◆ 逢魔が刻〜逆光〜 後 ◆

 



石くれだらけの山道は、どれだけ注意して引いても台車は揺れる。
乗せられた老僧は、車輪が石を踏んで揺れるたびにうめき声を上げた。
「犬夜叉、もっと静かに引けないのですか?」
「バカか、テメエ。これ以上静かに引いたら、ナメクジにだって追い越されちまうわ」
物言いは乱暴だが、言ってることは真っ当なので、弥勒は頭をかいた。
「まあ、確かにその通り。この辺は、めったに里人も通らないようですな」
弥勒が辺りを見回す。
老僧の指し示すとおりの道を進んできたところ、たどり着いたのは荒れ果てた山道。
昔はもう少し整えられていたと思われる部分もあるが、今は土砂崩れでもあったのか、ゴロゴロと転がった石や岩が片付けられることもなく転がっている。
老人の話によると、昔はこの山奥にも村があったらしいが、野盗の襲撃にあって以来人が住み着かなくなったらしい。
 
「その、老師殿が出会った妖に倒されていた野武士というのは、その、襲った連中なので?」
「さて、分からぬ…村が消えた後、しばらく野盗が根城にしていたらしいゆえ、そやつらかもしれぬ…」
「村を襲って、調子に乗って暴れ回って、殺生丸を襲って返り討ちにあったって所だろうな。
人間ってのは、武器を持てば強くなった気になって、相手構わずケンカを売りたがるから」
「それはお前も同じでしょう」
あっさりと言い返され、また犬夜叉はむっつりとしてしまった。
台車の上の老僧が、その犬夜叉の様子を怪訝そうに見る。
「あのものは、いつもあのように機嫌が悪いのか?」
「はい、いつもあのようなものです。今は特別機嫌が悪いようですが」
何しろ顔を合わせれば殺しあいになる兄弟である。
はっきりと決まったわけではないが、その兄にわざわざ自分から近付いていこうというのだ。
不機嫌になるのも当然だろうと、弥勒は小さく苦笑を漏らす。
それとは逆に老僧の方は山に分け入っていくほどに元気になっていくようだ。
顔全体の血色が良くなり、目にも光が戻ってきた。
30年の悲願――それが徒労に終わらないことを、弥勒は自分勝手な期待もふくめて願っている。
 
来るのだろうか?あの酷薄な目をした大妖は。
30年前にただ一度すれ違っただけの僧の言葉を覚えているのだろうか。
そして、それに従ってくれるのだろうか。
犬夜叉ではないが、とてもそんな性格な兄上ではないと思われる。
考えれば考えるほど、無駄足な様な気がする。
そう思いつつも、ここまで来たのは、ひとえに老人の姿が悲願を果たせずに死んだ父と重なったのと――それこそ、本当に勝手な期待。自分があの妖と逢いたいからだ。
出会ってどうなるかまで考えたわけではないが、ただ、老人の話を聞いて「好機だ」と思ってしまった。思ってしまい――結局は犬夜叉を巻き込んでここにいる。
姿を見せるのだろうか、あの大妖は。
 
考えれば考えるほど、期待は薄いような気がした。
 
 
細い山道は完全に森に飲み込まれ、台車を乗り捨てた今、老僧は犬夜叉に背負われていた。
「じじぃ、本当にこの先なのか?」
胡散臭そうに犬夜叉が言うと、10才も若返ったような老僧は自信を持って頷いた。
「間違いない。木々の間から見える山の形に見覚えがある。間違いなく、この先の場所じゃ」
「じじぃの記憶なんて、当てになるんだか」
無礼なことを呟く犬夜叉を無視し、老僧はじっと前を見つめている。
時刻は夕暮れ。
あの時と同じく夕陽が当たりを赤く染めつつある。
 
あの頃はまだそれでも道の様相を呈していた森の木々の間をくぐり、その先にある開けた丘。
そこにあの大妖はいたのだ。
銀の髪を風に揺らし、夕陽に全身を赤く染めて――犬夜叉の背に揺られ再び訪れた因縁の丘、そこに老僧は30年前と同じ光景を見た。
 
丘の上に立つ銀の髪の妖。
違うのは、その足下には何も転がっていないという事だけ。
犬夜叉と弥勒が揃って息を飲む。
 
(きやがったのか…?あいつがマジで?)
信じられずに立ちすくむ犬夜叉の背から、老人は飛び降りる。
「妖!今こそ勝負!」
その声に、丘の上に立つ妖はゆっくりと顔を向けた。
逆光にその表情は見えないが、一瞬赤光を放った金色の目が確かに老人の姿をとらえる。
老人は錫杖を振りかざし、鋭い動きで挑みかかった。
無造作とも言える動作で殺生丸はそれをかわす。
全身から白い炎が吹き上がって見えるほどに裂帛の気合いを込めている老僧とは逆に、殺生丸にはなんの感情も見えない。
煩わしい虫をよけているだけ――そう見えるほどに何気ない動きだ。
 
 
符を飛ばし、独鈷杵を投げ、もてる法力を駆使して老人は挑むが、どうあっても力の差は歴然だった。
殺生丸は無造作にかわすだけで、むしろ戦っているというつもりもなさそうな無表情さである。
老人の顔に汗が浮かび、息が荒くなる。
「あのじじぃ、止めねえと本気で死んじまう。殺生丸は戦ってる気はねえ、今止めればあっさりひく筈だ!」
犬夜叉の言葉を正論と思いながら、弥勒は動けずにいた。
今犬夜叉が出ていけば本格的な戦いに発展する可能性が高い以上、弥勒が止めにはいるのが一番無難なはず。判っているが、弥勒はその決心が付かずにいた。
叶うはずがないと判っていながら妖に挑む老僧、その邪魔をすることが罪のように感じられたからだ。
なおもしつこく食い下がる老僧に、殺生丸は苛立ってきたらしい。
弥勒が止めることを躊躇っていた僅かの時間に勝負は決した。
老僧の背から、細く長い指――戦うことよりもむしろ楽器を奏する方が似合っているような形の良い手が生えていたのだ。
 
 
◆◆

 
 
無造作に自分を見下ろす大妖の金の瞳。
老人は自分の腹から妖の手が抜かれる様を感じていた。
妖はすでに致命傷を負った人間に興味を無くしたのか、無表情なままに体を離そうと後ろに動く。
老人はその体に取りすがった。
腕と胸に両手でしがみつき、放すまいと残りの力の全てを込めて妖に縋り付く。
殺生丸の目が細められた。
縋り付き、自分を見上げる老僧の目――必死のその目に何を見たのか。
弥勒と犬夜叉が唐突で無惨な結果に動けずにいる間、逆光の中で一つに見える重なった二つの影の、上から見下ろしている影の顔が僅かに沈む。
下から見上げる影――老人の顔に一瞬だけそれは重なり、離れた。
老人の身体から力が抜け、地に倒れ伏す。
呪縛から解かれたように走り出す犬夜叉から少し遅れ、弥勒も丘を駆け上がる。
黙って足下に倒れた老人を見下ろしていた妖は二人の方にちらりと視線を向けると、すっと夕陽にとけ込むように姿を消した。
老人の元に二人がたどり着いたときには、銀の髪を持つ大妖の姿はその付近から消えていたのである。
 
 
「バカだよな、じじぃ…」
完全に絶命している老僧を見下ろし、犬夜叉はぽつりと言った。
それを聞き、老僧の傍らに跪いていた弥勒は否定するように首を振る。
「犬夜叉、このご老人の顔をご覧なさい…満足しきったよいお顔をしていると思いませんか?」
老僧は――微笑んでいるようだった。
腹の満ち足りた子供の寝顔のように、あどけなく、嬉しそうな死に顔。
「なんで、こんな…こんな満足そうな顔してるんだよ!だって負けたんじゃねえか、結局!一太刀も浴びせられねえで、仇どころか、自分までやられて、なんでこんな…!」
理解できずに叫ぶ犬夜叉に、弥勒は静かに諭すように言う。
「おそらくこのご老人の真の望みは、仇討ちでもなんでもなく、あの妖にもう一度逢うこと。そして、その手にかかり最期にその姿を目に焼き付けて死ぬことだったのでしょう…。
兄上殿は、そんな老師殿に慈悲を下された…だからこそ、このようなお顔で逝かれることができたのです」
弥勒は赤く染まる空に目をやると、小さく息を吐いた。
「…初めて見た瞬間、魅入られていたのでしょうな…兄上殿に」
「魅入られるって…なんで」
犬夜叉は納得できずに叫んだ。
「なんで仇になんて魅入られるんだよ!」
弥勒は跪いたまま犬夜叉を見上げると、普段見せたことのない透明な笑みを浮かべた。
「半分だけとはいえ、妖の血を引くお前には判らないのでしょうな…。恐れながらも目をそらすことが出来ず、異形の者に惹かれてゆく人間の愚かしい性を…それが人には持ち得ない美を持つ者であれば、なおのこと。例え禁忌であっても犯さずにいられなくなるのですよ」
黙りこくった犬夜叉に構わず、弥勒はぼうとした調子で呟いた。
 
「黄昏時は、逢魔が時。…この夕焼けの逆光の中で兄上殿に出会ったとき、老師殿の運命は定まったのでしょうな…」
そして、おそらくは自分も――弥勒はそう思う。
 
逢魔が時。
濃紺の夜に落ちつつある空を見上げ、弥勒は自分もまた魔に魅入られていることを感じていた。