◆ 霧 5 ◆


 
 
髪は何度斬っても再生する。
怨念から生み出された黒髪――殺生丸は跳んで避けながら眉を潜めた。
(妖怪化した人間?いや…これはむしろ怨霊の類だな…やっかいな)
谷を囲む山肌に添って髪の群は殺生丸の背後に周り、さらにその先にまでぐんと伸びてゆく。
うねる髪が谷全体を覆い、斬り払うことはもう不可能だった。
殺生丸は足下をすくおうと襲いかかる髪を逆に足場にし、弥勒が向かった方向に一足飛びに跳ぶ。
 
(人間の……母の怨念…)
もっとも厄介で始末に負えないものの一つだと思う母の念とやらの、理屈も何もない情念に、殺生丸は怖気が感じる。
押し寄せる髪の波を振り切り、紫の包みを取り出そうとしている弥勒に向かう髪の先端を殺生丸は斬り払った。
「取れた!」
硬直している死人の腕をほぐし、ようやく弥勒は包みを取り出した。腕の骨を砕けば速かったものをと、殺生丸はその悠長さに呆れた風に眉を寄せる。
だが包みをほどこうとした瞬間、逆方向から襲ってきた髪が包みごと弥勒の身体を巻き込んだ。
法師の身体が黒髪に埋もれ、あっという間に見えなくなる。
「ちっ」
何をやっているのかと殺生丸は舌打ちをした。弥勒を取り込んだ髪は潮が退くように谷を後退してゆく。
それこそが目的だったとでもいうような動きに、殺生丸は取り残された死体を見やった。
ほぐされた手の中に握られた一枚の符。
それを手に取ると、殺生丸は忌々しげながら髪の行方を追って跳んだ。
 
 
全身を髪に巻き付かれ、弥勒はもがくことも出来ずに髪の波に運ばれていった。
僅かな隙間から入り込む空気になんとか呼吸は可能だが、身体を締め付ける髪の力に弥勒は顔を歪めた。
手に持った包みの中身は、さわった感触からやはり形代らしいと判る。
髪の中を女の声が耳鳴りのように反響する。
 
『坊や、坊や』
『私の子』
『戻っておいで、坊や』
『私の子、私の子』
 
繰り返される声に脳の奥から麻痺してゆくような気がする。
この声の主は間違いなくこの包みを欲していたのだ。自分はそのおまけに過ぎない。
そう考えると、弥勒はいささか憮然となった。
「哀れな母御の望みとあらば、このような強引な真似をせずともお力になったものを…って、聞いちゃいねえか」
ぶつくさと言ったところで、髪を操る念はまったく鎮まる様子はなく、弥勒を締め付ける力は強くなる一方だ。
ずるずると引きずられ、その向こうに妖しい光が見える。
 
『坊や』
 
手を伸ばす母の像、この髪の終着点。
本来であれば福々しく美しい光景だろうに、弥勒の目に映る母は文字通り鬼女の風体で、その目は血走り狂気の色に染まっている。
弥勒はぎょっとして四肢をばたつかせた。
この先にあるのは黄泉比良坂、女の姿の後ろに暗い坂道が巨大な獣の口腔のように続いている。
飲み込まれてゆくのを感じ、弥勒の背に冷たい汗が流れる。
「冗談じゃねえぞ、こんな色気のねえ道行きなんぞ、まっぴらだ!」
じたばたと暴れる弥勒を諫めるように締め付ける髪の強さは強くなり、息をすることすら怪しくなった法師はもがきながら喘ぐ。
暴れ続ける弥勒の感覚を、ばしっと稲妻のような音と光が叩いた。
急に息が楽になり、弥勒の身体は髪から放り出され土の上を転がる
何事かと思う間もなく、再び髪の渦が取り込もうと迫ってくるのが目の端に見え、弥勒は手に持った包みを咄嗟にその髪に向かい放った。
紫の包みがほどけ、中から現れたのは――霊水晶で刻まれた童子の像。
髪はその童子の像を絡め取ると凄まじい早さで後退し、谷の奥にあった祠の中に吸い込まれ、そして消えた。
あっけない幕切れにへたり込んだままの弥勒の前を、殺生丸が滑るように行き過ぎる。
何をするかと思うと、殺生丸は一枚の符を祠の扉の袷に張り付けた。
それこそが、この祠を封印していた呪符、死体が手に握っていたものだった。
 
 
 
あふれていた物の怪の気配が一斉に消え去り、犬夜叉は辺りを見回した。
霧が晴れ、森の中に光が射し込んでくる。
「声…もう聞こえない…」
りんのほっとした声に、犬夜叉はようやく緊張を解いた。
「終わったみてえだな、ったく、あいつ等、手間取りやがって」
わざとらしい憎まれ口を聞いて、りんが笑う。
森は何事もなかったような穏やかな光に包まれていた。
 
 
◆◆

 
 
封印された祠の前に、一筋の線香の煙が立ち上っている。
手を合わせ供養をすませた弥勒は、ため息をついた。
その目の前には厨子に収められた一冊の書き物、この祠に母の怨念を祀った僧が書き残した物である。
「お読みになりましたか?これ」
背後の殺生丸に問うと、妖は不機嫌そうな顔で小さく頷いた。
「愚かすぎて話にもならん」
吐き捨てる大妖に、弥勒は苦笑する。弥勒を髪から救ったのは、それこそこの大妖が死体から回収してきた呪符の効力だったのだ。
符を手にした死体にあの念の固まりは触れることが出来ず、延々恨みを霧と変えて森を包んでいたらしい。
 
事の始まりはもう数百年もの昔。
この地方の名主の娘が父のいない異形の子を産んだことだった。
子を取り上げた家人はその子を不吉の証とし、この谷に捨ててしまった。
それを知った娘は産褥の弱った体で谷を彷徨い子を探し求めたが、ついに見つけることが出来ず――生まれたばかりの赤ん坊が捨てられたのだ。山犬にでも食べられたあとだったのだろう――我が子への哀惜と、子を捨てた人々との憎悪の念から鬼女となり、人々を襲い始めたのだ。
やがて高僧に調伏されたあとも子供恋しの一念は怨霊となって祟りを振りまき続け、ついに僧はここに祠を作り、母の嘆きを鎮めるために霊力を込めた童子の像を祀って魂鎮めとし、封印した。その封印を、どうやらどこぞの野盗が破ってしまったのである。
あの死体となった男は子の像を盗み出して売り飛ばそうという算段だったのだろうが、結局は念に取り殺されてしまい、像を取り戻せない母の怨念だけが森全体を覆い、怪しい闇の生き物たちのより所となっていたのだ。
 
 
今にして思えば、父のいない異形の子は半妖だったのかも知れない。
愚かではあるが、例え異形であっても鬼女となるほどに我が子を愛おしんだ母の心を、弥勒は切り捨てることが出来なかった。
弥勒はもう一度深く手を合わせると、眉根を寄せたままの殺生丸を見た。
その不機嫌な顔に苦笑し、話しかける。
「愚かだと思われますか?やはり?」
「それ以外にどう思う。愚かな念を延々引きずりおって、まったくおぞましい」
「愚かなのは間違いありますまい…ですが、真実おぞましいのでしょうか…」
「何を言いたい」
「この母御は確かに愚かでした。異形と言うだけで子を捨てた家人も愚かでした。ですが、子を捨てたのはやはり親心、我が娘に重荷を負わせたくなかったのでしょう。そして鬼女となったのも、子を愛しみすぎたから。確かにどれも愚かな振る舞いではありますが…少なくともこれほどまでに愛された子はけして無価値ではないと思うのですよ」
「……何が言いたい」
弥勒の言葉の言外に含まれたものを感じ、妖は探るような目になった。
「一般論です。どんな子でも、親からしてみれば何より愛しい我が子。その気持ちは愚かでも貴いものだという事ですよ。例えそれが半妖の子であったとしても、大切な愛おしい存在だという事です」
にっこりとしながらそう言う弥勒から、殺生丸は目をそらす。
「人の情か。私には理解できぬがな」
吐き捨てる殺生丸に、弥勒は一瞬だけ苦笑するような顔つきになった。
「そうでしょうか?兄上殿なら判っていただけるような気がしたのですが?」
「私が、何故」
素っ気なく言い捨てる殺生丸に、弥勒は人好きのする笑顔を崩さない。
「兄上殿はあの娘御を助けるために、わざと危険を承知でこの霧の中に探しに来られた。これもまた、貴い情だと思うのですが?」
殺生丸は弥勒を無言で睨み付ける。
だが怯んだ様子もなく笑顔を崩さない法師に、殺生丸はやや困惑げに舌打ちすると、ふっと地を蹴った。
そのまま一気に谷を囲む山肌の中腹まで跳ぶ。
その行動に、流石の弥勒も慌てた。
「ちょっとお待ちを、兄上殿。ひょっとして、お一人で戻られる気で?私は犬夜叉達がいるのがどこか判らぬのですが?」
「ここにいることだけは犬夜叉に教えておいてやる。あとは迎えが来るのを待つのだな」
「あ、ちょっと、お待ちを!」
呼び止める弥勒に構わず、殺生丸の姿はあっという間に山の向こうに消えた。
置いてきぼりをくった弥勒はしばらく呆然とその方向を眺めたあと、諦めて近くの大岩を背もたれに座り込む。
「…ひっでー…置いてきぼりだぜ」
ぶつぶつと呟きながら、霧の晴れたあとの青空を見上げる。
何はともあれ、犬夜叉に知らせてくれるというのなら、そのうち迎えに来てくれるだろうと思い、弥勒は背伸びした。
情を認めない大妖は、娘を連れて森を出ていくのだろう。
言葉で示さなくても娘を案じていたことは確かな事実、そして、弥勒を助けてくれたことも事実、それが単にこの場を切り抜けるための都合上だったとしても、だ。 弥勒ごと髪が像を抱えて祠に収まったとしても、結果は同じ。霧は晴れて全て収まったはずなのに助けてくれた。
 
――まあ、今のところはそのくらいでも良いか。
 
弥勒は上機嫌でそう思う。
密着した大妖の細身の身体の感触、髪の柔らかさ、そして匂い。
思い出すだけで鼓動が速くなる。
 
…逢いたいな、また…
別れたばかりの姿を思い出し、弥勒は目を閉じる。
その瞼の裏には、山の向こうに消える瞬間、陽射しを浴びて輝いた銀の髪が残像となって焼き付いていた。