◆ ススキが原 ◆

 


 
目の前に立つ老女。弥勒はその姿を見た瞬間に油断なく身構える。
 
『徳高きお坊様とお見受けいたします…どうぞ、この浅ましき婆の話をお聞き下さいませ』
白髪の老女は、警戒する弥勒に慎ましく頭を下げた。
やせぎすな身体に皺深いが上品な顔立ち。雪のような白髪を背の中頃で元結いで結び、身に纏うのは左前に合わせた白の小袖。
衣装の袷を見る間でもなく、弥勒にはその老婆がこの世の者ではないことに気が付いていた。
うっすらと透ける老婆の額には、2本の角が生えていたのだ。
 
旅の途中のねぐらに選んだ古いお堂から少し離れた森の中で、弥勒は老婆と向き合った。
足を動かさずに移動する鬼婆の霊は、弥勒の前に手を付いて頭を下げる。
『この婆の言葉に耳を傾けてくださったことに、お礼を申し上げまする』
「いえ、礼には及びません。これも僧侶の務めでございます」
そう弥勒が言うと、鬼婆は目に涙を浮かべ、伏し拝むように何度も頭を下げる。
「さあ、もうお手をお上げ下さい。拝見いたしましたところ、元は生まれの正しい人であったご様子…。
何故に鬼と化されましたのか」
鬼婆はその言葉にしんと表情を静めると、ゆったりとした心地よい声音で語り始めた。
 
『わたくしは、かつて都にお住まいになるある姫君の乳母をしておりました』
 
 
◆◆
 
 
わたくしがお使えてしたいた姫君は、早くに母君を無くし、父君のお館に招かれることもなく、母君の残されたお屋敷で1人お暮らしでございました。
それはお美しい、お優しい姫君でございましたが、母君はさほど身分のあるお方ではなく、ご正室となられることもございませんでしたので、父君の覚えもめでたくなく、殆どうち捨てられたような状態で、月々の僅かなお手当だけで暮らしておりました。
それでも姫はねじくれることもなく、健やかにお育ちになられました。
ある日、わたくしは気が付きました。年頃となられた姫が、恋をしていることを。
 
 
通う者もないはずの、うらぶれた屋敷でございます。
もしや市井の男が忍び込み、世間を知らぬ姫君をたぶらかしたのではないかと、わたくしは心が泡立ちました。
また逆に、身分のあるお方がお忍びで姫をお見初めくださったのならば、何があろうとも、姫を妻としていただけるよう尽力するつもりでした。
そしてわたくしは姫の様子をじっと観察し続けたのです。
そしてある日――夜明けと共に姫の寝所よりまるで流れ星のような光の筋が飛び立っていくのを目にしました。
姫が愛されたのは、人ならざるお方だったのです。
 
光となって館の中に入り込む物の怪を、このわたくしにどうやって止められましょう。
わたくしは心配のあまり、町で評判の占い師を頼む事にいたしました。
その占い師は申したのです。
姫は間もなく異形の子を孕むであろうと……。
その言葉通り、わたくしは間もなく姫が身ごもっておられることを知りました。
わたくしは気が狂いそうになりました。
いつか父君が気を変じ、姫にお心をかけて下さるかも知れない。
美しい姫君を、どなたかが見初めてくださるかも知れない。
その時に幼い子――ましてや異形の子などいては、姫にとってよい事は何一つないだろうと。
わたくしはまた占い師に頼みました。
すると、占い師はこう申したのです。
 
まだ生まれていない赤子を母の体内から取り出し、その肝を食べ物に混ぜて姫に差し上げろと。
そうすれば、姫に染みついた汚れは赤子の無垢な力によって取り除かれ、異形の子も流れてしまうだろうと…。
恐ろしいと思いましたが、わたくしは姫のおんためと思いその通りにしようと心を決めたのです…。
 
 
◆◆
 
告白された内容に弥勒は眉を顰めた。
つまり、この老婆は子を身ごもった女を殺し、その胎児を取り出したのだ。
まさしく鬼の所行。だが老婆が行ってしまった鬼の仕業は、それだけではなかったのだ。
 
『わたくしは都から離れた山懐の野に住まいを構え、旅人を待ちかまえました。
そこはまた都へ通じる道筋の側でもあり、都へ向かう旅人が山越えに使う場所だったのです。
そしてある日、腹の大きなおなごとその夫が通りかかりました。
わたくしはその夫婦を親切ごかしの言葉で住まいに招き入れ、そして深夜、二人を殺してしまったのです。
女の膨らんだ腹を切り、中の赤子を取り出し――血に全身をまみれさせた姿で、わたくしは気が付きました。
女が身につけていた守り袋は、わたくしが姫の乳母に上がるとき、里に残した我が娘に与えた物。
その女は我が娘でございました……そして男は我が娘婿。取り出した赤子はわたくしの初孫……』
老婆はわっと声を上げて泣き伏した。
 
『それを知り、わたくしは狂いました。狂うて狂うて――気が付いたときは、わたくしは鬼となり永遠に終わることのない贖罪の業火の中で焼かれておりました。それも定め――わが所行の所為と思わば誰を恨むこともいたしませぬが……心に残るのは愚かな母の手によって命を失った娘と婿と孫。
どうぞ、御坊様。哀れな娘達に回向を賜りたく…なにとぞなにとぞ……』
 
老婆は何度も何度も手をすりあわせて頭を下げる。
そのあまりの必死な様子に、弥勒は頷いた。
 
 
翌日、弥勒はもっともらしい理由を付け、楓の村へ戻る途中だった一行と別行動を取る。
変化した狸の背に乗り老婆の言う野へと足を踏み入れ、弥勒はそこが想像以上に寂寥とした場所であることに驚いた。
一面のススキが原。
都へ抜ける道はそう遠くないと言うのに、丈高いススキの穂に阻まれ目に映ることもない。
老婆は『あれ、あそこの岩場がわたくしの鬼の住まいでございます』と、すうっと長いかぎ爪の骨の浮いた指をまっすぐにあげた。
ススキをかき分け、弥勒はその方向に向かって歩く。狸は何やら不気味な心地がすると言って、道脇からついてこようとはしない。
 
歩き続けると、不意に弥勒の前に巨大な岩を組み合わせた岩屋が姿を現した。
そしてその岩屋の天井部分の平たい石の上に座り、赤い目で見下ろす物の怪の姿。
岩屋の上に腰を下ろした殺生丸の目は赤い光を放ち、見るからに妖の気配を強く漂わせている。
「兄上殿か…」
弥勒は緊張した声を発した。
ごくりとつばを呑み、1、2歩後ずさった弥勒に、殺生丸は傲然と嘲るような声を出した。
 
「どうした、婆よ。いまだその浅ましき姿で彷徨うていたのか」
弥勒の前に浮き上がった上品な姿を保っていた鬼婆が、文字通り鬼の形相になる。
裂けた口につり上がった赤い目と顔を変えた老婆は、髪を逆立てると恨みの言葉を叫びだした。
『うぬさえおらねば、うぬさえ…』
殺生丸は嘲る表情を変えぬまま、手を無造作に差し出す。
叫びながらその妖に飛びかかった鬼婆は、瞬時に弾けるように姿を消した。
文字通り、瞬きする間もないほどの一瞬の出来事。
弥勒は詰めていた息を大きく吸い込むと、声を固くして殺生丸に問うた。
 
「…何事です、これは…。あなたはあの鬼婆と因縁があったのですか?」
殺生丸は始めて弥勒に気が付いたような顔をした。真紅の目から色が薄れ、金色の瞳が現れる。
「法師か。あの鬼婆に取り付かれたのか、酔狂なことだ」
岩屋の上から降りる気配のない殺生丸を見上げ、弥勒はさらに声を張った。
「お応え下さい。私はあの鬼婆の霊より、己が手に掛けた娘一家の回向を求められてここへ来たのです。何故、消滅せしめたのです」
殺生丸は立てた膝に頬杖をつくと、面白がっているように口角をつり上げた。
ざわざわと夕暮れの風がススキの原をすり抜け、なびくススキのあげる音が耳障りな笑い声に聞こえる。
 
「貴様、あの婆が何をしたのか知っているのか?」
「自ら語って下さいました。己の姫のためにと、我が子を手に掛けてしまった…それ故に回向をと…」
ススキの風にこすれる音が高くなった。まるで野原全体が弥勒を嘲笑うように大きく揺れる。
殺生丸の目がすうっとまた赤みを増し、そしてまた金色に戻る。
つり上がった口元は変わらない。
 
「あの婆はな、我が子を手に掛けたあと、狂いおった。狂って狂って、そして呪いをかけた。
その手立てを婆に教えた占い師を、大切な姫を放置したその父を、そして、姫を窮地を追いやりながら手元に引き取ろうともしない無責任な妖と、それを実現させない妖の妻を、な。
老婆は生き霊(いきすだま)となり、もっとも憎しその妖の正室へと呪いをかけた。
その正室が、我が母よ」
 
殺生丸の目が真紅に染まり、音も無く野に降り立つ。
金縛りにあったように動けない弥勒の前に立ち、殺生丸はいっそ優しげな手つきでその頬に手を当てた。
 
「その生き霊を滅し、鬼と化した老婆をこの岩屋に封じたのが私だ。
その封印の隙間より這い出た鬼婆がどこに逃げたと思ったら――どうやら、愛しの姫の血を引く息子、犬夜叉の気配をたぐったと見える」
弥勒の背筋に冷たい物が流れる。
 
老婆の行った鬼の仕業は――犬夜叉の母のため。
それはひいては息子である犬夜叉が生まれる前に葬り去ろうという企みでもあった。弥勒は息を飲み込んだ。
そして目の前には自分の頬を撫でさする、凶暴な赤い光を放ちながら優しい仕草をする大妖。
知った事実と目の前の現実のどちらに捕らわれているのか判別つかぬまま、弥勒は冷えた身体を硬直させる。
「恐ろしい業だのう…のう、法師。我が子の成仏を願うといいながら、その実、心に掛かっていたのは、自分が仕えていた姫のことだけだ…親子の情よりも強いと見える、いや…」
殺生丸はにいっと微笑んだ。
「肉親の情とは、もとより幻のごとく儚き物。血の繋がりなど、一人で生きる事が出来ぬ弱者が縋るまやかしよ」
風が渦を巻き甲高い音を響かせる。
強ばった顔の弥勒から離れると、殺生丸は赤い目のまま、どこか寂しげな顔をした。
 
「血と呪いの因縁を、私と弟は最初から背負うているのだ」
声と当時に吹き抜けたつむじ風に、ススキが倒れそうな程に大きくしなり、弥勒は風に煽られ顔を袖で覆う。
そして顔を上げたとき――あの大きな岩屋も、そして殺生丸の姿も跡形もなく消え失せていた。
 

 
 
元ネタはかの有名な「安達ヶ原の鬼婆伝承」です…。
時期的には「逆光」前後。二人とも顔を知っている程度です。
ちょっと順番が違うのですが、どうしてもススキの枯れた雰囲気が欲しかった物で。