◆ お狐様騒動顛末記 前 ◆


 
小さな村のはずれには大抵小さなお堂がある。
ご本尊様を安置したり、葬式などの時に使う共同の道具を収めておく場所なのだが、そこに最近妖怪が住み着いたのだと、案内の名主が言った。

「堂守が見つけて、腰を抜かして逃げてきましてなぁ。ですが、御坊様にお祓いを頼んだところ、何もいないと言われまして」
しみじみとため息を付く名主に、いかにも頼りになる法師然とした弥勒が訊く。
「で、いなかったのですか?」
「やっぱりいるんです」
「どっちなんでぇ」
イライラと犬夜叉が言う。名主は困り切った長いため息を付く。
「昼間いるのです、大抵、いるのです。ですが、御坊様は妖怪っちゅーのは夜に出るものだと言いまして、昼に出るのはきっと狸にバカされてるだけだろうっちゅーて、とりあってくれんのです」
人の良さそうな名主の老人で嘘を言っているとは思えないのだが、だからといって本気で怯えているようにも見えない。
なんといっても、その妖怪に実際に悪さをされた村人もいないらしく、危機感が起こりようがないのかも知れない。
当然、救いを求められた筈の犬夜叉一行も、のほほんとした雰囲気のままで問題のお堂の前まで行く。
「妖気を感じる?」
首を傾げながら言う珊瑚に、犬夜叉も胡散くさげに首を傾げ「なんの匂いもしねー」と答える。
それを聞いてまた名主も困り顔をする。弥勒は緊張感の欠片もない顔でお堂の扉の前に立つと、「それでは開けますよ」と声を掛けた。
上半分障子になっている扉の片方を一気に開ける。
弥勒は、目の前にある「物」に無表情で驚いた。
そこには大入道の大首だけがぎょろ目を剥き、お堂からあふれ出す寸前の恰好で鎮座していたのだ。
初めて自分の目で見たらしい名主が、大きな口を開けたままで尻餅を付いた。


大入道の大首。だが犬夜叉達は呆気にとられた風にただそれを見つめるだけだった。
「妖怪?」
「妖気なんて感じないよ!」
「弥勒!そっから離れろ!」
至近距離で大首と見つめ合った形のままの弥勒に、鉄砕牙を抜きかけた犬夜叉が叫んだ。
「……はあ」
気の抜けた声を出した弥勒がしたのは、慌てず騒がず懐から符を取り出すこと。
弥勒は、目の前にある大首の眉間に札を無造作に貼り付ける。
すると、恐ろしげな顔をした大入道の大首は、一瞬で煙になって消えてしまった。
仲間達が興奮した声を上げた。
「消えた!」「今の何、アレ!」
「あれはなんなんでぇ」
大股で近付く犬夜叉を制し、弥勒は惚けた顔つきでお堂の中にはいる。ややあって出てきたときは、その腕に小さな小さな生き物を抱いていた。
「何、それ…」
「お狐様ですよ」


周りに近付いてきた仲間達に、弥勒は見つけた生き物を見せた。
弥勒の手の中で震えているのは、それこそ掌程の大きさの真っ白の小狐。
その尾は2本に別れ、か弱くはあるが神々しい気を放っている。
「どこから迷ってきたのでしょうね。おそらくは人の気配に怯えて、人が近付かないように幻覚を見せていたのでしょう」
「ふうーん…ちっちゃくて、可愛い…」
女の子らしいことを言って微笑みながら珊瑚が近付く。だが、次の瞬間、小狐は『ピィ!』というような甲高い鳴き声と共に毛を逆立て、弥勒の懐の中に素早く逃げ込んでしまった。
「おやおや」
自分の懐でがたがたと震える白い狐に、弥勒は目を丸くする。
「ええー、なんで?あたし、嫌われてるの?」
傷ついた顔をする珊瑚を、七宝が慰めた。
「多分、肩の上の雲母が怖いのじゃろう。狐と猫は相性があまり良くない」
「随分とまあ、臆病なやつだぜ」
ひょっこっと犬夜叉が顔を近づけ、懐からこそっと鼻面を出した小狐を覗き込む。
『ヒギャ!』
今度の鳴き声はさっきよりも大きかった。
「言い忘れておったが、本当は狐と犬も相性があまり良くないのじゃ」
七宝の言葉と同時にさっき見たのと同じ大首が突然犬夜叉の頭上から降ってくる。
「うぎゃ!」
悲鳴と共に犬夜叉は大首に押しつぶされていた。


「おい、弥勒!その狐にこいつを退けさせろ!」
「そう言われましても…」
大首の下から怒鳴る犬夜叉に、弥勒は申し訳なさそうに言う。
「お狐様はよほど怯えられたのか、完全に失神しておられます」
白い小狐は弥勒の懐で、カチンと硬く動かなくなっていた。
「どこか安全な場所に戻してやらねばなるまいのう」
「はあ、私もそう思いますよ」
七宝と弥勒の呑気な会話に、犬夜叉が怒りを抑えた低い声で言う。
「てめえ、弥勒。さっき幻覚とか言いやがったな。この大首、むちゃくちゃ重いぞ」
地面にめり込みそうになる程の、下から這い出すのも容易ではない重さに、犬夜叉は顔を真っ赤にして喘いだ。
「おや、そうですか」
「そうですかじゃねえ!」
「お狐様を驚かしたから、天罰、という物でしょう。きっと気が付かれたら、それも消えますよ」
「そんな、いつになった気が付くの」
心配そうなかごめを宥めるように法師は笑顔で答えた。
「そう心配なさらずに、かごめ様。そうですね、このままここにいたら、気が付いた瞬間にまた犬夜叉に驚いて気を失うでしょうから、永遠にこのままかも知れませんね」
「てめえ、嬉しそうにしゃべってんじゃねえ!」
「弥勒様、…それじゃ全然あたし安心できない」
「やっぱりそうですかねえ」
爽やかに笑う弥勒に、かごめは恨めしそうな顔をした。



結局、弥勒は1人で白い狐を連れて森の中を歩いていた。
人気のない山奥に帰してやろうと思ったのだ。
自分が村から出るとき、まだ犬夜叉は大首の下でもがいていた。
「でも、まあ、珊瑚とかごめ様が手伝ってたし、そのうちに何とかなるでしょう」
無責任なことを呟きつつ、弥勒は懐の白い狐を包むように手を当てる。
「一体、どうしてこんな人里に迷い出てしまわれたのでしょうね。こんなに臆病では、どこにも行くことが出来ないでしょうに…」
歩く弥勒の前を、杖を持った小さな影が横切る。
左の藪から、右の藪へ。
弥勒が何事もなかったかのように歩き続けていると、またその直前を横切る。
今度は右から左へ。
弥勒は無言で左の藪の方を眺めていたが、また気を取り直して歩き始める。
すると、左の藪で音がして、杖を持った影が3度目に弥勒の前を横切ろうとする。
「……」
弥勒は、つと足を出してその影を引っかけた。
べちょっと山道の真ん中に転がった小妖が、跳ね起きるとキンキン声で喚きだした。
「こりゃ!いきなり何をするのじゃ!」
「何をするとはこっちの台詞なんだがなぁ、さっきから何してやがる」
殺生丸の従僕たる小妖、邪見の頭を鷲掴みにし、弥勒はドスの利いた声で問うた。
「貴様には関係ないわい!って、…あーーーーーー!」
邪見が大きな声を上げながら、視線を弥勒の右から左へと大きく動かした。
弥勒がその方向に目をやると、右の藪から飛び出してきたらしい野ウサギが左の藪の中に飛び込んでいくところだった。
「……兎?」
「あーあ、しらんぞ、わしは!貴様のせいじゃからな!」
弥勒の手を振り解いて距離を取った邪見が、きゃんきゃんと喚いた。
また右の藪から音がして、今度は少女が飛び出してくる。
「邪見様!兎、捕まえた?」
そう開口一番に言ってから、りんは弥勒に気が付いたらしい。
邪見はすかさず言う。
「そやつが邪魔をしおったせいで、逃げられてしまったわい!」
「えーーーーーーー?」
りんが非難の眼差しを弥勒に向けた。じいっと見上げられた弥勒が狼狽える。
「あ、これは失礼。狩りの真っ最中だったとは思わなかった物で」
「せっかくここまで追いかけてきたのにー、美味しそうだったのにー」
普段はにこにこと愛想のいいりんだが、やはり食べ物の恨みは根暗く深い。
弥勒は不穏な空気を感じて、慌てて懐を探った。
「ちょっと待ってください、確か、餅が残ってたはず」
その手元をりんが背伸びして覗き込む。そして、ぱっと顔を明るくした。
「弥勒様!その白いの何?」
「え?ああ、…お狐様です、神様のお使いですよ。ちょっとだけ抱いていてください」
少女の興味が食べ物から逸れたのを察し、弥勒はまだ気絶している白狐をそっとりんに抱かせてやった。
「うわーー、ふかふか、ちっちゃーい…」
りんがその小さな身体に頬ずりする。
「迷子になってしまったようなので、森に帰してやろうと思ってお連れしたのです」
「可愛いー……殺生丸様に見せてきてもいい?」
弾んだ声で少女が問う。完全に兎を逃がしたことを忘れてくれたようで、弥勒は愛想笑いで頷いた。
「おや、殺殿も近くにいらっしゃるのですか。それはまた上々」
「じゃ、先に行ってるねーー」
りんは小狐をしっかりと胸に抱き、山道を勢いよく走っていった。
「まったく調子のいい奴じゃ」
「はあ、そうですか。殺殿もおいでになるとは、これはお狐様のお導きですかね。やはり骨身を惜しまずお連れしたのが良かったのでしょう」
機嫌良く歩き出したとき、弥勒は何かを忘れている気になった。
「……なんか、忘れてるような気がする」
「りんに餅をやるのじゃろうが。わしはもうしらんぞ。あやつの飯はお前が調達するのじゃぞ」
邪見がつんけんと言う。
「そんなのじゃありませんよ、……なんだったか」
唐突に思い出した。狐が気絶した原因は、犬の妖怪の血を引く犬夜叉の妖気に驚いたからではないか。殺生丸は文字通り完全な妖犬。
もしもあの子狐が驚いて例の大首を殺生丸の頭上に降らしたりしたら……。
「うわああ、こりゃ、やばい!やばすぎる!」
弥勒は叫ぶと邪見の襟首をつまみ上げた。
「おい、殺殿はこの先か!」
「なんじゃ、急に!殺生丸様はこの道を登った所じゃ」
「りんーーーーー!」
弥勒は邪見を荷物のようにぶら下げると、慌ててりんを追いかけて走り出した。

「ひえええええーーー」
振り回され、邪見が踏みつぶされた蛙を思わせる悲鳴を上げた。
「こりゃ、法師!わしを置いてけーーー!」
自分の襟首を掴んだままで森の中を走る弥勒に、邪見は必死で抗議を声を上げたがまったく無視されてしまった。
というか、掴まれていることすら忘れられているのか、邪見は完全に宙に浮いた恰好ですれ違う木の枝や幹に何度もぶつかり、こぶだらけで意識が朦朧としてくる。
弥勒がそうやって木々に邪魔されている間に、小柄なりんは木の間をくぐり抜けてどんどん先に行ったらしく、なかなか追いつかない。
「……わしを置いてけ〜〜〜〜〜」
小妖が目を回したままようやくそれだけを言った時、弥勒の目に草の生い茂る斜面を気持ちよさそうに滑り降りていくりんが見えた。
「りん!」
弥勒は急に持っていた邪見が邪魔になったのか、小妖をその場に放り投げた。
「投げ捨てるなーー!」
草の上に転がった邪見の怒りの声を後に、弥勒はようやく足を止めて振り向いたりんの側に駆け寄った。幸いなことに殺生丸の姿はない。
弥勒はせっかく機嫌を直したりんがまたへそを曲げないように、精一杯の愛想笑いで言った。
「あの、すみません…どうやらこのお狐様は、妖気に弱いようで、その…」
りんは狐を抱いたまま、きょとんと弥勒を見上げる。
「いやいや、弱っているようなので、一刻も早く森に帰してやらねばなりません。残念ですが、殺殿に見せるのはまた次の機会に…という事で」
弥勒は何気なさを装い、よく分かっていないらしいりんの手から白狐を取り返した。
残念だが今日は殺生丸に合う前に戻った方が良さそうだ――そう思い、弥勒は後ろ髪を引かれるような長い長いため息を付きながら、森へと戻ろうと踵を返す。
だが体の向きを変えた瞬間、目の前に誰かが立っていることに気が付いた。
「あ、殺生丸様!」
りんがにこっと笑って名前を呼ぶ。気配もなく背後に立っていた殺生丸に、弥勒はぎょっとした。その焦った顔に、珍しく殺生丸が関心を向けたらしい。
「……どうした」
「えーと、それは、あの…」
せっかくの機会だ、向こうから声を掛けてきた、という嬉しさと、ここで白狐が気が付いたら非情にまずい、という相反する感情に、弥勒はしどろもどろになる。
殺生丸は眉根をよせ、僅かに首を傾げて弥勒の顔を覗き込む。
(あーーー、やばい、やばすぎる!そんなに近くで見られたら、逃げられねーじゃねーか!)
じっと見られてどぎまぎと焦った拍子に、白狐を抱く手に不自然な力がこもった。
「ピィ?」
最悪な状況で狐は目を覚ました。寝ぼけた鼻息をならしてひょいと小さな首をもたげた瞬間、弥勒を覗き込んでいた殺生丸と鼻面を合わせるような形になる。
狐の身体が倍以上に大きくなったように見えた。
弥勒の手の中で白い小狐は全身の毛を膨らませ、四肢をつっぱり尾を立てて恐怖を表現した後、森中の生き物が大合唱したかと思わせるほどの大きな悲鳴を上げた。 上げると同時に狐の身体から閃光が迸る。
傍らにいたりんは思わす腕で目を覆う。
「りんーーー、今の音はなんじゃ!」
弥勒に放り投げられた邪見が、ようやく駆けつけてきた。
「……あ…」
腕をおろしたりんが見たのは、草の上に全身を弛緩させて伸びている白い小狐だけ。
「殺生丸様と弥勒様……どこ…?」
「ああ?」
邪見が頓狂な声を上げて辺りを見回すが、どこにも見えない。
弥勒と殺生丸の姿は、その場から消えてしまっていた。


妄想置き場に戻る