◆ お狐様騒動顛末記 後 ◆


 

空はあくまで青く、木々はあくまで緑豊か、そして雲は真綿のように白く、そして柔らかい。

「お狐様の世界では雲も綿同様ですなぁ」
弥勒は珍しそうにフヨフヨと漂う雲を突っついた。
「乗ったら、乗れそうな気がしませんか?」
「せぬ」
連れは生憎とこの手の戯れ言にはつき合ってくれる気はないらしい。
それでも掴まれた手を振り解く気配はなく、弥勒は苦笑しながら「では、先に進みましょうか」と促した。
神の使いである小狐の世界は、限りなく柔らかで優しい気配に満ちていた。
そこでは見慣れている筈の鳥も獣もどこか剽軽で、闖入者である弥勒達に親しみに満ちた表情――文字通りの笑顔を向けてくる。
最初は驚いたものの、少し時間が経ってみればそれで当たり前なのだという気がしてくる。
現実のものより遙かに薫り高い花畑を抜け、岬の先端まで来る。
その先には藍を染め抜いたような海が広がっていた。

「これはまた、なんと雄大な。さすが、小さくとも神様ですな。頭の中に海があるとは」
少し興奮して言う弥勒に、殺生丸は不可思議な目を向ける。
「海が珍しいのか」
「初めて見た、とは申しませんが、ここまで美しい海は見た事がございませぬ」
「そうだろう、これは現実の海ではない」
素っ気ない物言いに興が削がれ、弥勒は不満げになった。
「それは承知しております。ですが、せっかくの機会なのですから、素直に美しさを楽しんでもよろしいではありませんか」
弥勒にしてみれば傍らには思いを寄せた妖がいる。邪魔をする者も気兼ねする相手もいない。
珍しい世界の興味以上に、逢い引き気分を楽しんでいたのである。
確かに状況から見たら浮かれすぎているかも知れないが、気難しい顔をしていてもどうにか成るわけではない。
悩んでどうにか成るのでないなら、いっそ楽しんでしまえ、というのが弥勒の信条である。弥勒は息を一つ付いて気を取り直した。

「浜辺に下りてみませんか?魚がおります。あれ、あのように波間に銀色に輝いて…」
そこまで言いかけたとき、殺生丸が不意に膝をついた。
ぎょっとして弥勒も傍らにしゃがみ込み、その顔を覗く。
殺生丸の顔色は唇まで真っ白になり、頬の朱の線の色までが色落ちしたように薄くなっている。そして、苦しげに右手を喉元に当てた姿が、水に落ちた墨絵のように滲んでぼやけ始めた。
「殺殿!」
弥勒は恐怖にかられて大きな声を上げると、その身体を抱きしめた。


◆◆


「狐のお母さーん」
「白ギツネの母御やーい!」
白い狐を抱きしめたまま、りんと邪見は声を枯らして呼び続けていた。
「母御やーい…えほっ」
叫びすぎてカラカラになった喉に邪見は咳き込む。
りんはまだ必死に呼び続けていた。
「狐のお母さーん」
「りん、りん、少し休まぬか。喉が潰れてしまうぞ」
そういう邪見に、りんは涙声で叫んだ。
「やだ!」
「やだじゃ言うても、声も枯れているではないか。それに、本当に親が近くにいるかどうかなぞ判らぬ。そんな不確かな事をせず、その狐をちょいと捻って起こせばそれですむではないか」
「駄目だってば!」
頑固なりんに、邪見は苛ついて怒鳴る。
「休めと言えば、いやと言う!狐を起こせと言えば、駄目という!では、一体どうせよというのじゃ!このままでは、殺生丸様は戻らぬぞ!」
「そんなのいや!」
殺生丸が戻らない、という一言に、今まで気丈にしていたりんが半べそでその場に座り込んだ。
「殺生丸様が戻らないのなんて、嫌。でも、赤ちゃん狐を苛めるのも嫌。だって怖がってただけなんだから」
首を振りながら駄々をこねるりんに、邪見は持てあまし気味になった。
ふと、邪見は首の後ろが粟立つような感覚を受ける。
「りん!」
邪見のせっぱ詰まった声に、りんは顔を上げた。その背後に真っ黒な煙が渦巻いている。
「きゃ!」
りんは飛び上がり、がたがたと震えている邪見の後ろに逃げた。真っ黒な渦はもやもやとしながらやがて形を変えていく。大きな獣の形――狐を思わせる姿に。
りんは大きく目を見開くと、驚く邪見の後ろから飛び出してその前に立った。
そして手の中で伸びている小狐を差しだし、必死な声を出す。
「この子のお母?それともお父?探してたの!お願い、殺生丸様を助けて!」
巨大な狐の形をした靄は、目にあたる部分だけを光らせ、そっと首を伸ばす。
りんは目の前に近付いた靄の顔に一瞬だけ怯えた顔をしたものの、逃げずにさっきと同じ言葉を繰り返した。
「お願い、殺生丸様と弥勒様を助けて」
靄がその気配を変える。徐々に現れてきたその本性に、邪見は青ざめながら一歩後退った。


◆◆


弥勒の声に呼び止められたように、一度ぼやけかけた殺生丸の輪郭が元に戻る。
「殺殿」
自分が抱きかかえられている事に気が付いたのか、殺生丸は小さく舌打ちをした。
「一体、どうなっているのです。今……身体が…」
身体が消えかかっていた、という言葉を口にするのが憚られ、弥勒は歯切れ悪く口ごもる。
「貴様が言ったのであろう…争いを厭う神ゆえ、争い事をもたらす武器はここでは存在できぬと。この神にとっては、私も争いをもたらす者として存在が厭わしいのだろうな」
そう言い終わった殺生丸の顔色がさっきよりも白くなったように見え、弥勒はぞっとした。
「お気を確かに…」
ガチガチと震えながら、引き留めるように殺生丸の身体を強く抱きしめる。
内心で悔しさを感じながら、殺生丸はその力に縋る。自分自身の存在感が希薄になっていくのが手に取るように判る。
ほんの僅かでも意識を失ったら、その瞬間にこの世界に取り込まれて消えてしまいそうだ。
「殺殿は、こうなる事を察しておられたのですか?ならば、どうしてもっと早く言わないのです!」
不安から思わず叱りつける口調になった弥勒に、殺生丸は閉じかけていた目を開いた。
「もっと早く判っていたら、こうなる前に何か脱出する手段がないか探したのに。物見遊山などしている場合ではありませんでした。己の呑気さが恨めしい…」
弥勒はさっきまで浮かれていた自分を心の底から悔やんだ。最初から脱出を考えていたら、今頃は何か有効な手だてを思いついていたのかも知れないのに。
「……たわけた事を言う…この世界が閉ざされているなど、最初から判っていたではないか」
声を出すのも難しくなり、殺生丸は眉を顰めた。どうやって口を動かすのか、どうやって声を出すのか、それすらも判らなくなりそうな程に身体の感覚が薄れてきている。
「……それに…」
声が低くなり、弥勒は必死の形相で殺生丸の口元に耳を寄せた。
「……貴様があまりにも浮かれた顔で私の手を引くゆえ、つべこべと言う気が失せた……」
その言葉に、弥勒の喉が詰まる。
(言葉はきついが……まさか、俺のためか?俺が浮かれていたから…だから、この方なりに気を遣って…?)
そう考える僅かな間にも殺生丸の姿はぼやけ、消えかけていく。
弥勒はその身体を掻き抱くと、子供のようにただ大声を上げた。
「目を覚ませ!このクソギツネ!人の親切心を仇で返してんじゃねえ!俺達を返せ!殺殿を、消すなーーーー!」
攻撃的な怒りに満ちた叫び声に、平和で優しかった世界は大きく揺れ、バラバラに吹き飛んでいく。
弥勒は壊れて空っぽになった世界に自分も飲み込まれていくのを感じながら、かろうじて腕の中に感じる殺生丸の気配を抱きしめた。
(消えるなら、いっそ、一緒に)
それきり存在が消えた――ような気がした。


◆◆


「この不埒者が!殺生丸様からはなれんかい!」
いきなりの怒号と共に後頭部に衝撃があった。
驚いて弥勒が目を開けると、腕の中には間違いなく殺生丸がいる。こちらも今気が付いたようで、瞼が震えてゆっくりと金の瞳が現れた。
「殺殿……」
助かったのだと思うと同時に、弥勒の胸が熱くなる。
「こりゃ!離れぬか!」
邪見がやけくそのように杖で叩き続ける。
弥勒は無言で自分を見上げている殺生丸に、ゆっくりと笑みを見せた。
「ようございました…本当にもう駄目かと…」
安堵のためかうっすらと涙がにじむ弥勒の目に、殺生丸が口を開きかける。
「いい加減に離れぬかーーーー!」
邪見が渾身の力を込めて杖を弥勒の頭頂部に振り下ろした。大きな打擲音と衝撃、弥勒の目から涙が引っ込み、逆に火花が散る。
「うるせえぞ、この野郎!調子こいて人を木魚がわりにしてんじゃねぇ!」
大きく膨らんだたんこぶに切れた法師が、小妖を鷲掴みにして放り投げている隙に、殺生丸はその腕の中から抜け出した。
半べそのりんがしがみついてくる。
「良かった、よかったー、殺生丸様!」
殺生丸はりんではなく、その場にいるもう一つの存在に目を向けた。
弥勒もようやく気がつき、殺生丸と同じ物を見る。あまりに大きすぎて、かえって目に入らなかった存在。
それは、そそり立つ塔のように大きな純白の狐だった。


狐は7つの尾を持ち、神々しくも優しい光を放っていた。ぴんとたった巨大な二つの耳の間から、あの小さな白い狐がひょこりと顔を出す。
信じられないほど大きさが違う二匹の白狐は、同時ににこっと笑った。丁度あの世界で見た動物たちと同じような笑い方だ。
無言の殺生丸と唖然としている弥勒の二人の視線を受け、7尾の狐は静かに語り始めた。

『まずはこの子を助けて下さったことに礼を申します。ありがとうございます』
物腰低いその言葉に、弥勒は慌てて頭を下げた。
「いえ、……あなた様はその小さなお狐様のご縁者ですか?」
『この子は私の子です。私の使えている國の神のご用で、隣国の神に使いを頼んだのですが……なにぶん、臆病ゆえ、途中で戻って来れなくなってしまったらしく、心配で探していた最中でした』
「それはそれは、さぞかしご心配でしたでしょう。無事に巡り会われてよろしゅうございました」
『この者達が私を捜しておりましたので、その気配で巡り会えました。…聞けばこの子が驚いた拍子にあなた方を消してしまったという話。私を捜したのは賢い判断でした。すぐにあなた達を夢の中に呼び込んだというのが分かりました。夢は目が覚めれば消えるものです。この子が自然に気が付いたのであれば、その時にあなた方も一緒に消えてしまう筈だったのです』
「きいたか、このバカ法師め。わしらのおかげじゃぞ」
「それはそれは――」
本当に消える瀬戸際だったのかと弥勒は絶句しかけ、とりあえずは偉そうに胸を張る邪見に「助かりました」と礼を言った。その素直さが逆に薄気味悪かったのか、邪見はその通り「気色悪いわい」と声に出す。
「お前ね、人がたまに礼を言ってやったんだから、ありがたく聞きなさい」
「何をいばっておるのじゃ。まったく持って、この疫病神が」
無言で邪見をひっぱたく弥勒に、白狐は笑いながら告げた。

『本当にご迷惑をおかけしました。お侘びの印に何かお望みの物があれば叶えて差し上げますが』
そう丁寧に申し出る白狐に、弥勒はそっと殺生丸を窺う。これまで殺生丸は一言も口を利いていないし、一時的に消えていた剣も錫杖も元通りあるべき場所に戻っている。さっきまでのあの切迫感の全てが夢のように思われ、弥勒はほっとすると同時にすべてにおいて「もう、いい」という気分になっていた。
だが、弥勒がそれを言葉にする前に「侘び」の言葉にりんが反応した。
「あ、そうだ、弥勒様!りんの兎を逃がした侘びにお餅をくれるって言ってなかった?」
そう言った瞬間に空腹を思い出したのか、りんの腹が大きく鳴る。
「……お腹空いた」
顔を顰め、腹を抱えてしゃがみ込むりんに、弥勒は慌てて懐を探った。
「ああ、すみません。私達のために動き回ったのなら、余計に腹も減ったでしょう。……おや?」
どれだけ探しても、ある筈だった餅は見あたらない。
まずい、という顔をした弥勒に、りんは顔をクシャクシャにした。
「お腹すいた…」
慌てて言い訳を考える弥勒に、白狐がくすりと笑う。
『入りような物が決まったようですね』
「は?」
『それでは、我々はこれで。本当にありがとうございました』
驚いて見返す弥勒の眼前で、にっこりと笑った白狐の親子は白雲に包まれて消えた。そして残っていた白い煙が散った後には、季節感無視の山の幸が大量に残されていた。


「うわあ、山葡萄に、栗に、タラの芽に、ワラビに…キノコもいっぱい!あ、岩魚も!」
まだ元気に跳ねている魚を掴み、りんは歓声を上げた。
「ご馳走だね、弥勒様!薪集めてくるから、見張っててね!」
りんはそう言ってはしゃぐと、当たり前のように邪見を引っ張って林の中に走り込んでいく。
「りん!兎を逃がしたことは、もう怒ってませんか?」
「怒ってないよー」
大きく手を振ったりんの姿が見えなくなると、弥勒は改めて殺生丸を見た。その無言の様子に気まずい気分になる。りんは機嫌を直してくれたようだが、この方はどうだろう?まったく持って自分の不手際で、命を危うくしてしまった。しかもそんな状態にも気が付かずに、馴れ馴れしい態度をとっていた。
怒ってはいないだろうか?
そう不安に思うが、殺生丸の無表情さは怒っているのか、それともただたんに無視を決め込んでいるのかもよく分からない。
一つ咳払いをしてから、弥勒はそうっと殺生丸の傍らに寄った。
「その、あらためまして、お詫びをいたします。大変ご迷惑をおかけしました」
一応視線を向けたものの、殺生丸は無言のままだ。
(……判りづらいお方に思いを寄せるというのは、忍耐と悟りの修行のようなものだな)
弥勒は苦笑すると、返事を得ることを諦め、「それでは、これで」と立ち去る素振りを見せた。
「待て」と、初めて殺生丸が声を掛けた。弥勒はすぐに立ち止まると「なんでしょう」と言いながら、いそいそと振り返る。

「見張っていろと、りんが言った筈だ」
言いながら、ちらりとお狐様が残していった食料の山を見る。
一瞬都合のいいことを期待しかけた弥勒は、あからさまにがっかりとした。
「りんが言ったから、ですか?」
「帰りたいのか」
「いえ、そうではありませんが…」
弥勒は思いっきってもう一度傍らにより、ぐいっと顔を近づけた。
「殺殿が不愉快ではないかと思いました」
「私が、何か?」
吐息がかかるほど近くに弥勒の顔があっても、殺生丸はよける様子がない。
「思いっきり手を握ったり、抱きしめたりしました」
「それがどうした」
あっさりとした返事に、弥勒は惚けた顔をした。
「不愉快だったのではございませんでしたか?てっきりそれで、殺殿が何も仰らないのかと…」
「別に…」
僅かに殺生丸は言い淀んだ。眉が顰められ、言葉を探しているように視線が横を向く。ややあって、かなり言いづらそうではあったが、はっきりとした言葉が返る。
「貴様が近くにいるのには、慣れた」
「慣れたと仰いますと…つまり、このように近付いても嫌ではないと?」
勢いづいた弥勒は殺生丸との距離をもう少しだけつめた。それこそ、鼻先が触れそうな程に近く。唇からこぼれる息が直に感じられる。
「……嫌ではない」
「…では、この距離では?」
もう少し距離を詰める。次の瞬間に首が飛んでも構わないという覚悟で、唇と唇を触れあわせた。
爪も剣もとんではこなかった。
唇が離れた後、殺生丸が低く呟いた言葉に、弥勒はなぜか「ご褒美」という言葉が頭の中を飛び交うのを感じ、思わず両手を天に向かって突き上げながら叫んだ。
「ああ、やっぱり神様への奉仕ってのは骨身を惜しまずにするもんだ。御利益っては本当にあるんだな」
小狐の世界で叫んだ罰当たりな台詞は棚に上げて自画自賛する法師の少し幼げな動作を目の当たりにし、殺生丸は少しだけ複雑な表情を浮かべた。
なぜ、あんな言葉を口にしたのだろう?と、自分自身に問いかけているような顔つきだ。

「嫌ではない」
口付けの後、その言葉が自然零れた。
あの奇妙で美しい精神世界の雰囲気に毒されたのだろうか?
男を受け入れる言葉を口にしたことを、後悔する気も起きない。
眩しげに目を細める殺生丸の前で、弥勒はにこにこと笑っている。
浮かれた表情の男が、なぜか可愛らしく見えた。



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