◆ 霧 4 ◆
 


 
霧に包まれた谷の奥に進むごとに、弥勒は毒気が強くなっていくのを感じた。
おそらくなんの修行もしていない普通の人間であれば、たちどころに気を失い、毒に犯されてしまうに違いない濃い空気。
少し前を行く殺生丸は涼しい顔のまま。この霧の毒気になんの影響も受けていないらしいのが、悔しいというか羨ましいというか、多分両方の気分で弥勒は後を追う。
口を袖で覆って横に並ぶ弥勒を殺生丸はちらりと見た。
「苦しければ離れていろ」
「…ここまで来てそんな事は出来ません」
「意地を張って命を落とすも貴様の勝手だ。好きにしろ」
「つれない言い様ですな。せめて大丈夫か?くらい言ってくださっても、バチは当たらないでしょうに」
「戯言をほざけるうちは大丈夫だ」
「…鋭いご指摘ですなー」
軽く言いながら、弥勒は周辺の気配を探った。
さっき感じたように、攻撃的な邪気とは別に何か悲哀とも感じる念を感じる。
 
「妖気…とはまた違うような気がするのですが…」
「怨念、悪霊の類か…」
殺生丸はおぞましげに眉をしかめた。
妖怪である殺生丸からしてみれば、人間の思念から生まれた妖怪や悪霊の類は同胞とは思えないのかも知れないが、僧である弥勒にしてみれば、こういった念にはむしろ哀れを感じる。
(犬夜叉ではなく、私がこちらに来て正解だったのかも知れません)
不意に妖気とは違う、もっと生々しい匂いが鼻を突いた。
「死骸だ」
なんの感傷も交えずに殺生丸は足下に落ちている物を見る。
それは乾涸らびた皮を骨に張り付かせたとしか見えない、人間の男の死体だった。
 
 
 
ざっと霧を突いて半ば透き通るような妖怪達が襲いかかる。
犬夜叉はそれを鉄砕牙で切り払った。
一匹一匹は強くない、完全な雑魚妖怪の類だが、それが間断なく四方から襲いかかってくる。
犬夜叉は大木を背に、その虚に少女の身体を押し込んで自分の身体を盾にしていた。
ひゅうひゅうと漏れるような息づかいの妖怪達が木の周りを取り囲む。
「しつっけえな…なんか、急にこいつ等わいてきやがって」
りんは天生牙をしっかりと抱いて身じろぎ一つせずに蹲っている。
 
『子供、子供、なぜここにいるの』
『子供、なぜ生きているの』
りんを責めるような声が霧の中から聞こえてくる。
 
『なぜ生きてるの?子供、子供。なぜ生きてここにいるの。この山でなぜ生きているの』
りんはぎゅっときつく目を閉じる。
「りんは殺生丸様を待っているの。この刀を返すの。だからここにいるの!」
そう叫ぶと霧全体が戦慄いたようだ。
犬夜叉は霧の中を駆け抜ける嫌な波動に目を鋭くする。
『子供、誰を待っているの!私の子は戻ってこないのに、お前は誰を待っているの!』
霧の悪意は強くなった。
 
 
 
倒れた男の死体を一通り調べたあと、弥勒はその男がしっかりと抱え込んでいるものに目を向けた。
紫の布で包まれた赤子ほどの大きさのもの。
取り出そうにも死体の腕はそれを抱え込んだまま硬直しており、なかなか動かない。
「むりやり引っ張ったら、腕が取れますな」
「取ればいいだろう」
「仏様に乱暴するのは気が引けます」
「では放っておけばいい」
「ほんっとうに、身も蓋もない言い様ですなぁ」
嘆く弥勒に、殺生丸は素っ気なく背を向けた。
「これはただの死体だ。妖気の元はこれではない」
「…では、祠の方が大元で?」
「おそらくはな」
霧の奥を見る殺生丸の目が無機的に光る。
思い出したように降下してきた妖怪が一匹、その気に触れて弾けとんだ。
「気になるなら、貴様はそれを調べていればいい」
紫の包みとまだ格闘している弥勒にそう言うと、殺生丸は歩き出した。
「ちょ、ちょっとお待ちを」
駆け寄る弥勒を殺生丸は横目で見た。
「あれはいいのか?」
「祠を確かめてのち、必要とあればまた戻ってくればよいでしょう」
愛想の欠片もない大妖の声に、弥勒はわざとらしく息をつく。
 
「呉越同舟、もう少しうち解けて下さってもよろしいかと思うのですが?」
「うち解けてどうする。私は貴様を頼りにした覚えはない」
「それはそうですが、人と妖怪、それぞれの目で確認し合った方が確実だと思うのですが如何?」
「何が言いたい」
「これの大元が人間の念であれば、法師である私の方が適任だろうと言うことです。もう少し信頼していただけませんか?」
殺生丸は無言で立ち止まると、弥勒の目をじっと睨み据える。
同じ金目とはいえ、表情が伺えない分だけ、犬夜叉よりも殺生丸の目の方が凄みがある。
もっともそれで怯むような男でもないので、弥勒は軽く錫杖を振った。
「別に喧嘩を売っているわけではありません。睨まないでください」
「睨んでいるわけではない。はっきりと言え」
「それはこちらのセリフですな。思うところがおありならば、はっきりと口に出して仰ってください。言ってもらわなければこちらは判りません。例え何かを察していたとしても、通じていなければ、答えを導き出すことは不可能です。あなたは先ほどの仏様をただの遺骸と申された。ただの遺骸を、霧の大元かも知れぬと考えた理由はなんですか?他にも人の遺骸はあったはず、何故、あの遺骸を疑われたのですか?」
弥勒は臆することなく殺生丸を見据えた。
不愉快そうながら殺生丸は口を開く。
「…あの死体が抱いていた物から、霊力を感じただけだ」
「霊力ですか?」
殺生丸は頷く。
「だが、あくまでそれは石自体が持つ霊力だ。どこぞの霊山より掘り出した物だろう。特別な意図は感じなかった。それだけだ」
「…霊力を持った石…ですか」
弥勒は顎に手を当てて考え込む。
 
 
『坊や…』
 
霧から聞こえる嘆きの声。弥勒はそれに引っかかりを感じた。
「…ひょっとしたら、あれは封印の形代か何かだったのかも知れません。母の念を鎮めるために、子供の人形などを供えるのはよくあることです」
「母の念?」
殺生丸は眉を潜めた。
「聞こえませんでしたか?私には先ほどから、母が子を求めて泣くような声が聞こえます。この霧の中からです」
首を振る殺生丸に、弥勒は踵を返しながら言う。
「さっきの場所に戻りましょう。あの布の中身を確かめなければ」
だが殺生丸は動かない。霧を透かし見るように谷の奥を見据えたままだ。
「…来る…」
ほんの僅かだけ緊張を孕んだ声に、弥勒もまた谷の奥を見据える。
しゅるしゅると何かがこすれる音が聞こえる。
そして――霧を突き破り、黒く濡れた固まりが谷を覆い尽くす勢いで襲いかかってきた。
黒く長い、女の髪。
跳びすさった二人を追う長い黒髪を殺生丸は一刀で叩き斬る。
「貴様はさっきの場所へ戻れ」
鋭い指示に、弥勒は走り出した。その後を追う髪を闘鬼神が両断する。
切られた髪はまた寄り集まり、黒ヘビのようにとぐろを巻いて鎌首をもたげる。
それ自体が生き物――そう殺生丸は感じた。
 
 
 
『子供、子供』
『憎い、柔らかい肌』
『憎い、憎い。細い手足も丸い頬も』
『私の子はいないのに、私の子は死んだのに、なぜお前は生きているの』
『憎い』
押し寄せる悪意に、りんは木の虚の中で悲鳴を上げた。
「チビ助!」
その声に犬夜叉が注意を逸らした瞬間、妖怪が木にぶち当たり根本からへし折る。
飛び出してきた幼女を背後に庇い、犬夜叉は戻ってきた妖怪を切り捨てる。
「この霧、怖い!あたしが憎いって、さっきからそう言ってる!」
「霧が言ってるって…おい、お前」
一瞬犬夜叉は呆気にとられ、りんが恐怖のあまりに幻聴でも聞いたのかと思った。
「嘘じゃない!さっきから霧が言ってるの!私の子供は死んだのに、生きてるから憎いって!」
ふるふると首を振るりんの背後から、また別の妖怪が現れる。
「話はあとだ!」
犬夜叉はりんをよけさせると、襲いかかる妖怪を切り払う。
倒れた妖怪から何か別のものが分離し、りんに襲いかかった。
「!」
迎え撃とうとした鉄砕牙をすり抜け、それはりんを頭から飲み込もうとするように上下に裂ける。
「きゃ!」
思わず身体を竦めたりんの周囲を白い光が包み込み、それは襲いかかってきた物をはねのけた。
幼女が抱えた刀が淡い光を放っている。
「天生牙の結界…?」
犬夜叉が呟くと、りんは唖然としたまま、天生牙をより強く抱き込んだ。
光がその小さな身体を包み、ぞわぞわと近付いてくる影を寄せ付けない。
(殺生丸…その為に刀を?いや、まさか…)
犬夜叉は集まってきた妖怪を一撃で粉砕する。
それでも霧の向こうからまだ集いつつある妖怪の群に、犬夜叉は舌打ちをした。
(なんでもいいや…さっさと片つけやがれ。弥勒…殺生丸…)