◆ 霧 2 ◆





「殺生丸様!」
嬉しげに名前を呼ぶりんからは血の臭いはしないし、駆け寄る動作にもどこか痛めた様子はうかがえない。
殺生丸は僅かに安堵の様子を見せると、足下に駆け寄り袴に掴まろうとしたりんを素っ気なく制した。
「触るな、そこにいろ」
「はあい」
いつもの事なのであっさりと立ち止まり返事をするりんとは逆に、それを見ていた犬夜叉の方が顔を険しくする。
「…なんでぇ、あいつ。迎えに来たってのなら、もうちょっと心配する素振りくらい見せてやりゃいいのに」
「まあ、あの娘御は納得しているようですし、我々がどうこう言うものではないでしょう……・。それより、何をしているのでしょうか?」
弥勒が首を傾げる。
りんを押しとどめた殺生丸は少し俯き、何かを考えているようだった。
と、半眼になった金目の色合いが変わる。
無機的に光り、焦点がどこなのか判別つかなくなった殺生丸の瞳に、弥勒と犬夜叉は思わず緊張する。
殺生丸はりんを探したのと同様に森全体に見えない触手を張り巡らし、この霧の正体を掴もうとしていた。


強い邪気と妖気で森の中にもとからあった匂いは全て混じり合い、どれがどれだか判別しようがない。
殺生丸は丹念に探って雑霊や邪妖といった小物の匂いを排除し、妖気の大元を追う。森全体を支配する気配にたどり着いた殺生丸は、散らばるそれがどこから来たのか集中して探り始めた。
深い霧の中、それは乱反射しているようで探索は根気と集中力のいる作業になったが、殺生丸はようやくその気配の出発地点とおぼしき場所を探り当てた。

深い谷間、古い霊力。生々しく感じる念とあさましい妄執。
開け放たれた祠と、さほど古くない人間の死臭。
それがはっきりと妖気を通じて目に見えたとき、殺生丸の無機的な目が現実を取り戻した。


りんは顔を上げた殺生丸をじっと見つめている。
それを見下ろし、殺生丸は相変わらずの素っ気なさで言った。
「ここで待っていろ」
「え?」
さすがにりんは驚く。迎えに来てくれたとばかり思っていたのに、またこの恐ろしい場所に1人でいろというのだろうか。
「ここは入るには易しいが、霧を消さぬうちは外に出られない。私が戻るまでここで待っていろ」
という事は、殺生丸は霧をどうにかしに行くつもりなのだろう。
それは判ったが、やはり1人で待つには怖い場所。
りんは即答できずに恨めしげに殺生丸を見上げた。
だがりんが答える前に、助け船を出した人物がいる。
「ちょっとお待ち下さい。それは、子供にはあまりにも殺生な言い様ではございませんか?」
完全にこの場にいることを忘れ去られていた犬夜叉と弥勒――弥勒が口を挟んだのだ。


ようやく自分達の方を見た殺生丸に、弥勒はこほんと咳払いをした。
「どうやら、我々がここにいるのは目に入っていなかったようですな。そこの娘御の危機を救ったのは我らというのに……いや、別に恩を売るつもりはありませんが、こう、保護者なればしかるべき言葉の一つもあって当然ではないかと思うのですが」
「それがどうした。礼でも言って欲しいのか」
「そう言われると、身も蓋もありませんなぁ」
あっさりとした殺生丸の返事に、弥勒はまた咳払いをする。

「今更、なに言ってやがる。この野郎が礼なんて言葉、知ってるはずがないだろうが」
「お前は黙っていなさいね、ややこしくなりますから」
憎まれ口を叩く犬夜叉をにこやかに錫杖で殴り倒し、弥勒はまた殺生丸に向き直った。
「見ての通り我々もここにおりますが、実のところ、この霧の正体というのがいっこうに掴めておりません。先ほどのご様子を見ておりますと、現状を一番理解しているのは兄上だと推察いたします。礼はいりませぬゆえ、代わりに説明していただけませんでしょうか?」
「よせ、弥勒!こんな奴に下手に出るんじゃねえ!」
兄への対抗意識か噛みつくような犬夜叉をもう一度はり倒し、弥勒は人好きのする笑顔を浮かべた。
「いかがでしょう?」
殺生丸は頭にたんこぶをつくって地に這う弟を無言で見下ろしたあと一つ息を吐くと、前置き抜きで話し始めた。
「私にも全てが判っているわけではない。だが、この妖気の出所はわかった」
「その出所をどうにかすれば、霧は晴れて全ては丸く収まる、と言うわけでございましょうか?」
「だろうな」
「兄上はそこに行くおつもりだが、この子供を連れて行くには危険と判断されたわけですな。ここで待たせておいた方がまだマシであると」
りんは殺生丸を見上げた。
図星だったのか、殺生丸は僅かに眉を潜めている。内心を頓着されるのは不快らしい。
弥勒はその表情をあえて無視し、にこやかな顔を崩さずに話を続けた。
「正しい判断かも知れませんが、やはり、ここも子供1人で待つには危険であることは変わりません。そこで提案なのですが、聞いてくださる気はおありでしょうか」
「言ってみろ」
ここぞとばかり、弥勒は善人その者の顔つきで笑った。
「霧をどうにかしなければ、外に出られぬのはお互い同じ。ここは一つ、共闘という形を取るのが最善と存じますれば、我らのうちの1人がここで娘御の護衛に残り、もう1人が兄上と同行させていただく、というのはいかがでしょう。
なにぶん、我々は依頼を受けて調査に来た身。ただ黙って兄上がどうにかして下さるのを待つだけというのも不甲斐ないですからな」
殺生丸は無言でりんと弥勒の顔を見比べた。この際犬夜叉は完全に視界の外である。
りんの顔にははっきりと不安の色が浮かんでいる。
それを見て殺生丸は心を決めたらしい。弥勒を見て頷いた。
「いいだろう」
「では、犬夜叉が残って、私が同行するという事で」
にこやかに弥勒がそう割り振ると、勝手に話が進んだことに苛立った犬夜叉が叫んだ。
「おい、てめえ、まちやがれ!かってに決めてるんじゃねえ!」
「同行は兄上の指示に従うことが前提ですが、素直に言うことが聞けますか?お前では無理でしょう」
「う…」
言葉に詰まった犬夜叉に、弥勒は宥めるように言う。
「さっきみたいな化け物がまだそこらをうろついているかも知れません。お前を信用しているから、任せるのです。この子供をしっかりと守ってあげるのですよ」
りんは自分の頭より遙か上にある年長者達の顔を順に眺めたあと、とことこと犬夜叉の横に行く。
犬夜叉が焦るのも構わずその手に自分の小さな手を絡めると、りんは自分の保護者を安心させるようににっこりと笑った。
「りん、ここで待ってる。行ってらっしゃい、殺生丸様」
「ほら、子供の方が聞き分けがいい。見習いなさい」
犬夜叉はむっつりとするが、どうやら諦めたようだ。
「わかったよ、さっさと行きやがれ」
無表情のまま殺生丸は踵を返しかける。
が、ふと思いついたようにりんの傍らに歩み寄ると、腰の天生牙を外し、娘にさしだした。
きょとんとしたままのりんがそれを受け取る。
「持っていろ。私が戻るまで、絶対に手から放すな」
「はい!」
りんは両手で刀をぎゅっと抱きしめると、嬉しそうに笑いながら答えた。
表情を変えないまま歩き出す殺生丸と並んで歩きながら、弥勒はニコニコして肩越しに残り組を見る。
「守り刀として残したのですか?」
「ふん」
相変わらずの殺生丸に、弥勒は気を悪くした様子もなく親しげに声をかけた。
「所で、申し訳ないのですが、どこか触らせてもらってもよろしいですか?なにぶん、この深い霧の中です。兄上を見失っては、私はどこにも動きようがございませんので。袂の端でよろしいのですが、いかがでしょう?」
「…あいにくだが、それは無理だ」
「は?しかし…」
殺生丸は弥勒の右脇の下に右腕を入れると、いきなり背負いあげた。
「え?あ、あの」
「人の足に合わせている場合ではなさそうだ…」
そういうなり、弥勒を背負ったまま地を蹴る。
突然の浮遊感に弥勒はぎょっとすると、普段、珊瑚と雲母に乗るときのように錫杖を握り直した。
「どうしましたので?」
「霧に毒気が混じり始めた」
僅かに緊張感が含まれているように聞こえる声音に、弥勒は犬夜叉とりんが待つ方向に目をやる。
深い霧に阻まれ、その姿は欠片も見えなかった。