◆夢喰い◆




珊瑚が寝坊をした。
別にそれだけの話だったのだが。

「珊瑚ちゃん、なんだか顔色が悪いよ。夢見が悪かったの?」
「おい、大丈夫なのかよ」
「疲れたのでしょう、きっと。今夜には楓様の村に着きますから、ゆっくり休みなさい」
口々に言われ、珊瑚は困惑顔になった。
「寝坊したのは申し訳なかったけど…なんでそんなにみんなで心配するの?」
「だって、いつもなら夜明け前には目が覚める珊瑚ちゃんが、起こされるまで起きないなんて…」
「だよな、かごめじゃあるまいし」
「何よ、あたしがどうしたって言うのよ」
「おめーは、いつもいつもぐーすか寝こけてるじゃねえか」
ささやかながらも口げんかに発展しかけた二人に、弥勒がまぁまぁと宥めに入る。

「でも本当に顔色が悪いですよ、具合が悪いならはっきり言いなさい。それとも、やはり悪い夢でも観たので?」
心配げな弥勒に、珊瑚は首を振った。
「ううん、むしろ、いい夢…だったよ…懐かしくて、暖かくて…ずっと見ていたくなるような夢…」
そう言ってから、珊瑚は少し残念そうに笑う。
「内容は全然覚えてないけどさ。本当、楽しかったよ」
弥勒は僅かに思案気な顔つきになった。


数刻後、弥勒は1人で付近を歩いていた。
犬夜叉達は一足先に楓の村に向かっている。たいした事はないのだろうが、珊瑚の話が僅かばかり気にかかった弥勒は、1人であたりの森を少し調べてから戻ることにしたのだ。
妖気や邪気を感じたわけではない。弥勒自身、何がどう心に引っかかるのか判らない。
例えるなら、長い間、法力僧として旅してきた者のカン。
張りでた木の枝を払い、さらに森の奥深くまで分け入ったところで、弥勒は古い祠を見つけた。
そして、その前で佇む一頭の妖獣、一匹の妖怪、そして1人の少女。
「おやまあ、これはまた偶然」
剽げた声を上げた弥勒に気がつき、りんがにっこりしながら駆け寄ってくる。
「あ、弥勒様だー」
「な、な、なんでお前がここにいるのじゃ!」

甲高い声で喚く邪見に、弥勒はにっこりとドスの利いた笑顔を向けた。
「おや、私がここにいると何か問題でも?というか、なんか、てめえ、やましい事でもしてんのか?コラ」
ニコニコしながら自分の頭を鷲掴みにする弥勒に、邪見はあたふたと暴れはじめた。
「弥勒様、邪見様何もしてないよ、ここで殺生丸様を待ってるの」
「おや、そうだったんですか。殺殿はいずこに?」
「貴様が知る事ではないわ」
涙目でそう怒鳴る邪見の頭を掴んだ手に力を込め、弥勒は顔つきだけは優しく言った。
「おや、まだそんなつれない事を仰る。やっぱりこういう事は身体に訊かないと駄目ですかねぇ…」
「か、か、身体に?身体に?」
緑色の肌を恐ろしげな青緑に染め、邪見は冷や汗を流しながらそう繰り返す。

「弥勒様ってば、邪見様を苛めないでよ。殺生丸様はなんかご用があるとかで、この祠の中に行ったの」
「りんは素直でよい子ですね。殺殿のしつけがいいと見える」
ぽいと小妖を放り投げ、弥勒は今度こそ本心からの優しい笑顔でりんの頭を撫でた。
「どんな用事か、それは言って行かれたのですか?」
「ううん、分かんない。邪見様も聞いてないんだよね」
ちらりと横目で自分を見る弥勒に、邪見はぶんぶんと首を振った。
「聞いてはおらぬ、待っていろと言われただけじゃ」
「ふうん…」

弥勒は訳ありげな古い祠を眺め、扉を開けてみる。
腰をかがめて入れるくらいの小さめの扉ではあるが、中は意外と広く、その一番奥には地下へと続いているらしい通路の入り口がある。
「ふうん、この奥に行かれたのですか。どれ…」
足を踏み込みかける弥勒の僧衣の裾に、邪見はしがみついた。
「これ!中へはいるな、とそう言われているのじゃ!」
「そう言われたのはお前とりんでしょう?私は何も知りませんよ、では、そういう事で」
裾を掴む邪見の身体をつまみ上げ、ころりと祠の外に放り出すと、弥勒は地下への通路を降りていった。

◆◆


ひやりと冷たい地下への通路は、少し行った所で岩から鍾乳石へと変わった。
つるつると滑る足場に、ほんのりと発光しているような鍾乳石の壁。
天井からは時折水滴が落ち、遠くで地下水が流れる清らかな音も聞こえる。
あの小さな祠の下にはこれほどの広さの洞窟があったのかと、弥勒は感歎の面もちで先に進んでいった。
半刻ほど進んだところで、ひときわ広い場所にたどり着く。
綺麗に磨かれたそこは中央が祭壇のように盛り上がり、その中心に一つ、翠緑色に輝く勾玉の首飾りが一つ安置してある。
柔らかく光るそれはよく見ると脈打ってるかのように明滅しておりただの石ではない事は明白だったが、それに邪気は感じない。むしろ、包み込むような優しい気配を放っている。
殺生丸の姿はどこにも見えない。
弥勒は引き寄せられるようにその勾玉にふれた。
すっと柔らかい睡魔が弥勒を包み込み、そうと自覚する前に弥勒の身体はその場に倒れ込んでいた。


鍾乳洞の奥から現れた殺生丸は、勾玉の祭壇の下に倒れている身体を見つけ、すぐにその理由を察すると眉をわずかに顰めた。
(……この男、不用意な真似をしたと見える)
ここにあるのは、『夢喰い』と呼ばれている勾玉。触れた者に望む夢を見せると言われており、それ故、古くは神器として崇められていたらしい。
今はもうその力は失われ、忘れ去られた宝玉であったのが、どうやら最近になって力を取り戻しつつあることを知り、殺生丸はその原因を調べに来ていたのだ。
失われた力を復活させた物とは――自分にとって何か役立つかと思って来たのだが、どうやら単にこの辺りの土地神が気まぐれに使っていただけらしい。
殺生丸は知らぬが、その力の波動が漏れ、昨夜、珊瑚は懐かしくて深い夢を見たのだった。
もっとも『夢喰い』の名の通り、この石は夢を見た者の生気を喰らう。
波動を受けただけの珊瑚は、疲れを感じただけですんだ。
では、実際に触れてしまった弥勒は?
殺生丸は苦い予測に忌々しげに顔を歪めると、俯せに倒れたまま深い眠りに落ちている法師の眉間にそっと手を触れる。
弥勒が観ている夢が、殺生丸の中にも流れ込んできた。

◆◆


『弥勒、弥勒ーーー』
善良そうな女の声が少年を呼ぶ。あたりはすでに夕暮れ。さっきまで少年と共に遊んでいた村の子供達は、とうに自分の家に帰っている。
『母上様!』
少年が女の着物に飛び付いた。上等ではないが、綺麗に手入れされた清潔な着物だ。
少年の着ている着物も同様に新品ではない物の丹念に継ぎを当て、手入れがされている。
女の手はふっくらと肉がのり、日々の仕事で荒れてはいるが、それでもなお柔らかく少年の手を包む。
『父上様がお帰りになったのよ、早く戻りなさい』
『父上様が?』
少年は歓喜に頬を染めて家路を急ぐ。
たどり着く先は山の上の寺。住持の夢心が背の高い埃だらけの僧衣を着た者と境内で立ち話をしている。
『父上様!』
幼い弥勒は、まだ旅姿のままの父に飛び付いた。
『旅のお話を聞かせてください』
『帰るなりそれか?先に言うことがあるだろう?』
がさがさと割れた声の父が苦笑しながら弥勒を抱き上げる。

『お帰りなさい、父上様』
『今帰ったぞ、弥勒。ちゃんと挨拶が出来るようになったんだな』
『そりゃ、わしの教えがいいからだろうが』
『夢心殿の教えが一番心配なのだがな』
笑う夢心と父。遅れて来た母がもの柔らかに言う。
『さあ、夕餉にいたしましょう、弥勒はじじ様を呼んでおいで』
『父上はお変わり無いか?』
『ええ、もちろん。相変わらずですわ。夢心様といい勝負』
くすりと笑う母に、赤ら顔の夢心は心外だといった風に文句を言う。

『おいおい、わしは酒好きじゃが、あの御仁の女好きには負けるわい』
『困った父上だが、あの法力は尊敬に値する。ほれ、あの妖怪退治の話』
『父上様、弥勒にも教えて。じじ様の妖怪退治のお話』
『おや、弥勒には教えてなかったか?じじ様は若い頃、たいそう邪気の強い妖怪と何度も戦い、ついにこれを討ち滅ぼしたのじゃ。「奈落」という名の――』
屈託なく笑う父親の顔がぼやけ、闇に溶ける。
夢心も、そして母親も。
幼い弥勒も父に抱かれたまま、時が止まる。

これが弥勒の夢。
呪いを知らぬ死の恐怖も遠い、屈託のない笑顔の少年の夢。
平和で優しい夢の絵の中で集う家族は、笑顔を張り付かせたまま、動かない。
殺生丸はふいと意識を逸らす。
幸福な家族の夢――殺生丸の視点が変わった。


そこは桃の花が咲き乱れる、甘い香りの庭。
花びらが雨のように降る中、打ち掛けを纏った美しい女が殺生丸を呼ぶ。

『若や――殺生丸――』
殺生丸は自分に向けて手を伸ばす女を仰ぎ見る。
女は膝を折り、幼い息子の目をまっすぐに覗き込んだ。
『どうしたの?母様を忘れてしまったの?困った子。面白い物を見つけると、他を忘れるくらい夢中になってしまうのだから――母様のことは忘れないでね?』
少女のような笑顔で、『母』は殺生丸に笑いかける。
『さあ、いらっしゃい――あちらでお父様が呼んでいらっしゃるわ。今日は剣の稽古を付けてくださるのですって。殺生丸は剣のお稽古、大好きなのよね――』
微笑みながら幼い息子の滑らかな頬に触れる、美しい『母』。
その後ろからは逞しい『父』が呼ぶ。
『殺生丸』
二本の木刀を持ち、息子を誘う。さあ、一緒に――と、笑いながら木刀を差し出す。
並んで息子に微笑む大妖の夫婦。並んで、まるで幸せな家族のように。


「これは夢だ」
殺生丸は感情を交えずに口にした。
低かった視点は高くなり、並んで微笑む『両親』の姿は薄っぺらな紙の人形になる。
これは夢。
甘く香っていた桃の花びらも、薄紙の切れ端に変わる。

すべては夢。
殺生丸に微笑みかけた『両親』。
だがその顔も、その声も、頬に触れた母の指の感触さえ、殺生丸には感じ取れない。
何もないのだ。
殺生丸の中には、それを懐かしいと思い出させる記憶が何一つ無い。
弥勒の夢のように、「こうありたかった」――そんな思いすら、殺生丸にはない。
何もない。
殺生丸の前に広がるのは、茫漠とした砂漠に似た空間。
甘やかに殺生丸を包むものは、何一つ存在していない。

◆◆


頬に落ちた水滴に、弥勒はぼんやりと目を開けた。
頭が重くてだるい。身体を起こしながら何度か頭をふり、それから今も微かに残る夢の余韻に弥勒はため息を付く。久しぶりに聞いた父の声、母の手の温かさ。
思い出すのも悲しい程に遠い記憶だが、それでも胸を熱くする。もう一度深くて長い息を付き、弥勒は辺りを見回した。
鍾乳石で出来た地下の洞窟。自分が何をしにここを訪れたのかを思い出し、弥勒は急に慌てた風に立ち上がりかけ、そこで祭壇に凭れて座っている殺生丸に気が付いた。
殺生丸は殆ど瞬きもしていないような硬い表情で弥勒を見ている。
いや、視線がこちらを向いているだけで、実際には目に入っていないように感じられた。

立ち上がるとふらりと目眩がする。弥勒はこめかみを指で押さえ、舌打ちしてからまっすぐに身体を伸ばした。殺生丸は相変わらず動く様子がない。
その前まで歩きより、そして祭壇の上にあった勾玉が光を失っていることに気が付いた。
それに指を伸ばしかけ、弥勒は確認するように殺生丸に目を向ける。
大妖は無表情に顔を上げると、面倒くさそうに口を開いた。
「それはただの壊れた玉だ。もうなんの力もない」
「では、これは、その――何かしかの影響を辺りに与えていた物なのですか?」
「『夢喰いの玉』。大昔の神器だ」
「夢喰い…」
口の中で呟き、これが原因だったのかと弥勒は得心した思いで小さく頷いた。
「とにかく、これはもうなんの力もないのですね」
「無い」
やはり面倒くさそうに答え、殺生丸はまた視線を前に向ける。
それはさっきまで弥勒が倒れていた方向。やはり自分を見ていたのではなく、たまたま視線の先に自分がいただけなのかと思い、弥勒は残念そうに苦笑いを零した。

「殺殿の用事も、これに関わること、…だったのですね」
隣に腰を下ろしながらそう訊くと、殺生丸は横目で弥勒の顔を見ただけで答えない。
なんにせよ、自分が夢を見ていた間にすべて終わっていたらしい。
弥勒は機嫌を伺うように殺生丸の横顔を見た。
「これは…殺殿が壊したのですか?」
殺生丸の表情が微かに動く。
僅かに俯き、地をじっと見つめ、その口元に寂しげな笑みが小さく浮かぶ。
「私の夢は、さぞ味気なかった事だろうよ」
ぽつりと呟き、殺生丸は表情を消した。
が、不意に頬に触れた指の感触に、殺生丸は伏せた瞳をあげる。
隣に座っていた男が自分の顔を覗き込み、そして何か気遣うような顔で手を伸ばしている。
「何か、あったのですか?」
口ごもるように問いながら、弥勒は微かに指先だけで殺生丸の顔に触れる。

透明な指のように触れた感触がなかった夢の中の母の手を思い出し、殺生丸は不可思議な表情を浮かべる。
――『触れられる』というのは――こういうものなのだろうか。

男の指が自分の頬の上を滑る。何か存在を確かめているような、微妙で、そしてくすぐったくなるような感触。異物を感じないのは、触れる手の体温が自分とほぼ同じだから。
熱くもなければ冷たくもなく、不快感を感じない。

されるがままの殺生丸に、弥勒は不可侵の領域に踏み込んだような気がした。
次の瞬間には毒爪が襲いかかるかも知れない――そう胸が縮む緊張感を感じながら、弥勒は触れられるまま、むしろあどけなく見える表情で自分を見つめている大妖から離れる事が出来ない。
微かに頬に触れるだけだった手が、徐々に確実な意志を持って頬から項へと動く。
長い髪を指に絡め、弥勒は大妖の首筋を支えるように手を添えた。
僅かに仰のいた白い面輪は、変わらず無防備なままで弥勒を見つめている。
弥勒は小さく息を飲み込んだ。
目の前の人間が感じている衝動に気が付いているのかいないのか――それとも弥勒のすることなど最初から眼中にないからなのか、殺生丸は弥勒を制止しようとはしない。

顔をよせ、唇を合わせた。
それでも殺生丸は動かない。
僅かに顔を放してその金の瞳を覗き込むが、そこには拒絶の色も何も浮かんでいない。
自らを制止できず弥勒はもう一度口付けると力一杯両腕で抱きしめ、銀の髪に顔を埋める。
触れてくる感触に殺生丸は小さく唇を開くと息を吐き出し、弥勒の次の動きを待ちわびるように僅かに体を震わせる。
腕の中に預けられた身体の重さと目の前で薫る白い項に、弥勒の中から現実感が消えていった。


人が触れる。
自分以外の誰かが自分に触れる。
拒むためではなく、追いやるためでもなく、ただ腕の中に囲い込み、抱きしめる。
傷つけるためではなく、愛撫するために触れる手。
覚えてもいない幼い頃、こんな風に触れられたことが自分にもあったのだろうか。
そう殺生丸は自問するが答えはでない。
何一つ覚えていない、こんな風に触れられた記憶がない。
帯を解かれる衣擦れの音が、鍾乳洞の中に奇妙なほど大きく響く。
されるがままに身体を預けながら、その事になんの疑問も感じない。

これは夢――ひとときの夢。

夢の中で香りをなくし薄紙と化した花びらが再び色を持ち、甘い雨となって降り注いでくる幻に夢と現実の境が見失われる。
全身に触れてくる指、抱きしめる腕。1つになってしまいそうな程に、強く、深く感じる体温。
殺生丸はその感覚に飲み込まれていく。
溶けていく身体。
夢ごと、現実ごと、喰われて消えてゆくような気がした。