◆ 霧 3 ◆



 
霧の中でりんは刀を抱きしめ、木の根本に寄りかかって座っている。
その隣で腕組みをしながら、犬夜叉はちらちらと子供の様子を窺っている。
何かを言おうと思いながら、結局言葉が見つからない犬夜叉に、りんは顔上げて声をかけた。
「ねえ、犬夜叉って殺生丸様の弟なんだよね。どうして似てないの?」
「…似てねえかよ」
俺が半妖だからか?少しばかりいじけた考えが頭に浮かぶ。
 
「うん、だって殺生丸様はそんな喋りかたしないし、ふくれっ面もしないし、叩かれて土の上に伸びたりしないし」
ぺらぺらと並べるりんに、犬夜叉は引きつった顔になった。
「似てなくて、悪かったな!ガラが悪いって言いてえのかよ!」
「うん、本当にガラが悪いねー」
悪びれないりんに、犬夜叉は思いっきり脱力する。あの殺生丸と普段一緒にいて、どうすればこんなに口の達者なガキが出来るんだろう。もっと竦んだ大人しい子供になりそうなものなのに。
「なあ、…チビ助」
「チビじゃなくて、りんだよ」
「…いちいち、うるせえなぁ。お前、普段、殺生丸とどんな話してんだよ」
りんは首を傾げた。
 
「殺生丸様はあんまりおしゃベリしないなぁ。あ、ときどき、黙ってろとは言われるけど」
さもありなん、と犬夜叉は思う。あの殺生丸がこの子供と一緒になって喋ってる図など、天地がひっくり返っても想像は不可能だ。
「黙ってろって言われても、まだべらべらしゃべってんのか?お前」
「黙ってろって言われたら、黙るもん。でも、また喋りたくなるから、喋るんだもん」
「殺生丸、怒らねえのかよ」
「怒らないよ。殺生丸様、犬夜叉みたく五月蠅くないもん」
「てめえに五月蠅いって言われたくねえ…」
不意にりんがぴくりとした。
ぎゅっと刀を抱く腕に力が入ったのを見て、犬夜叉は辺りを警戒し始める。
「どうしたんだよ」
「…分かんない…でも、刀が今、ぴくんとした感じがしたの…」
りんは低く言って犬夜叉の足下にすり寄ってくる。
妖気の霧のせいで犬夜叉の鼻は殆ど効かない。
犬夜叉は鉄砕牙の柄に手をかけたまま、警戒を続ける。
確かに――何かがぞわぞわと近付いてくるような気配がしていた。
 
 
 
「思ってたより細いお身体ですなあ。ひょっとして、私より幅がないのではないですか?」
「……」
「重くないですか?何やら、非常に申し訳ないことをして貰ってる気がするのですが」
「……」
「それにしても、爽快ですな。文字通り天を行く心持ちです」
「……さい…」
「はい?何か仰いましたか?」
「五月蠅いと言っているのだ!」
自分に背負われたままべらべらと喋り続ける弥勒に、殺生丸はたまりかねたように言った。
「貴様はりんよりも五月蠅い」
「あ、これは失敬。なにぶん、背負っていただいているだけでは芸がないかと思いまして」
「芸などいらぬわ!」
そう言って殺生丸が何かを蹴る。
身体がぐんと加速し、空を滑降する。
あたりは白い霧に包まれているため、弥勒は自分が今どこにいて、殺生丸が何を蹴って勢いをつけているのか、どのくらいの早さで移動しているのか見当がつかない。
ただなんとなく、雲母の背に乗っているときよりも、速い速度で進んでいるような気がする。
 
(こりゃ…すごいもんだな…)
大の男1人背負っていながら空を飛ぶような身軽さに、弥勒は大妖の力とはこれほどの物なのかと改めて思う。
もっとも殺生丸の本性は屋敷のように大きい化け犬だと言うことなので、実際は弥勒の体重などノミほどにしか感じていないのかも知れないが。
 
間近で見る大妖の顔は、まるで作り物のように精緻に整っている。
人里にあれば、傾城どころか傾国と呼ばれてもおかしくない程の美貌だ。
文字通り性別を超えた、金と銀で出来た細工物のような生き物。
「お!」
突然落下を始めた殺生丸に、弥勒は頓狂な声を出した。
殆ど垂直に落ちていくために、その肩にしがみつく弥勒の身体が浮き上がりかける。
どうやら崖を降りているらしいのだが、警告無しでのこの状況は流石の弥勒も驚くばかりだ。
やがてまた何かを蹴った殺生丸が、水平に移動を始める。
 
「…こういってはなんですが、今度落ちるときは一言言ってくださりませんか?なにぶん私はどこを通っているのか、かいもく見当もつきませんので」
「しばらくは森の上だ。それから谷に降りる」
そういった殺生丸の蹴った足下に僅かに霧から覗く木の先端が見える。
その枝先に刺さった髑髏まで目に入り、弥勒は険しく眉を潜めた。
「ここは森の上ですか?」
「そうだ」
殺生丸の返事は素っ気ない。
「その木の先端になぜ髑髏が…」
「おおかた、この森に入り込んだものが雑霊の餌食となって運ばれたのだろう」
なんの感慨もなく言うと、殺生丸の身体がまたふっと宙に浮き、落下を始める。
「来るぞ」
低い声に弥勒は落ちていく先に集中した。
 
足下からわき上がるような霧の渦。そこから何かが霧と共に登ってくる。
怪しい邪気の渦、無数の雑霊がそれぞれに怨念のこもった不気味な色合いに身体を染め、落下してくる殺生丸達を飲み込もうというように束になってわき上がってくる。
闘鬼神に手を伸ばしかけた殺生丸より早く、弥勒は錫杖を強く握って念をこめ、二人を包む結界を張った。
力の弱い雑霊が結界にふれた瞬間弾き飛ぶ。
「…ほう…」
殺生丸が初めて感心したような声を上げた。
「お進み下さい。これらの雑霊は私が防ぎます」
殺生丸が肩越しに僅かに笑ったようだった。
固い岩盤を蹴り、殺生丸は一気に雑霊達の中を突き抜ける。
 
弾け飛んだ雑霊の一部が霧にまぎれてゆくのを片目で見ながら、弥勒はようやく地におろされた。
「…この先に大元が?」
「気配は二つある。どちらがどうとは確定できなかった。人か――祠か」
「調べるしかないのでしょうな…」
急に弥勒は息苦しさを感じて咳き込んだ。
喉の奥が熱い。
「…毒気でございますか?」
「この奥に行けば、また強くなる。…が、貴様ならば死にはしないだろう」
冷たく言うと、殺生丸は谷の奥に入り込んでいった。
奥からまた禍々しい気配と共に雑魚妖怪や雑霊が忍び寄ってくるが、殺生丸の気に近付くことが出来ないらしい。少し離れた頭上でぐるぐる回っているのを見て、弥勒は息をついた。
「俺が結界はって頑張んなくても、関係なかったりしてな」
そう言って僧衣の袖で口元を多い、弥勒も殺生丸の後を追って谷の奥へ向かう。
集まっては離れる雑霊の群に、弥勒は妙な念を感じた。
 
『坊や…どこにいるの…』
 
攻撃的な念の奥に感じる、すすり泣くような悲しみ。
 
 
 
『子供…子供…』
霧の中から聞こえる怒っているような声に、りんはどきっとした。
犬夜叉は辺りを見回すが、何もいない。
 
『お前…なぜここにいるの…』
 
「なぜって…迷っただけだよ」
りんはその敵意のこもった声に怯え、犬夜叉の背後に隠れる。
子供を背中に庇いながら、犬夜叉は霧の向こうに目を凝らす。
「…おい、チビ助。俺の後ろから絶対に出るんじゃねえぞ」
あ、似てる。
りんは一瞬恐怖を忘れてそう思った。
自分を庇おうとしてくれる犬夜叉の感じが、殺生丸様に似ている。
殺生丸様はこんな風に口に出して庇ってくれないけど、危ないときは黙って自分の前にでてくれる。
その時に感じる、自分の周りを取り囲む張りつめた感じ。
殺生丸様が自分を守ってくれてるんだなって、強く思う感じ。
今の犬夜叉から、それと同じような感じを受ける。
りんは不思議と気持ちが落ち着いていくのを感じた。
腕に抱いた天生牙が、どくんと息づく。
りんはもう怖さを感じなかった。