◆ 妖雨 後 ◆


 
雨は止む気配がない。
弥勒は焦るそぶりもなく、乾きやすいように濡れた着物を何度もひっくり返しながら、火に薪をくべている。
「殺殿は着物を乾かさなくてもよろしいのですか?」
ずっと気になっていた、というような口調で弥勒が言った。殺生丸が無言でいると、隣に来て袂を触り首を捻る。
「……やはり、我々の物とは違うのですな。最初から濡れてもいなかったのようです」
「当たり前だ」
殺生丸は袂を取り返すように腕を引いた。男が側にいる所為か妙に落ち着かない。邪険なそぶりにも気を悪くした様子もなく、弥勒はまた首を捻る。
「まだ雨は当分止みそうにもありません。鎧を脱いでくつろがれては?」
そう言って鎧の紐に手を伸ばしてきた。その手を払い、殺生丸はきつめの声で言う。
「余計な真似をするな」
「余計な真似とは……その方がゆるりとお休みになられるかと思っただけですのに」
答える声が二重に聞こえ、弥勒の声に重なる響きに殺生丸ははっとした。

――何だ、この声は?

「そう気を張らずに、ゆっくりとなさってください」
はっきりと耳で聞き取れたわけではない。だが、微妙に弥勒本来の声とは違う、唸り声のような声が重なる。
「私を警戒しているのですか?」
雨音に遮られ、とぎれとぎれの声に集中していた殺生丸は、すっと襟元に伸びてきた手にはっとした。

「何をしている」
「髪が濡れているのではないかと思ったのです」
殺生丸が身体を引くと、逆に弥勒は乗り出す。殺生丸は、彼の膝の横に手を付き、ぐっと覆い被さるように近づけてきた弥勒の顔を真正面で見て眉を顰めた。軽薄な言動を見せながらも常に遠くを見透かすような目が、何か一枚、紗でも懸かったようにぼやけている。
いつの間にこんな事になったのかと殺生丸は驚いた。最初からか?自分から声をかけておきながら、なぜか顔を直視する気になれなかったせいもあるが、殺生丸は今の今まで気が付かなかった。
確かに違和感はずっとあったが、こんな取り憑かれているような様子はなかった。大体にして異常に自分が気が付かないという事自体、異常だ。

――私もこやつも、どうかしていたという事か?

気が付くと、弥勒は殺生丸の身体を床に押しつけ、覆い被さるような姿勢で襟元の合わせに手を伸ばしている。その背後にぼんやりと二重写しのように浮かぶもう一つの影。間違いなく弥勒と同じ形をしながら、表情だけが違う。
黒い霧のようにぼんやりとして、はっきりとした意志が見えない。

「法師、手を放せ」

現状を見極めようとするが、男に触れられるたびに気持ちが粟立つようで集中できない。
屋根を叩き続ける雨の音がさらに集中を邪魔する。
殺生丸は自分にのしかかる男の唇を避けて、顔を横にねじ向ける。
土間から煤で汚れた壁の境目辺りにあふれてくる、灰色の形のはっきりしない物。妖気すらもろくに感じないそれは次々と増え続け、法師の身体にはいのぼってくる。
弥勒はそれを感じていないようだ。機械的な手つきで殺生丸の鎧をはぎ取ろうとしきりに合わせ部分を探っている。
全てのことが気に入らなかった。怒りが妖気を増大させ、長い髪をふわりと浮き上がらせる。
「放せと言っておろうが!」
殺生丸は鋭く言うと、毒をたぎらせた右手を、真横の壁を切り裂くように一閃させた。

小屋内に満ちた大妖の殺気に、弥勒の身体にたかっていた灰色の物はネズミのような動きで反対側の壁に逃げた。少しの間をおいて毒爪に溶かされた壁が崩れ、それに支えられていた屋根の一部ががらがらと落ちてくる。
一気に雨が小屋内部に吹き込んだ。火が消え、もろに雨に打たれた所で弥勒ははっと意識を取り戻したようだ。状況がまだ判っていないようで、ずぶ濡れになりながら自分の下で苦々しい目を向けている殺生丸に、ふと頭に浮かんだ言葉をそのまま告げた。

「……これは……まさしく濡れ場でしたな」

次の瞬間、強烈な蹴りをくらって弥勒は仰向けにひっくり返った。
蹴り飛ばされたことにより、弥勒は完全な覚醒を果たすことが出来たようだった。
「どうも、私は何かの意志に流されそうになっていたようですな。貴方にさわりたい、と強烈に感じたのは覚えておりますが、押し倒そうなどとまでは思ってませんでしたのに」
殺生丸は横目で言い訳するその顔を見たが、その事についての言及はしなかった。おかしかったのは自分もそうだ。『押し倒される』つもりなど全くなかったのに、結果的にはそういう姿勢をとらせてしまった。本来の体力差を考えれば、法師1人がいくらその気になったところで自分が自由にされる事はあり得ない。

最初から、どこかおかしかったという事か、こやつも私も。

殺生丸は忌々しく感じた。その元凶は彼等2人を遠巻きにして集まり続けているこの灰色の物体の所為だというのは判るが、さざ波のように響いてくる思念は抽象的すぎて考えが読みとれない。
しかも、妖気と言うほどの妖気もなく、実体もない。そのはっきりとしない正体に、もどかしさだけが募る。
弥勒は一度は乾きながらも、りまたずぶぬれになった僧衣を纏い、眉根を寄せて考え込んでいる殺生丸を促した。

「とりあえず、ここは良くないです。離れた方が…」
言いかけたところで、片膝をついている殺生丸の足下に何かがまとわりつこうとしているのが見えた。雨に打たれ、ぼんやりとした輪郭が浮き上がる。
弥勒は咄嗟に錫杖を地に立て、念を凝らした。ぱちっと白い火花が散って弾かれた物が近くにいた物と合体して大きくなる。
それを合図にしたように、バラバラに蠢いていた物達が寄り集まり、一つの不定型な物体となる。床から壁を伝いまだ残っている屋根までも覆う物体に、弥勒はぞっとする。そして一つに固まったせいか、今まではっきりしなかった思念が形を成す。

「……なんだと?」

殺生丸は眉根を寄せた。それらが発している思念はたった一つ。
『身体が欲しい』とそれだけ。
頭上から落ちてきそうな物体を凝視したまま動かない殺生丸の前に、弥勒は再び錫杖を翳した。結界に触れた物体は弾け、泥の飛沫のように小屋の中に飛び散った。そして落ちたそばからまた近くの物と合わさり、ぞわぞわと地を這いながら弥勒達の足下に迫ってくる。
「殺殿!」
弥勒はせっぱ詰まった口調で動かない殺生丸を呼んだ。不意に妖が動く。
乱暴に弥勒の襟元を掴むと、軽く地を蹴って一気に空高く跳んだ。
あっと思う間もなく小屋が足の遙か下方に見え、弥勒はその急激な移動に眼が眩む。雨を弾いてはっきりと見えやすくなった物体が下から触手を伸ばしてくるのが見えたが、さらに高みに跳んだ殺生丸に届くことはなく空しく落ちる。
弥勒はぞくりとしながら殺生丸を見た。まっすぐに前を見据えるその顔は無表情だが、瞳が怒っているように見えた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

山から離れるにつれて雨は小降りになり、やがて止んだ。
濡れた法衣から寒さが骨身に染みこみ、弥勒はぶるっと体を震わせる。
横を見ると殺生丸が山の方を見ている。その視線はやはり険しい。
「……先程の奇妙な物体の正体の見当は付いたのですか?何やら、非常に不機嫌そうな」
「あれは、妖怪の残骸だ」
殺生丸は吐き捨てるように言った。
「残骸?」
「あの聖域の結界に強引に身体を浄化され、それでも消えたくない妖怪の念が集まったものだ。あやつらは、私達の身体を欲していた――」
弥勒はすうっと背筋が凍るような気がした。
「……私達の意志に少しずつ入り込み、同調しきったところで身体を奪うつもりだった?」
「そうであろろうな。奴らはあの雨にも混じり込んでいたのかも知れぬ。思えばあの小屋に行く以前から変調はあった」
奇妙な刺激。そして、自分から人間の男へ声を掛けたこと。
あの時点ですでに思考に影響を受けていたとしか思えない。
忌々しげな殺生丸の表情をどう思ったのか、弥勒は白霊山を眺めて独り言のように言う。

「……妖怪は人に仇を成す物。そういった決めつけが作り上げているのかも知れませぬな。私共の仲間には仇成すどころか非常に協力的で、なまじの人間よりも害のない妖怪がおりますが、その者達もぐったりと辛そうでした。実は私もけっこう気分悪くなりまして、汚れているなどと揶揄されてしまったのですが」
「貴様、坊主のくせに聖域に入れぬほどに汚れているのか」
「あのー、あまり言葉どおりに受け取らないでくださいね。一応、入れますよ、聖域」
ひょっとして冗談を言われたのだろうか?と首を捻りつつ、弥勒は言い足した。
「この山は徳高き僧が寺を開き、どんな罪人の汚れも浄化するといわれた霊山なのだそうです。ですが、その汚れが何かを判断するのは誰なのでしょう?確かに私は汚れているのでしょうが、だからといってあの山の結界に触れて、突然清浄な心根に変わったわけではありません。そうと望まぬ者の魂まで強引に浄化することは出来ぬのでしょう」
「だが、妖怪の身体は浄化する」
殺生丸は麓に立った時感じたあの攻撃的なまでの清浄さを思い出した。

「そう、身体は浄化されても、生きたいと思う妖怪の魂までは浄化できない」
弥勒はやっと納得がいったように、あの小屋のあった方向を見た。
「妖怪の残骸。一方的に汚れていると決めつけ、排除することが、聖なる行いといえるのかどうか」
「貴様も法師のくせにたいがい妙なことを抜かす」
「私は、妖怪の全てが邪悪ではないと知っておりますので」
しらっとして弥勒は答えた。
「むしろ人間の行いの方が邪悪な場合もございましょう。己の罪を悔いることを知らぬものは、永遠に罪を犯し続けます。そやつらは人間ゆえにこの結界に身体を奪われることもない。それはおかしい」
答えを見いだしたように弥勒は1人頷く。
「この聖域を保っているお方がどれほど徳高いかは存ぜぬが、これはあってはならぬ物のような気がします」

そう言いきった弥勒法師を殺生丸は無表情に見つめた。
(あってはならぬ物か。…人間がそうと見極めるとはな)
男に気づかれぬよう薄く苦笑いを浮かべ、殺生丸はその場に背を向けた。
放っておいてもこの結界を消滅させるためにこの男は動くだろう。ならば自分は待てばいい。この結界が無くなり、この山が真の姿を現す時を。
満足して立ち去りかけた殺生丸に弥勒は慌てた。
「少しお待ち下さい、ここでお別れというのはあまりにもつれないのではございませぬか?せめて…」
言葉を最後まで言いきる前に派手なくしゃみが出た。殺生丸の足が止まる。

「せめて、私が風邪でぶっ倒れないかどうかくらい、見定めてから立ち去ってください…」
濡れた身体を抱いて、歯をガチガチさせながら弥勒は言う。
「寒いのか?」
「寒いです、火が欲しいです」
殺生丸本人は最初から濡れてなどいなかったような、すっきりとした顔だ。実際に着物も乾いている。
(……なんという、脆い輩だ…濡れたと言ってはすぐに身体に変調を来す…)
仕方ないと言いたげに、殺生丸は弥勒の側に戻った。
どこかその辺に捨てられたあばら家なり、堂なり、どこか火を焚いて休める場所を探さなければならない。仕方なしと言った風情で歩調を合わせる殺生丸と並んで歩きながら、弥勒は震えながらも嬉しそうに笑った。
「ところで、一つ思い当たることがあったので、言ってもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
面倒くさげに答える妖に、法師はニコニコと言った。

「先程、私は確かにあの妖怪の念に影響を受けて貴方に馴れ馴れしい振る舞いをいたしましたが、もしもあの時一緒に居たのが貴方以外のお方だったら、いくら影響を受けたところで触れたいなどとは考えなかったと思います」
何が言いたいのかと、問いたげな目に殺生丸はなった。
「いくら念が寄り集まった物とはいえ、所詮は身体を無くして彷徨うだけの物。まったく望んでいない事を強制的に行わせるほどの力は、なかったのだと思われます。ですから、あの小屋の中での行為の半分以上は私の意志でもあったのではないかと…」
そこまで言ったところで弥勒は、凄まじく険のある目で睨み付けられて沈黙した。
殺生丸はぷいと顔を逸らすと、弥勒を放って足を早める。
「え、あのその、気分を害されましたか?お待ちを。別にからかっている訳ではなく、ただ、私が貴方と一緒にいることを望んでいると、それを伝えたいだけだったのですが。ひょっとして、迷惑だったとか仰いますか?」
弥勒は急いで後を追いかけてくる。
身体の具合が悪そうには見えない。殺生丸はこのままほったらかしで帰ってやろうかと思った。
(何が、望みだ。私があやつに自分から声をかけたのも、あやつの手を押しのける気がしなかったのも、私自身の意志もあったとぬかすのか)
かといって、そうでなければあの妖怪の残骸とも言える念に自分が引きずられた、操られていた、という事になってしまう。それはそれで誇りが傷つけられる。
(この私が、易々とあのような連中に心を乗っ取られかけるなどあり得ない、だからと言って……)

背後から追いかけてくる弥勒が急に立ち止まり、また大きなくしゃみをした。
続けざまに二度三度。殺生丸の足が止まる。そして苦い顔のまま振り向いた。
(……この男を放ったままにしておくことも出来ぬのか、この私が)
気難しげな顔つきで戻ってくる殺生丸に、袖口で口を覆った弥勒はほっとした顔で笑う。
「きっと戻ってきてくださると思っていました」
調子よく言う男に、殺生丸は小さな吐息を漏らし、僅かに肩を竦めた。
この男の言葉を今更否定する気も起きない。
確かにこの男に会いに来た事自体、自分の本心からの行動だったのだろう。ただ、それを実行に移したのが、あの残骸共の後押しがあった所為だと思うと、それだけが腹立たしい。

(私の行動のすべては、私が自分で決める。たとえ、僅かであってもその決定に他者の意志があってはいけない)
――今、私が望んでいるのは――。

殺生丸は手をあげた。
雨に濡れ、震えて口元を抑えている男を支えてやるために。


 
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