、ひょっとしたら、もしかしたら、という怖い想像もしてしまう。
何しろ殺生丸はめったに言葉を発しない。りんをどう思って連れているのか、言葉で説明してくれたことはない。
 
はあーーー…
もう一度ため息をついて、りんは膝を抱える。
探しに来てくれさえすれば、殺生丸様なら必ずりんの居場所を見つけてくれる。
来てくれさえすれば。
霧の中から急に何かの息づかいが聞こえた。
ものすごく大きいけど、聞き覚えのある息づかい。ハッハッという牙を持った肉食の獣の息だ。
そして、どこからか聞こえる声。
 
『…子供だ…なぜ子供がここにいる…』
 
りんはびくりとして辺りをきょろきょろする。
誰もいない。
でも息づかいだけはどんどん近付いてくる。
りんは手探りで、大きな木の根本にへばりつくように身体を竦める。
霧の中から、ぼんやりと浮かび上がった大きな影がさらに上下に広がる。
(あ、おっきなあくび)
りんがそう思った途端、霧の中から大きく口を開けた妖がりんに向かって長首を振り立ててきた。
りんは悲鳴を上げた。
 
 
 
霧の奥から聞こえる子供の悲鳴に、弥勒と犬夜叉は同時にその方向を向く。
間髪入れずに走り出した犬夜叉は、その声の主が意外と近くにいた事に驚いた。
走り出して程なく犬夜叉は、巨大なヘビの妖怪と鉢合わせしたのである。
その少し離れたところでは頭を抱えて蹲る少女。
 
「てめえ、相手はこっちだ!」
犬夜叉は鉄砕牙を振るう。
一刀両断された長い身体は、霧となって地に落ちる前に消えた。
弥勒は少女の元へ駆け寄り、抱え起こす。
「もし、しっかりしなさい…と、お前様は…」
「あれ?」
どこかで見覚えのある顔に、りんは妙な顔をした。
「てめえ、殺生丸が連れてたガキじゃねえか」
「あ、殺生丸様の『フショウの弟』!」
思い出して嬉しそうに言うりんに、犬夜叉は渋い顔になった。
「…誰が不肖の弟だ…」
「邪見様がそう言ってたの。フショウの弟ってどんな弟?」
無邪気に言うりんに、(あんの小悪党…次にあったら殴ってやる…)と犬夜叉は拳を振るわせる。
まあまあ、とその犬夜叉を宥め、弥勒は人好きのする笑顔でりんに向き直った。
「1人ですか?どうしてまた、こんな場所に?」
「殺生丸様がご用の間、遊んで待ってたら、迷子になっちゃったの…」
しゅんとなるりんに、弥勒は宥め顔で懐から包みを取り出した。
「そうしょんぼりせずに。ま、これでも食べなさい」
差し出された団子に、りんの顔はあっさり笑顔になる。
「それにしても…さて、どうしたものでしょうか」
子供連れで動くには、この森は得体が知れなさすぎる、そう思い顎に手を当てて弥勒は考え込む。
むっつりしてその様子を見ていた犬夜叉は、近くに感じた妖気にぴくりと反応した。
(新手?いや、この妖気は…)
犬夜叉が向いた方向を弥勒とりんも見る。
りんが急に嬉しそうに走り出した。
「殺生丸様!」
霧の中から現れたのは、紛れもない彼女の保護者――殺生丸だった。