◆ お狐様騒動顛末記 中 ◆


 
賑やかに歌うような鳥の声。
艶やかな花と瑞々しい新緑の匂い。
清々しく澄んだ空気。
弥勒は、くんと鼻を鳴らして薄目を開けた。
「気が付いたか」
そういう殺生丸の声が、下方から聞こえる。

(下?)
弥勒は急いで目を開け、殺生丸の声がした方を見た。
殺生丸は下にいた。というより、自分一人が何か弾力のある物の上に乗っている。
「なんだ、こりゃ」
弥勒は自分が乗っている物の端から身を乗り出し、その正体を確かめようとした。
ぎょろりとした大目玉が下から弥勒を睨む。
「い?……わ!」
弥勒が驚いて大声を出すと、彼を乗せていた大目玉の主も驚いたらしい。ぐらっと大きく揺れて、弥勒はそこから殺生丸がいる下方の草の上に投げ出されていた。
ぱっと跳ね起き、弥勒は自分が乗っていた物を正面から見た。大目玉が今度は下にいる弥勒を見る。
「……はあ…」
声もない弥勒を見ているのは、さっき犬夜叉を押しつぶしたのと同じ、大入道の大首。草の上に大きな顔だけがあって、弥勒をじっと見ている。
弥勒が半分口を開けたまま見返していると、大首は愛嬌のある顔つきになってにまっと笑った。
つられて弥勒もにっと笑うと、大入道は満足したようでニコニコと笑った顔のままで草の上を跳ねてどこかへ行ってしまった。
顔だけが跳ねている、という現実ではあり得ない光景を呆然と見送った後、弥勒は張り付いた笑顔のままで殺生丸に向き直った。

「……あのーーー、ここは一体どこでしょう」
「私が知るわけがあるまい」
気持ちよいほどきっぱりとした返事に、弥勒は笑顔のまま半泣きの気分になった。



「ええい、殺生丸様は一体どこに消えてしまわれたのじゃーーー!」
邪見が右往左往しながら半狂乱で騒いでいる。
りんはそれを無視して、そうっと気絶している狐を抱きしめた。
狐の身体はまったく力が入っておらず、ぐんにゃりとしてりんの手の中で長く伸びきっている。それに気が付いた邪見が口から泡を飛ばした。
「そ、それが原因か?あの法師はまったくろくな事をせん!りん、早う、その狐をどうにかするのじゃ!いっそ首など絞めてしまえ!」
「そんなの駄目だよ!」
りんはきっと目を尖らすと、小狐を胸に抱いて立ち上がった。
「この子、神様のお使いで、妖気に弱いって言ってた!きっとびっくりしただけだよ!気が付けば、きっと殺生丸様達を返してくれる」
「いつ気が付くのじゃ!そんなの判るものか!」
人頭杖を振り回す邪見の言い分に、りんは思案顔になる。
が、顔を上げると、きっぱりと言った。
「この子、きっと赤ちゃんなんだよ、だからこんなに身体も小ちゃいんだ。きっと、神様のおっ母かおっ父がいて、探してるはずだ!」
りんは邪見にぐっと詰め寄る。
「お願い、邪見様!一緒にこの子のおっ母かおっ父を探して」
「りん、そんな事、わからんではないか…」
必死のりんを宥めるように邪見が言う。りんは言い張った。
「絶対にいるよ、探してる!だって、こんなに小っちゃいんだもの!」
りんは小狐を抱いたまま、大きな声で辺りに呼びかけた。
「狐の神様のおっ母におっ父!赤ちゃん、ここにいるよ、返事して!」
「はあ、…まったく」
小さな身体で声を張り上げるりんに、邪見は長い息を吐く。そして諦め顔で声を張り上げた。
「おーい、狐の母御、父御!おるならば返事をせーい!」


その世界は美しく、そして間違いなく異常だった。
黄金の稲穂が広がる田んぼの横には、真っ白な雪景色。
レンゲと桔梗とススキが同じ草原に混在して咲き乱れ、美しく花を咲かせた桜の木と、たわわに実を付けた柿の木が向かい合って立つ。
かなり神経が図太いつもりだった弥勒も、ここまでおかしいと頭の中が真っ白になる。
「……どういう世界でしょうか…」
草の上に座り込んだままで呟く弥勒に、通りかかった鴨の家族がにんまりと笑ってみせる。つられた弥勒がまた笑い帰すと、鴨一家は雛まで一緒になって飛び立っていった。
弥勒は立ち上がってそれを見送ると、隣の殺生丸に呆とした声音で話しかけた。
「鴨が笑っておりましたな」
「笑っていたな」
「雛が飛んでいきましたな」
「いったな」
「どうして、そう冷静なんですか」
「貴様は混乱しているのか」
その質問に弥勒は、呆れ果てたように答える。
「この状況で混乱しない方がおかしいかと存じますが」
「そうか」
至極冷静に答えた後、殺生丸は唐突なことを言った。
「貴様、右手の様子はどうだ」
「私の右手…ですか?」
弥勒は封印の数珠をまいた風穴のある右手を眼前に持ち上げた。
「別に変わったことなど…」
そう言って布を巻いた掌を撫で、次にはぎょっとした顔でその布を剥がす。
そこには無かった――風穴が。
驚きに声を無くした弥勒に、殺生丸は「やはりな」と呟いた。
「……これはいったい…」
ようやくそれだけを口にした弥勒に、殺生丸は自分の手を見せた。
それは、失われたはずの左手。
目の前の殺生丸には、両腕がちゃんと揃っている。
「毒は使えない」
殺生丸は右手を眺めながら、あっさりとそう言う。
「……風穴が無く、左手があり、毒が使えない…という事は…」
「簡単なことだ。ここにいる私達は本物ではない」
「本物ではない…」
弥勒はその言葉の意味を噛みしめるように繰り返す。
「その者は貴様に風穴があることを知らない。人は普通風穴など持っていない。だから貴様にも風穴がない。そして、その者は私が隻腕であること、毒を使うことを知らない。だから私には両腕があり、毒が使えない。ここは、何者かの意識化の世界。私達も、その一部と化している、という事だ」


「何者かの意識化の世界……」
弥勒は少しの間、ぼんやりと考え込んでいたものの、やがて得心のいった顔を上げると、晴れ晴れとした顔で笑った。
「ならば判ります。ここはきっとお狐様の頭の中でしょう。先程の大入道の首を見た時に気が付くべきでした」
「お狐?」
今度は殺生丸の方が疑問顔になる。余裕を取り戻した弥勒は、ニコニコしながら説明を始めた。
「実は、先程里で山の神のお使いと思われる白い小狐を拾いました。そのお狐様がまた、非常に臆病なお方でして、人は怖い、猫は怖いで、あげくに犬夜叉にも怯えて失神した折りに、先程私が乗っていた大入道の大首を犬夜叉の頭上に落として押しつぶしておりました。どうやら、あれはお狐様が自分の身を守りたいときに作り出す式神のような物なのでしょう。その姿が常に頭の中にあったとしてもおかしくありません」
「では、その狐は私に驚いたのか」
殺生丸の早すぎる理解に、弥勒はニコニコした顔のままで凍り付く。
「あの、別に殺殿がお悪いわけではありませんので…悪いというなら、私というか、なんといいますか」
「私が悪かったなどと、誰が言った」
「……誰も言っておりません…気を回しすぎました」
弥勒はしょんぼりと項垂れる。今一つ会話の主導権が握れず、殺生丸が何を考えているのかもよく分からない。

結局、この事態を招いた自分を怒っているのかいないのか。怒っているならいっそ殴り倒してくれればいいのに、と思うのだが、殺生丸は相変わらず無表情なままだ。
場が保たなくて、弥勒は何か手持ちぶさたなのに気が付く。
持っていたはずの錫杖がない。
落ち着いてみると、殺生丸の腰にある筈の二振りの刀もない。
「……刀、どこぞに置いてこられましたか?」
そう訊くと、短く「否」という答えが返る。殺生丸自身もなぜ刀が無いのか、理由が判らないらしい。
弥勒は「推測ですが」と断った上で自分の考えを話した。
「このお狐様は非常に臆病です。ですから、自分の意識下は例え形だけであっても争いを招く武器は存在させない……それでここにないのかと」
「難儀なことだ」
「ですが、朗報であるかも知れません。少なくとも、ここでは突然なにかに襲われるという事はないのでしょう」
良い面を強調してみたつもりだったが、殺生丸の反応は薄い。
そもそも戦いを避けるとか厭う性情ではないので、敵に襲われないという事は別によい情報でもなんでもないのだろう。
さて、どうやって機嫌を直して貰おうと頭を絞る弥勒の前で、殺生丸は不意に横を向いて歩き出した。それを慌てて追いかける。

「お待ちを、殺殿。どこに行かれるので」
「ここにいても仕方はあるまい」
「ですが、どこかに出口がある、というものでもないでしょう」
「では、貴様はここにいるがいい」
「……それは、またつれない事を」
引き留めようと、弥勒は思わず殺生丸の左手を掴んだ。
掴んだ後、思い切ってぎゅっと手を握った。殺生丸は歩みを止めて弥勒を見る。
「危険はないかも知れませんが、やはり何があるか判らない場所です。離れないように手を繋いで歩くのが良いかと存じます」
居直って言い切ると、弥勒は先にたって歩き出した。手を掴まれているので殺生丸も一緒に歩き出す。
「別に手を繋ぐ必要などない」
「いえいえ、油断は大敵です!」
この際だとばかりに弥勒は殺生丸の手を引き寄せる。
「このお狐様は非常に臆病です。こちらがこれくらい、と思った程度のことでも怯えて何を引き起こすか判りません。ですから、こちらも出来るだけ静かに、穏やかに脱出の時を待つのが得策。その為にも常に一緒に行動するのがよろしいかと存じます。それに……」
言葉の続きを待つ殺生丸に、弥勒は持ち前のしたたかさで言い放った。

「こうやって殺殿の左手を握るなど、本来ならば出来ぬ事ゆえ。せめて今の内だけでもと思えば、手を放すなどもったいなくて出来ませぬな」
あまりにもきっぱりと言い切ったので、殺生丸は逆に真意が判らなかったらしい。
弥勒は改めてその手を握りなおすと、あっけらと明るく言った。
「さて、せっかくの機会です。この世界の探索などいたしてみましょう」
それからまだ顰め顔の殺生丸に、年長ぶった言い含める口調になる。
「それから、先程も申しましたように、このお狐様は非常に臆病です。突発的な行為をして驚かせませぬように。具体的に申しますと、私のこの手が不愉快だからと言っていきなり殴りつけたりなさらぬように、という事です」
弥勒は握った殺生丸の手を目の高さに持ち上げ、にっと笑った。
どさくさ紛れに接触を試みた場合、攻撃されぬようにという牽制のつもりなのか、その悪びれない顔つきに殺生丸は毒気を抜かれたのか低く息を吐いた。
「貴様の方からしかけぬ限り、私も何かする気はない」
「妙な真似をしたら道連れ、という事ですな。承知いたしました」
とりあえず手を繋いだくらいでは怒らないという了承を得て、弥勒は堂々と殺生丸の手を引いて歩き出した。
たいして反発がないのは、この世界には見られてまずい相手もいないからだろうと勝手に判断した弥勒は、殺生丸が普段と様子が違うことに気が付かなかったらしい。
殺生丸は弥勒に気が付かれぬように喉元を抑えた。

妙に息苦しい。
自分自身の存在感が希薄だ。
体の変調は、殺生丸にだけ現れていた。


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