◆ 逢魔が刻〜逆光〜 前 ◆
 



 
まだ死ねない――望みを果たすまでは。
そう思いながら、無念をのんで死んでいく者は、一体どれだけいるのだろう。
 
◆◆

 
村を守る巫女、楓の小屋に村人が行き倒れの老人を運んできたのは、かごめが現代に戻った直後だった。
犬夜叉や珊瑚達は井戸から帰るかごめを送りに森へと出かけており、小屋にいたのは楓と弥勒の二人きり。
台車に乗せられて運ばれてきた老人を、弥勒は小屋の中に運び込んだ。
 
「旅の僧侶殿のようじゃな」
「はあ、確かに…法力僧…でございますな」
弥勒は目を閉じている老僧の顔を布で拭ってやりながら、ちらと全身に目をやる。
使い込んだ錫杖と独鈷杵。
老人と一緒に運び込まれたくたびれきった笠と杖。
老僧が長い旅をしながら妖怪退治をしてきたことを示している。
ただ今は年齢のせいか、それとも病のせいなのか、さほどの法力をその身体から感じることは出来なかった。
 
「わしは薬湯の用意をしてこよう。その間、この僧侶殿を頼んだぞ」
そう言って楓が小屋から出ていくのと入れ違いに、犬夜叉達が戻ってきた。
「なんでぇ、じじぃの行き倒れか」
小屋の中を見たとたん、犬夜叉が言う。
「なんですか、その言い方は。病を煩っているご老人にたいして」
弥勒がたしなめると、犬夜叉は叱られた子供の風情でそっぽを向いた。
「あ、この人、お坊様なんだ」
珊瑚がいそいそと看護を手伝い始める。
 
「ったく、人間ってのは弱っちいくせに、平気で無茶しやがる。じじぃやばばぁは大人しく筵でも編んでろっての」
戸口で腕を組んだまま憎まれ口を叩く犬夜叉を、弥勒は呆れた顔で窘めた。
「またそう言うことを…。お前は年長の方に対する敬意が足りないようですね」
「年寄りがいちいち出ばってんじゃねえっていってんだよ」
「なんでも良いから、静かにしなよ。病人が寝てられないじゃないか」
珊瑚がそう声をかけたとき、老人がうなされたように身じろいだ。
それをみた犬夜叉が、ぶしつけに老人の顔を覗き込む。
「けっ、目が覚めたんじゃねえの?」
そう犬夜叉が言った瞬間、老人はかっと目を見開いた。
 
「出たな、妖怪!師の仇、今こそ取ってくれるわ!」
そして飛び起きるなり叫ぶと、懐の独鈷杵を犬夜叉に向かい、投げつけたのである。
「うわ」
犬夜叉は大きく飛び退くと、一足飛びに小屋の外に出た。
「待て、妖怪!」
さっきまでぐったりしていたとは思えないほどの素早さで、老人がその後を追う。
突然のことに呆気にとられていた弥勒と珊瑚は、慌てて外に出た。
そこでは錫杖を構えた老人に向かい、すでに犬夜叉が鉄砕牙を抜刀して対峙している。
「じじい、出会い頭に攻撃してくるたぁ上等じゃねえか!」
頭に血が上った犬夜叉が、そう叫んで鉄砕牙を振りかぶる。
そのまま地を蹴って老人にしかけるかと見えた刹那、犬夜叉の頭に弥勒の錫杖が振り下ろされていた。
「いてぇ、なにしやがんだ、弥勒!」
後頭部に見事なたんこぶをつくった犬夜叉は、当然のごとく弥勒に噛みついた。
その犬夜叉をもう一発、今度は拳骨で殴ってから、弥勒は落ち着いた口調で宥めにかかる。
「いい加減にしなさい。相手は年老いた病人ですよ、きっとうなされて勘違いされたのでしょう」
「てめえ、いきなり退治されかかってみろ!勘違いでやられてたまるかって!」
「お前が病人に退治されるはずがないでしょう」
煽ててるんだか、からかってるんだかわからない飄々とした弥勒の言葉に、犬夜叉は毒気を抜かれたのか、ふくれっ面のまま、それでも刀を収める。
老僧の方はというと、先ほどの動きで完全に限界がきたのか、ぐったりと珊瑚に支えられていた。
 
「おお、これは大変…さあ、犬夜叉、早くご老人を中に運び入れてください」
「なんで俺がやんなきゃないんだよ」
「おや、では珊瑚に運ばせるつもりですか?か弱いおなごに?」
非道な男、と言わんばかりの弥勒の言い方に、犬夜叉はむっつりとした顔で乱暴に老人を担ぎ上げる。
「攻撃されて、なんで俺が親切にしてやんなきゃねえんだよ」
なおもぶつぶつ言っている犬夜叉に、珊瑚は呆れ顔で弥勒に囁いた。
「犬夜叉ってば、かごめちゃんがいないと、悪態ばっかり」
「今更悪党の振りをしても無駄だという事が、まだわからないのでしょうな。どうせお人好しなのに…」
 
◆◆

 
再度寝かしつけてやると、老人は少しは頭がはっきりしたのか、自力で身体を起こし、皆に向かって頭を下げた。
「どうもご迷惑をおかけしたようで、面目ございません」
そして戸口で仏頂面をしている犬夜叉に向かい、また頭を下げる。
「大変無礼をした。…人違いでござった」
「けっ。俺を妖怪だって言って退治にかかったくせに、どこのどいつと間違えたって言うんだ」
「これ犬夜叉。僧殿は詫びを申しているのだぞ」
諫める弥勒に、老人は頭をふった。
「…銀の髪に金の瞳…それが同じであったゆえ、勘違いをしてしまったようだ。…こうやって見ると、少しも似たところがないと言うのに…」
 
――銀の髪に金の瞳――
その言葉に僅かに気色ばった犬夜叉に気づかず、老人は己を嘆くように続ける。
「…いくら髪と瞳の色が同じであったと言っても、あの妖はこのように乱暴でがさつな物言いはせなんだ…。見間違えるとは、なんたる不覚…」
「てめえ、…何下に俺のこと馬鹿にしてないか…」
脱力したようにぶつぶつ言う犬夜叉に、弥勒と珊瑚はうなずきかけて苦笑する。
そこにようやく薬湯の用意をして戻ってきた楓も交え、とりあえず老人の事情を聞くことになった。
 
 
「先ほど、『師の仇』と申されていたようですが、その銀の髪と金の瞳の妖とは…?」
弥勒が口火を切ると、犬夜叉は眉をしかめて腕組みをした。
自分以外の銀の髪と金の瞳を持つ妖――1人だけ心当たりがある。
老人は薬湯の椀を持ち、苦い中身をすすり終わると、昔を思い出すようにゆっくりと語り始めた。
 
「あれはもう、そう30年も前のことです。…まだ修行中であった私は、師と共に諸国を回り、地に倒れた方々を供養し、人に徒なす妖怪を退治する旅をしておりました。…その時にであったのです、あの妖に…」
 
老人はその時の光景を思い出したのか、小さく震えだした。
「今思い出しても寒気がいたします。足下に累々と横たわる引き裂かれた野武士の死体。その中に1人の男が立っておりました。夕暮れの逆光の中、背を向けたその姿は私にはただの人にしか見えなかったのですが…師にはその禍々しい妖気の程が察せられたらしく、符を取り出し、錫杖を構えながら、私にこう申しました。『人の世に放たれたままにしておくには、危険すぎる妖気。命にかえても滅しなければならぬ』と…。その言葉が聞こえたのか、男が振り向いたのです。その時にはっきりと見えたのです。一瞬だけ赤光を放った金の瞳…夕陽を弾くほどの銀の髪をもつ尋常ならざる美しい若者の姿が」
がくがくと震えの強くなった老人を、弥勒が横から支える。
そうしながら弥勒が犬夜叉に目配せをすると、犬夜叉は強ばった顔つきで頷いた。
 
殺生丸。
その名が頭に浮かぶ。犬夜叉の兄――同じ銀の髪と金の瞳を持つ大妖。
「勝負は一瞬…いえ、勝負にもなりませなんだ。挑みかかった師の符はあっけなく破られ、師は……」
すすり泣きを始めた老人の背を楓がさする。
「師が倒されたというのに、私にはなにもできませんでした。ただ、腰を抜かしてがたがたと震えるばかりで。その私の前を、妖は何事もなかったかのように通り過ぎていこうとしました。
私には一瞥もくれず、路傍の石よりも関心がないと言わんばかりの風情で…その横顔を見た瞬間、私の中で憤怒の念がわき上がり、私は思わず叫んでいたのです。
『今はまだ叶わず!だが、10年20年、いや、30年後には修行を積み、師の仇を討ってみせる。30年後の今日、再びこの場所で私とまみえよ!』と…。
妖はちら、とだけ私に目を向けました。そしてそのまま立ち去ってしまったのです…」
老人はほうっと息を飲む。
「その約定の日が数日後にせまっているのです。私はなんとしても、師が倒されたあの丘に行かねばなりません…」
「行っても無駄だぜ」
語り終えた老人に、犬夜叉は間髪入れずに言いきった。
「あの野郎が人の手前勝手な約束なんぞ覚えているわけがねえ。這いずっていった所で無駄足踏むだけだぜ」
そう乱暴に言い放ち、衝撃を受けたらしい老人の顔も見ず犬夜叉は小屋から出ていく。
「…あのものは、その妖に心当たりがあるのか…?」
小屋に残った者の顔を順に見ながら、老人が問う。
「その妖の名をご存じですか?」
弥勒が訊くと、老人は頭をふった。
「妖は、私の前では一度も口を開きませなんだ」
弥勒の口元に、何やら得心のいったような笑みが浮かぶ。
「それでも、おそらくは心当たりの妖で間違いないでしょう…どうしても行かれると仰るのならば、私がお送りいたします。ですから、今日のところはゆっくりお休み下さい」
薬湯の効果が現れたのか、すぐに寝入ってしまった老僧を見ながら、珊瑚が心配げに言う。
「送っていくって本気?肩すかし食らわされたりしたら、このお坊様、張りつめていた物が切れてがっくり逝っちゃうかも知れないよ」
弥勒は薄く微笑む。
「それでも、行かなければ終われないのですよ、このお方は」

◆◆

 
 
ふてくされて小屋を出ていった犬夜叉は、いつもの村はずれの木の上にいた。
「なにを怒っているのですか」
下からかけられた弥勒の声に、犬夜叉は面倒くさそうに返事をする。
「別に怒っちゃいねーよ。あんな野郎に振り回されて、哀れなじじぃだと思っただけでぇ」
「その事ですが、私が送っていくことにしました。明朝、その約束の場所とやらに出立します」
ぱっと犬夜叉は木の上から地に降り立った。
「バカじゃねえの?行ったところで、無駄足だっていってんじゃねえか。第一、あのじじぃは死にかけだ。これ以上の旅に耐えられるわけがねえ!」
「おや、あのご老体の身体を心配して止めているのですか?」
したり顔の弥勒に、見透かされた態の犬夜叉は、またふてくされた顔で言い放った。
「んなわけねえだろ…あのじじぃの言ってるのが殺生丸の事なら…来るわけねえって言ってるんだ。あいつが、人間のほざいた事をいちいち真に受けてつき合ってやるはずがねえ」
「そうかも知れませんねぇ」
のんびりという弥勒に、犬夜叉は噛みついた。
 
「てめえだってそう思うんなら、止めてやれよ。無駄に自分の身体を痛めつける必要が、どこにあるってんだ!」
「例え無駄だったとしても、その日のためだけに老人が修行を積み、無理をしてきたのはあきらかです。無下にすることは出来ません」
何か言い返そうとする犬夜叉に、弥勒は真面目な顔を向けた。
「例えそれで命を落としたとしても、譲る事の出来ない、自らに課した使命という物があるのです。それが、あの老人の場合、30年前の場所に赴き、決着をつけるという事なのですから」
呪いを解くという三代に渡る使命を背負った男の言葉に、犬夜叉は反論の言葉を飲み込んだ。
ふっと背を向け、村の方に戻ってゆく弥勒に向かい、渋々といった風に声をかける。
「…いいぜ…俺もつき合ってやるよ。そのじじぃの使命の行く末とやらを見届けによ」
振り向いた弥勒が、人好きのする笑顔を見せた。
 
「その言葉を待っていましたよ。台車をお借りして、老師殿はそこに寝かせてお運びする事にしておりましたので。では、台車をひくのは、お前にお任せしますからね」
「…ちょっとまちやがれ!てめえ、俺を羽目やがったのか?」
ちゃっかりと力仕事を押しつけられたことに気が付いた犬夜叉が叫ぶが、その時には弥勒はもう道の向こうに立ち去った後だった。