◆ 妖雨 前 ◆


 
霧雨がじっとりと着物に染みこむ。
北の地の秋に降る雨は冷たく、骨までも凍えさせる。
この地の民人もこんな日は外に出ない。
家の中で火を焚き、冬を迎える準備にいそしんでいるのだろう。
今日、少女は小妖と共に人も住まない荒れ寺にいる。
火を焚きつけた囲炉裏端で手を擦りあわせて、ほっとした顔をしていた。
小妖がその傍らでちまちまと走り回っていたのが、意外だった。どうやら少女は寒さで体調を崩しかけていたらしいのだが、本人がそれを訴える前に気が付くとは、いつの間にか随分と肩入れするようになったものだと思う。

寄り添って温まり合うような様子を見せていた2人を残し、殺生丸は1人聖域の山の麓に立っていた。
結界は妖怪である殺生丸を拒み、雷のような痺れを彼の身体にもたらす。

――気に入らない――と感じた。
不自然過ぎるほど清められた空間だ。
もともと、高山や深い森は自然の霊気を集めやすく、聖域と崇め奉られることは珍しくない。だが、この麓一帯に立ちこめる聖なる気は、明らかに自然に発した物とは違っていた。
自然によって練り上げられた聖域は雑然とした俗気を厭う。ゆえに修行の場として登ってくる者達は極端なほどに己の身を清め、自然の気と同化しようと試みる。
そこに人間の気が入り込む隙はない。聖域は全ての命を統べ、抱く。
この聖域は違う。
自然の気を意志の籠もる霊力でねじ伏せているような、そんな空間だ。

(だが成る程、奈落が潜むにはふさわしい)
殺生丸は薄く嘲笑う。
(何を利用したかは知らぬが、己の邪気を聖なる気の裏に顰めるとは。姑息なあやつの考えそうなことだ)
聖域の奥に邪気を顰めている敵を思い、殺生丸は嘲笑を苦く歪める。
どれだけ姑息と思おうとも、結局の所殺生丸には結界の奥まで入り込むことが出来ない。妖怪である殺生丸をこの山は拒む。根本に馴染まぬ異端のものとして排除しようとしてくる。
人より遙かに長い時を生き、ある意味自然の気によって強大な力を与えられた存在とも言える獣の化身、殺生丸を、だ。
霧雨の中、苦い面もちで踵を返しかけた殺生丸は、覚えのある匂いに気がついた。
何とはなしにその匂いの元が動く方向へと足を向ける。今現在、この地で存分に力を発揮できるのが、そやつらの種――人間だから、という意識が頭の片隅にあったせいかもしれないが、殺生丸は珍しくも自分の方からその存在に声を掛けた。

「1人で何をしている」
無人だと思っていたところで声を掛けられ、その相手は相当驚いたようだ。
咄嗟に錫杖を構えて振り向き、直後に緊張を解く。
思いがけない場所で会えたという喜びを隠す気もなく、弥勒はにっこりと微笑んだ。
「これはこれは、ここでお会いできるとは僥倖ですな」
そう言っていそいそと寄り添ってくる。
あからさまな奴だと呆れつつ、殺生丸は奇妙な刺激を感じたような気がした。
ざわりと背をなで上げられるような感触。
眉を寄せ、渋面になる殺生丸に気づかず、弥勒は山を見ながら嘆息した。
「困ったものですなぁ、ここは」
「何?」
急に反応した殺生丸に、弥勒は驚いたようだ。
「いえ、ですからこの山一帯は清浄すぎて、なんとも居心地の悪さを感じます。心身共に汚れているからだと仲間達にはからかわれますし、正直、非常に釈然としないものを感じます」
うんうんとしかつめらしい顔で1人頷く弥勒に、殺生丸はしらけた目をした。
弥勒の言い分は半ば冗談であると判ったからだ。

(……所詮は人間…この異様な清浄さにもその程度のことしか感じぬか)
そっぽをむきかけた殺生丸に、弥勒は驚く。
「少しお待ちを。いきなりどうなされたのです」
馴れ馴れしく触れてくる手を払いのけ、殺生丸は不機嫌な顔で歩く。
妙に気が立っていた。
聖域から離れてもなお感じるこの清浄さに当てられでもしたのかと思うと、なお腹が立つ。
(このような物に心中を乱されるなど――)
光が空を走り、雷鳴が辺りに轟いた。突然強さを増した雨に殺生丸は空を仰ぐ。
隣で弥勒が雨を避けるように袂を頭上に翳す。とはいえ、布程度で凌げる勢いではない。激しく叩きつけてくる雨足に、弥勒は音を上げたような声を出した。
「これは、どこぞで雨宿りの場所を探さねばなりませぬな」
勝手にしろと言いかけた殺生丸の腕を弥勒は掴んだ。
「ここへ来る途中に、山小屋の跡らしき物を見つけました。とりあえず屋根壁は残っておりましたゆえ、一時的に凌ぐくらいは出来ましょう、ささ」
強引に腕を引く弥勒に、なぜか殺生丸は違和感を感じる。
間違いなく見知った人間――それなのに、この違和感はなんだろう。
男に腕を引かれて走りながら殺生丸は眉を顰めるが、耳障りな雨音のせいで僅かな違和感はかき消されてしまっていた。


◆◆◆◆


岩場を少し下った所に、弥勒のいう山小屋はあった。
白霊山の梺から広がる森で仕事をする男達が使っていたのだろう。土間の隅には筵と薪が積み重ねられてある。弥勒はさっそくそれを土間の中心の囲炉裏に持ち込み火をつけようとする。が、取り出した火口箱を見て、小屋の入り口に立っている殺生丸に困った顔を向けた
「……火口が濡れてしまいました。火が点かない」
そのあまりにも情けない顔に、一つ息を付いた殺生丸は囲炉裏端によると薪に火をつけた。すっと手を寄せただけに見えたのに、たちまち燃え上がる火に弥勒は相好を崩してほっと息を付く。
「お手数をおかけしました。いや、助かりました、さすがにこれだけ濡れると寒くて」
少し前に見た、りんのほっとした表情と同じ顔つきに殺生丸はなんとなく気が抜けた。
敷いた筵の上に脱いだ僧衣を広げつつ、弥勒はそんな殺生丸を窺う。殺生丸があまり気乗りしない風ではあるが火の側に腰を下ろしたのを見て、薄く微笑んだ。
「……何がおかしい」
見とがめた殺生丸に、弥勒は微笑みながら答える。
「いえ、先程から少し気を張りつめているようにお見受けしましたので。なにか殺殿に警戒されるような事をしでかしたかと不安に思っておりました。近くに来てくださって嬉しゅうございます」
「別に貴様の近くに来たわけではない」
妙な気恥ずかしさを感じて素っ気なく答える。そう言ってから、殺生丸はさっき感じた弥勒の違和感を思い出した。
こうして対峙していても別におかしな所はない。
それなのに、なぜこんなにも胸がざわつくのだろう。
ちらりと男の顔を見ると、それに気が付いた弥勒がにっこりと笑みを返す。

別におかしな所はない。
馴れ馴れしいのは今に始まったことではない。
それに――。

考えているうちに思い至った。

なぜ、私は、この男に自分から声を掛けようと思ったのだろう。

私がこの男に違和感を感じるのは、この男自身になにかあるのだろうか。
それとも――私自身が変調をきたしているのだろうか。
あるいは2人とも。

何か常とは違う状況になっているのではないだろうか。

あまりにも漠然とした不快感。それの正体にまったく見当が付かない分だけ殺生丸はぞわりとした感じを受ける。

雨音がいっそう強く激しくなっていった。



 
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