◆ 雲関 ◆
 


 
ふと気が付くと仲間達の姿がない。
弥勒は不審げに眉を顰めると周囲の物音に耳を澄ませた。そして気が付く。
仲間どころか、森の中は鳥や獣の気配もない。先ほどまで五月蠅いくらいにまとわりついていた羽虫すら、どこかに消えてしまっている。
 
――おかしい――
 
一旦立ち止まり、錫杖を握り直す。夜の森はしんと静まりかえっている。
 
 
 
そもそもの発端は、今夜の宿と定めた狩り小屋の裏の小川に水を汲みに行ったかごめが、帰ってこなくなったことだ。
探してもどこにも居ないし、何かに襲われた様子もない。何よりも皆がいた場所とほんの目と鼻の先の場所のことである。何かあれば犬夜叉の鼻がかぎ取れないはずがないのだ。
全員で手分けをして探し初め、先ほどまではかごめの名を呼ぶ仲間達の声が木々の間から聞こえてきていた。
それが今は何も聞こえない。
不気味に静まった森の様子に、弥勒は慎重に辺りの気配を探る。
 
唐突に、空気が凍り付くような冴え冴えとした気配が弥勒の感覚を叩いた。
弾かれる勢いで振り向くと、立っていたのは銀の髪を持ち、顔に妖の文様を浮かび上がらせた大妖。犬夜叉の兄でもあり、最近は何かと話す機会も多い。
見知った顔に、弥勒は安堵の息を付いた。
「ここでお会いできるとは、僥倖でした。少々、お伺いしてもよろしいですか?」
そう気安く言って近付きかけたところで、弥勒は殺生丸の気配がいつもと違うことに気が付いた。
うねる妖気に銀の髪は逆巻き、全身が冷たい色合いに発光している。赤みを増した金の瞳の中で、縦長の瞳孔がやけにくっきりと見えた。
その縮み上がりそうな程に冷たい妖気に、弥勒の全身が強ばる。
(…殺気…とも違うようだが…)
その場から動かなくなった弥勒を見下ろし、殺生丸は抑揚のない声で問う。
「なぜ貴様がここにいる」
「…なぜと…それは私の方こそ知りたいのですが…」
強ばった舌を動かし、弥勒はなんとも歯切れの悪い返事をした。
 
殺生丸のうねる髪がふわりと静まった。幾分気配を和らげた大妖は、ちらりと頭上に目を向けて言う。
「じきに雲関が開く。生ある者がいて良い場所ではない」
殺生丸は弥勒に着いてこいといった風に顎をしゃくった。
そのまま無言で歩き出す殺生丸に追いつき、弥勒は早口で問う。
「雲関とは、日や月の通り道にあるといわれる雲の関所…のことですな?それが一体どうしたと?いや、それより生ある者がいて良い場所ではないとは、危険…という事なのですか?」
無言のままの殺生丸の腕を、弥勒はもどかしげに引いた。
「危険なのですか?私は人を捜しております。もしや、他にも誰かここに迷い込んではおりませんか?」
その必死の顔つきに、殺生丸は不快そうな目で睨め付ける。
だが、ふっと周囲の気配を探ると、弥勒に素っ気なく答えた。
 
「かごめ、とかいう妙な恰好をした女がいる。他はおらぬ」
「かごめ様が…どこにいるのか判りますか?」
勢い込んだ口調で言ってから弥勒は殺生丸の腕を強く掴んだままだったことを思い出し、手を放して非礼を詫びた。
「申し訳ありません、その、つい…」
「こっちだ」
弥勒の台詞を遮り、殺生丸はまた背を向け歩き出す。その後を追いかけ、弥勒は頭を掻いた。
「ご面倒ばかりおかけしますな…ところで先ほどの続きですが」
「続きとは何だ」
目線1つ向けずに言う殺生丸に、怒らせたかと弥勒は小さくなった。
「雲関、と申されましたな。それが開くとはどういうことでしょう」
殺生丸はぴたりと足を止めると、振り返って弥勒の表情をみた。
ぎょっとした弥勒も足を止めると、もう気は済んだとばかりにまた歩き出す。
からかわれている気分で弥勒がため息を付きつつ後を追うと、殺生丸はやはり抑揚のない声で話し始めた。
 
「ここは浄土に旅立つ魂と、転生のために戻ってくる魂の交差する霊山の1つ。雲関は実際に空に開く関に非ず、あの世とこの世を繋ぐ関。今宵、あの望月が天頂に掛かるとき関が開き、魂が行き来する」
殺生丸は横目で弥勒を見た。
「ここはその為の結界が内。実際の森と分かたれた神域であるというのに、何故に貴様等が…」
言いかけて、殺生丸は弥勒の着衣の一点をじっと見た。
「はい?何かおかしなところでも?」
どきまぎと答える弥勒に、殺生丸は小首を傾げてみせた。
「貴様、四魂の欠片を懐に持っているな?」
「よくお分かりですな?四魂の欠片が見えるのですか?」
驚いた風に懐を手で押さえていうと、殺生丸はなんでもないことのように答える。
 
「魂を預かるこの地の霊気が欠片に反射して光っている。四魂の玉も生身を無くし彷徨う魂のようなもの。それに反応してこの地に入れてしまったのであろうな」
「そういえば、かごめ様も四魂の欠片を所持しております。なるほど」
頷いたところで、ふと弥勒は疑問を覚えた。
なぜ殺生丸はこの場にいるのだろう?
なぜこの神域に入れ、そして生者のいる場所ではないといいながら、留まっているのだろうか。
殺生丸の冷えた気はそれを質問されるのを阻むかのようで、弥勒はなんとも面映ゆげに開きかけた口を閉ざす。
 
 
森の霊気は、弥勒にもはっきりと尋常ではないと感じさせるほどに強くなっていた。
丈高い木々は黒い針となって尖り月に突き刺さりそうで、頭上の望月は今にも落下してきそうな恐怖を感じさせるほど近く大きい。
無意識に直前を歩く殺生丸の袂を掴み、弥勒はかってに早まる鼓動をなんとかしようと苦心していた。
「…押しつぶされそうですな…」
ぽつりと呟く弥勒に、殺生丸はようやく声を和らげた。
「感じるか、この霊気が」
「生ある者がいる場所ではない…成る程、実感として判ります。自分の身体がとんでもなく重く感じますよ」
辺りを見回しながら、弥勒は体を震わせた。黙っていても冷や汗が流れてくる。1人でいたらそれこそ本当に押しつぶされそうな圧迫感。
かごめ様はこの中でどうなされているのだろう――弥勒は焦りを感じた。
 
「かごめ様はどちらでしょうか。まだ遠いので?」
「この先だ。まっすぐに1人で行くがいい」
殺生丸は木々の間の一点を指差した。
「1人でですか?」
思わず頼りない声を上げた弥勒に、殺生丸は嘲るように小さく笑った。
「結界の外まで案内する気はない。あとはこれについて行け」
殺生丸が軽く手を握り、そして開くと、そこから蛍のような小さな光が浮かび上がった。
弥勒の前に漂うと、そのままふわふわと前に向かって漂っていく。
「娘を連れて、結界の外へ行くがいい。私はここに用がある」
有無を言わさぬ口調だった。
名残惜しげに弥勒は掴んでいた殺生丸の袂を放すと、光の後を追って歩き出す。
そしてこれで別れならばと意を決して振り返り、胸に止めていた問いを殺生丸にぶつけた。
 
「あなたはなぜ此処にいたのですか」
その場で見送っていた殺生丸が僅かに目を見開く。
「あなたは何のためにここを訪れ、そして留まるのです。目的は何なのですか?」
問いを口にしたことで、ふとあることに思い当たり、弥勒はそれをそのまま口にした。
「見送るべき魂があるのですか?それとも、迎えるべき魂が?」
軽く見開かれたままだった殺生丸の目が細められた。
完全に表情の消えた顔からは何を思っているのか伺い知れない。
「あなたは……何を抱え込んでいるのですか?」
もう一度発せられた弥勒の問いに、殺生丸は背を向け、素っ気なく答える。
「貴様が知ることではない」
突き放す言葉に、弥勒の中に残っていた怖れがすべて消える。
 
「私は知りたいのです!」
咄嗟に口をついた言葉に驚いたのは、弥勒自身。だが、これこそが自分の一番の本心であることを確信し、弥勒はまっすぐに殺生丸を見る。
殺生丸が肩越しにこちらを見返す冷ややかに光る目と感情を見せない顔は、まるで玉を刻んだ面が闇に浮いているようにも見える。
「私は知りたいのです、あなたの胸の内を…」
喘ぐようにもう一度言う。
完全に弥勒の方を向き直った殺生丸は、低く吐き捨てるように言った。
「人間はいつもそうだ…本来不可侵であるべき領域に、平気で足を踏み込みたがる。守るべき境界をうち破ろうとするのは、常に人だ」
拒絶の言葉に弥勒は全身が冷えるのを感じた。
 
この妖は――人と離れていることを望んでいる。そうあるべきと思っている。
それが痛いほど感じられ、自分でも信じられないほど辛く悲しい思いがこみ上げる。
「そうかも知れません、…ではありますが…」
弥勒は意地をかけて声を張った。
「うち破られた中にこそ、新たに築かれる物もあるのではないですか?」
真正面から弥勒を見ている殺生丸の瞳がついと揺れた。
そして、その姿そのものが消えてしまう。まるで木々にとけ込んだように。
答えを得ることなく1人で残され、弥勒はすっかり力が抜けてその場にへたり込みそうになった。
「…かごめ様を捜さなければ…」
呟いて顔を上げると、頼りなげな光が目前で揺れている。
声を掛けていいのか、なんだか悩んでいるような風情に、弥勒は泣き出しそうな気分を抑えて笑みを作った。
「お待たせしましたね。かごめ様の所へ案内してもらえますか?」
光は何度か弥勒の目の前をくるくると回り、それから木の間へと飛び始めた。
さほど進まぬうちに、大木の影でぐったりと気を失っているかごめを見つける事が出来た。
 
 
 
「かごめ様、お気をしっかり」
揺さぶられ目を覚ましたかごめが泣きそうな声を上げる。
「弥勒様ー!怖かった」
「もう大丈夫です、早くここから脱出しましょう」
取り立ててケガをした様子のないかごめを促し、弥勒はふわふわと漂う光に声を掛けた。
「外への道を教えてください」
心得たように光は空をゆく早さをあげた。
弥勒に手を引かれながら走り出したかごめは、訳が分からずに戸惑ったように矢継ぎ早に質問を投げかける。
「弥勒様、あれ何なの?なんでこんなに急がなきゃないの?此処はどこなの?犬夜叉達は?」
「説明はあとです。あまり時間がないようですから」
「時間がないって…」
急にかごめは足を止め、ぱっと振り返り空を仰いだ。
つられて止まった弥勒が同じように空を見上げる。
「空が割れる…」
かごめが呆然と呟いた。
 
 
中空に近くかかる望月。それを中心に分厚い雲が空に逆しまに開いた穴のように割れた。
逆巻く穴から噴煙を思い起こさせる雲の渦が吐き出されれ、森の上空を一気に覆い尽くす。
そして一直線に開けた穴の真下から吹き上がる光の奔流。
くぐもった光は赤や黒が絡むように明滅しており、その禍々しい色合いにかごめと弥勒の全身に鳥肌を立たせた。
「な、何あれ…」
「見てはいけません、引きずられます!」
自分の魂も抜け出しそうな感覚を受け、弥勒は強引にかごめの腕を掴む。
むりやり眼前の光景から視線を逸らしその場から逃げようとした刹那、視界に映ったものに弥勒は一瞬心臓が止まりそうになる。
 
 
天井の逆しまな穴、そこからこぼれ落ちる魂をのせた雲、天に昇る死者の魂。
その狭間に浮いている小さな光の玉の中に垣間見える銀の髪の大妖の姿。
横顔と僅かに伏せられた寂しげな金の瞳が間近で見えたような気がして、弥勒は後先もなく森の中に駆け戻ろうと動きかけた。
「弥勒様!」
腕に縋り付くかごめの声に我に返る。天に浮かぶ光の玉は、その時にはもう見えなくなってしまっていた。弥勒は胸が締め付けられる思いで視線を巡らすが、それはどこにも見えない。
「弥勒様、逃げよう」
震える声で言いながら、かごめは弥勒の腕をひく。
見ると森の上空に広がった不思議な雲は徐々に高度を下げ、かごめ達のいる辺りにまで近付いてきていた。案内役の光の玉さえ、慌てたように落ち着きのない明滅を繰り返す。
弥勒は一瞬唇を噛みしめたが、すぐにかごめに向き直った。
「申し訳ありませんでした、さあ、参りましょう!」
雲に飲み込まれる恐怖から、二人は振り返りもせずに全速力で走り出した。
背後から追いかけてくる圧迫感。
走る先から木々はぐにゃりと姿を歪ませ、影と同化して頭上から落ちてくる。
目の前をゆく光だけを頼りに走りに走り、そして薄らいだ光を破るように、かごめと弥勒は結界の外に飛び出した。
 
◆◆
 
 
草原の上に転がり落ち、咄嗟にかごめを庇った弥勒はしたたかに肩をぶつけて蹲った。
「つ…」
その傍らではかごめのうめき声。弥勒は痛みをこらえて立ち上がると、かごめに声を掛けた。
「かごめ様、お怪我はありませんか?」
「アイタタタ…でも大丈夫。弥勒様が下敷きになってくれたから、ケガはしてない…」
ぶつけたらしい腰をさすりながらも気丈に笑い、かごめも身体を起こした。
そこはなんの変わりもない夜の森。
見上げた空に浮かぶ月は遠く霞み、完全に真上に上るにはまだ間がありそうな角度で二人を見下ろしている。
フクロウの鳴き声に混ざって珊瑚と犬夜叉の声。
かごめは力が抜けたのかぺたんと座り込んだ。
「さっきまでいた場所って、何だったんだろ…弥勒様?」
目を向けると、弥勒はぼんやりと森の上を見つめている。
「申し訳ありませんが、かごめ様…。今はまだ上手く説明出来ません。もう少しだけ時間を下さい」
それだけ言って、弥勒は胸を押さえた。
 
胸が痛い――押さえつけられているように。
大妖に示された、拒絶の言葉が胸に堪えている。
身の程を知れと、そう突き放されたのだ。
勝手な思い上がりだったのだろうか――あの方と自然に話せると思っていたのは――自分だけの勝手な勘違いだったのだろうか。
もっと近付きたいという願いがあっけなく砕かれた思いで、弥勒は全身の力が引いていくのを感じる。
そして何より、あの妖が心に抱えている関を破る事が出来ない自分の無力さがもどかしい。
 
 
どうすればよいのだろう。
その思いだけがぐるぐると脳裏を巡る。
そして思い出すのは、表情を無くした面(おもて)の中、僅かに揺らいだ妖の瞳の色だけ。
 
永の時を生きる妖の、積み重ねられた孤独が見えたような気がした。