◆ 弥勒寺 ◆

 


 
3年、このお寺にお参りしてごらん。
もう逢えないはずの人に逢えるんだよ。
 
 
耳に届いた言葉にりんは顔を上げた。
ごく普通の里の、普通の畑の脇道を歩く老婆と幼い子供。
その道をずっと歩くと参道があってその上には山寺。石段の横の石碑の文字は、りんには読めない。
老婆は幼い子供に言い聞かせながらお寺に続く石段を上ってゆく。
 
「明日のお祭りの日は、死んだ者の魂が帰る日。3年、このお寺に通ってお参りすれば、きっと死んだ母ちゃんが姿を見せてくれるよ」
 
りんはその二人の後ろを歩きながら、老婆の言葉を心に留める。
『死んだ母ちゃんに逢えるんだよ』
おとうとおっかあと兄ちゃん達。
3年お参りしたら、りんももう一度逢えるのかな。
 
 
 
「寺にお参りじゃと?何を言ってるんじゃ、お前は!」
人頭杖を振り回しながら、呆れかえった邪見が怒る。
りんは唇を尖らせると、不満そうに上目遣いになった。
「そんな目で見ても駄目じゃ!一日ふらふらとどこに行っていたかと思うと、人間の寺のそれも祭りの日にお参りに行きたいなどと、何を考えているんじゃ、この小娘は!」
りんはぷっと頬を膨らませると、少し離れた岩の上に座っている筆頭保護者の所へ駆け寄った。
「こりゃ、りん!殺生丸様におねだりしたって無駄じゃ!」
さっきまでとは違う口調で邪見が怒鳴る。妙なことを口走るりんが叱られるのは勝手だが、自分にまでとばっちりが来ては叶わない。
後ろでワアワア騒いでいる邪見を無視して、りんは殺生丸の袂を引いた。
相変わらず、無表情な金の瞳を向ける保護者に、りんは気後れすることなくお願いする。
「お願い、殺生丸様。明日のお祭りの時に、お参りするだけでいいの。お願い!」
何度も何度も言うりんに、殺生丸は僅かに考えるそぶりをした。
 
 
◆◆
 
 
『3年お参りしたら、逢いたい人に逢えるんだよ』
 
「3年どころか、5年もたっちまってるけどな」
 
弥勒寺――
 
自分と同じ名を刻んだ寺の石碑の前で、弥勒はため息をついた。
寺に続く石段下の路傍では市が立ち、村の娘達が町から来た珍しい簪などを前にきゃあきゃあと歓声を上げ、湯気の立った饅頭を子供が親にねだっている。
この上の境内にも、いくつかの露店が出来ているはずだと、もう通いはじめて5年目の弥勒は思い返していた。
 
弥勒寺は寺自体はそう大きくないが、寺の奥から続く山には広い石窟がいくつもあり、その中には古い地蔵や仏の像が無数に収められている。
3年通ってそれらの像に願を掛けると、逢いたい人の姿を仏の像の上にかいま見ることが出来る――そういう言い伝えに近在はもとより、離れた町からもたくさんの人々がこの日は訪れるのだ。
風の噂にその事を聞いて訪れたものの、3年目、弥勒は願を掛けた相手に逢うことは出来なかった。
 
(ま、所詮は噂。こんなものでしょ)
そう思ったものの、何とはなしに今も通い続けている自分に、結構未練がましいところがあったものだと弥勒は1人苦笑する。
賑わう市をあとに、弥勒は石段を登り始めた。
ふと、見上げると。
上を登っているのは、被衣姿の若い女と、赤い着物を着た小さな娘。
若い女の着物の裾から覗く白い足首が、目にまぶしい。
弥勒は、だらけていた顔を引き締めると足早に石段を登り、女達とならんだ。
何気ない動作で女の顔を窺うと、深く被っている衣のせいで口元しか見えないが、白い顔のほっそりとした顎の線と、淡く色づく形のいい唇に、かなりの美形だと内心で万歳をする。
さて、なんと言って声をかけようか。
子供は侍女か何かだろうか――いろいろと思いめぐらしながら、子供の方にも目を向ける。
「お?」
思わず声が出た弥勒を少女が見上げ、こちらも声を上げた。
「あ、お坊様!」
少女はりん――そうするとこの女は?
「失礼」
弥勒が思わず被衣に手をかけると、女は身体をすうっと引き、顔を見せた。
「この無礼者が…」
いかにも忌々しげに紡がれた声は、艶やかではあるが間違いのない男の声。
被衣の下から、不機嫌そうに細められた金の瞳が、弥勒を睨め付けていた。
 
 
「いやあ、まさかこのような場所でお逢いできるとは、縁とは不思議なものですなぁ」
寺の境内の隅で、弥勒が嬉しそうに隣に立つ人に話しかける。
話しかけられた方はいかにも迷惑だと言わんばかりのそぶりだが、法師から貰った小遣いを手に菓子を売る店を覗いて回っているりんを置いてその場を立ち去るわけにもいかず、憮然としたままだ。
「それにしても、よくお似合いですな。なんでまた、女性のお姿など?」
「…顔を隠すのに都合がいいからだ。他意はない」
「若衆姿で深笠を被るという手もあったと思いますが、…いや、子供連れではそちらの方が目立ちますな」
上流の女姿ならば小娘を連れて歩いても不思議はないが、若衆姿では少々悪目立ちするかも知れないと1人納得し、弥勒は頷きながらまた被衣の下を覗き込んだ。
 
退紅色の地の肩と裾に雁木の模様を染めた小袖と、深草の網代の帯。藍の地に流水模様の被衣姿。
銀の髪は前に落ちないように後ろで纏め、普段は沓を履いている足も今日は草履で白い素足が見えている。
女性にしては長身ではあるが、無骨な鎧よりははまって見えるような、そんな雰囲気である。
人外の色を持つ髪と目のせいで天人の赴きさえある姿に、弥勒は目を細めた。
「いや、実に目の保養になりますな」
「…気色の悪い声を出すな」
「誉めておりますのに」
「何やら不気味だ。じろじろ見るな」
体を離そうとする殺生丸を、弥勒は知らぬそぶりで引き寄せた。
「私から離れますと、かえって面倒なことになると申しましたでしょ?連中はまだこちらを見ておりますゆえ」
ちらりと法師が見た方に殺生丸も目をやり、また鬱陶しそうに息をついた。
 
元々一緒にいるつもりなどなかったのだが、どうやら小娘連れで女姿の殺生丸に目を付けた地侍が何人かいたようで、「いくら傍若無人な連中でも、寺の境内で法師と共にいる女性に無体は働きますまい」という弥勒に渋々従っていたのである。
その問題の地侍は数人で固まってまだこちらを見ている。
りんが満足して帰ると言い出すまでは騒ぎを起こすわけにもいかず、殺生丸は憮然としたまま視線を落とした。
「まあ、そうご不満そうに嫌な顔をなさらず。子供にはこういう経験も必要ですよ」
りんはあめ玉を何個か買ったようで、笹の葉に包んでもらって嬉しそうに懐にしまっている。
その様子を黙って見ている殺生丸に、弥勒はにこにこと話しかけた。
「兄上殿は願掛けはなさらないので?」
「別に逢いたい者などおらぬわ」
そっぽを向いてそう答える殺生丸に、弥勒はわざとらしい手つきでその肩を抱き寄せた。
じろりと睨むと、飄々とした悪びれない答え。
「美女が1人でいると、必ず悪い虫が寄ってきます。私と親しい振りをしていた方が、まだ面倒が少ないですよ?」
「…坊主のくせに、おなごに手を出してもよいのか」
「まあ、それはそれ、というもので。あまり固いことを申されますな」
ニコニコしながら、肩に回した手を放す様子はない。通りすがりの娘達が、若い男前の法師と被衣姿の女の様子を痴話喧嘩かと、くすくす笑いながら横目で見ていく。
あまりバタバタしていると注目されるだけだと気が付き、殺生丸は不本意ながら逃げるのを止めた。
 
 
「貴様は願掛けをしているのか?」
不意にかけられた声に、弥勒はおや?という顔をしたが答える前にりんが戻ってきた。その手には、さっき買った飴の包みと、串に刺した焼きたての味噌餅。
「美味しいですか?」
弥勒がそう訊くと、りんは餅を頬張りながら大きく頷いた。
「殺生丸さまー。これ、美味しい」
無邪気に訴えるりんに、殺生丸は無言で頷く。
「さて、買い物が済んだのなら、そろそろお参りに行きますか」
弥勒が促すと、餅を食べ終わったりんは小走りで寺の奥へと向かった。
「さて、私どもも参りましょう」
当たり前のように手を回してくる弥勒を殺生丸は睨むが、若い法師は気を悪くした風もない。
たくさんの人の波に混じり、殺生丸達も寺の奥にある石窟に向かった。
 
 
寺の横を回り込んで奥へ行くと、玉砂利を敷かれた石窟前の広場は、境内よりもはるかに多くの人々がひしめいている。石窟の入り口には注連縄が仕切として張られ、その奥には無数の石仏。
立ち上る線香の煙で、むせ返るようだ。
弥勒は懐から線香の束を取り出すと、灯明から火を移してりんに渡した。
「これを仏前に供え、逢いたい人を思い浮かべながらお祈りするんですよ」
りんはこくんと頷くと、線香を握って駆けて行く。
「火が点いているんですから、転ばないように気をつけるのですよ」
そう弥勒が声をかけると、りんは振り向いて頷き、また駆けていった。
小さな身体はすぐに人混みにまぎれて見えなくなってしまう。
殺生丸は人の通らない木の陰で、黙って人々の様子を見ていた。
境内のあちこちに無数にある仏像。その前で頭をたれる多くの人々。
何をそんなに祈っているのだろう、と殺生丸は思う。
(…下らぬ…死んだ者との再会を願ってなんとする…)
 
日が暮れかけると、寺の僧侶達が鉄籠に盛られた薪や石灯籠に火を入れた。
「もう少しすれば、薪能が行われます。なかなか幽玄でよろしいものですよ」
御灯(みあかし)の影に揺れる周囲を眺めながら言う弥勒の声は、先ほどまでと少し調子が変わっている。どこか寂しげで、人々を見る目も違う別の場所を見ているようだ。
不意に少し離れた場所で女の泣き声が上がった。
そちらに目をやると、何列も並ぶ地蔵群を前に白髪の老女が翁に抱きかかえられるようにして泣いている。
泣きながら数珠をもみ、何度も何度も地蔵に向かって頭を下げている。
「…あの方は逢いたい方にお逢いできたのでしょうな…」
「?」
「あそこにあるお地蔵様方は、なんでもない者には皆同じ顔に見えます。ですが、時には幼くしてなくした我が子の顔に見えるお方もいるそうです。あのご夫婦も、きっと我が子と再会できて喜んでいるのでしょう」
弥勒の声にも瞳にも羨望が混じっている。
黙って見ていると、法師は妖の視線に気が付き、照れ隠しのように笑った。
 
「兄上殿は、どなたかいらっしゃらないのですか?逢いたいと思われるお方とか」
「おらぬ」
素っ気なく答えたあと、殺生丸は不快げにしかめた顔のままで弥勒に問う。
「貴様は願掛けをしていたのであろう。願いは叶ったのか?」
「…あいにく、未だに叶っておりません…普段の行いが悪いようで」
「さもありなん。坊主でありながら菩薩の名を名乗るなど不遜の行いをしていれば、仏も加護を与える気にはならぬだろう」
突き放した物言いに、弥勒は僅かに寂しげな笑い方をした。
「父は私に弥勒菩薩の救いの手がさしのべられるようにと、願いを込めたのでしょうな…」
独り言のように呟く。
「兄上殿の名には、どういった意味合いが込められているのでしょうな」
不意に話題を逸らすように言う弥勒に、殺生丸は眉を潜めたあと、冷然とした笑みを口元に浮かべた。その右手の指を伸ばし、爪を法師の喉元に当てる。
「言わずもがなの事。私の本性を現しているのだろうよ」
「なるほど、殺生を好む性であると。では、私の命は文字通り、兄上殿の掌(たなごころ)の上と言うことですな」
弥勒はにっこりとしながら喉元に突きつけられた危険な手を掴む。
その気になれば弥勒の首など、枯れ枝よりも簡単に落とすだけの力を込めた細い手。
殺生丸は小さく舌打ちすると、捕まれた右手をおろした。
「挑発するつもりはなかったのですよ。お気を悪くなされましたか?」
「別に」
横を向いた殺生丸の機嫌を窺うように、弥勒はその横顔を覗き込む。
ふと。
殺生丸の白い顔の向こうに見えるものに、弥勒は目を見開いた。
 
 
祭りを楽しみ笑いさざめく者と、立ち止まって願を掛ける者。
走る子供にそれを追う親。
様々な様子の人々が行き交う向こうに見える、笠を被り、錫杖を持った僧衣の男。
そこに弥勒は懐かしい笑顔をみた。
別れを告げる間もなく消えた父――旅暮らしで陽に焼け、呪いを背負いながらも磊落に笑い続けていた屈強な父の、どこか申し訳なさそうな笑顔。
たった1人残した息子を気遣うような、詫びるような、そんな顔。
 
『親父…』
黙って一点を見つめる弥勒に、殺生丸は不審げに視線の先に目をやるが、妖には法師が何を見ているのか判らない。
 
『すまなんだな、弥勒よ。不甲斐ない父で……』
 
そんな声が耳元で聞こえるような気がして、弥勒は泣き笑いの顔で首を振る。
『大丈夫だよ、親父。俺は何とかやっていける。今度こそ――きっと呪いを解いてみせるから、気にするな』
 
そう胸中で告げると、視線の先の父は息子を頼もしそうに見やり、そして消えた。
弥勒はしばらく動かずに虚空を見つめたあと、深々と頭を下げる。
そして隣で自分の様子を無言で見ている妖に向かい、照れくさそうに笑った。
「無事に願いが叶いました。これは兄上効果かも知れませんな」
「なんのことだ?」
「私の父ですからな。息子の横にいる美女の姿に引かれてふらふらと現れいでたに違いありません。いや、まったく。なんとも…」
言葉に詰まった弥勒は、滲む目元を誤魔化すように擦った。
「出来たら、来年もまたご一緒していただきたいものですな、今宵のような艶姿で。
今度は、じい様も逢いに来てくれるかも知れませぬゆえ」
「ごめんだな」
素っ気ない殺生丸に、弥勒はにこにこと食い下がる。
「どうせ、あと2年は通ってくるのでしょう?あの少女の願のために。ぜひとも、その時はご一緒いたしましょう。
ああ、せっかくですから、兄上殿も願を掛けてみたら如何です?」
「逢いたい者など、おらぬと言うに…」
懲りない男に辟易したように殺生丸は視線を逸らした。
人混みの向こうから、拝み終わったりんが手を振って駆けてくる。
 
「おお、戻ってきましたな。それでは、能舞台の方にまいりましょうか」
機嫌良く言って、弥勒は殺生丸をみた。
そして――静かに息を飲み込んだ。
 
 
殺生丸は僅かに目を見張るようにして、行き交う人々を見ていた。
だが、その視線は、見知らぬ人々もりんすらも超え、自分だけに見える物を追っている。
弥勒は躊躇いがちに問いかけた。
「…どなたか、いらっしゃいましたか?」
殺生丸は遠くを見据えたまま、返事をしない。
「兄上殿?」
もう一度問うと、抑揚のない声が低く答える。
 
「誰もおらぬ」
 
遠くで笛の音が聞こえ始め、人の波の一部が逆に動き出す。
行く者、来る者、泣く者、微笑む者。
篝火に浮かぶたくさんの人々の、たくさんの表情。
その向こうを、殺生丸はじいっと見つめ続けている。
戻ってきたりんの手を引き、弥勒は心をどこかに飛ばしてしまったような妖を呼んだ。
 
「兄上殿…」
 
「誰も……おらぬわ…」
 
返ってきたのは、冬の木枯らしにも似た枯れた寂しい声。
行き交う人々は留まることなく、通り過ぎてゆく。
殺生丸がその人々の向こうに見たのがなんだったのか――弥勒が知る事は終ぞなかった。
 
 
 
 
 
 
 
*お盆に3年詣でをすると、亡くなった身内に逢えるという弥勒寺は、東北に実在するそうです。
私は行ったことがありませんが…。