| Zの旗の下で 航 空 兵 力 |
| 1 草創期の軍用機 2 海軍航空本部(航本)設立 3 予科練 4 日本海軍の転機 |
![]() |
5航空戦力としての 「艦載機と水上戦闘機」 6 戦略爆撃機<96陸攻>と 戦略戦闘機<12試艦戦> 7 中国戦線 |
| 2 海軍航空本部(航本)設立 日本海軍では、長らく、新しい分野である「航空兵力」に関しては、担任部署が定まらないでいた。例えば、海軍省軍務局が航空行政を担当し、海軍省教育局が航空教育を担当、海軍艦政本部は航空機材の担任というように、バラバラで活動にあたっていた。しかし、「航空兵力」の重要性が増すにつれて、一刻も早い航空部署の設立が唱えられてきた。 そこで、1927(昭和2)年4月、<航空本部(通称 「航本」)>が艦政本部より分離する形で設置されたのである。
海軍航空本部(航本)を語るとき、二人の司令官を語らねばならない。 その一人が、連合艦隊司令長官として名を馳せた山本五十六である。 山本五十六は、海軍兵学校32期の優等生であった。また、日本海海戦には、装甲巡洋艦「日進」に乗り込み、左手の指二本を失うという負傷を負った。その後、山本は海軍での仕事を丹念にこなし、順調に出世していった。 1919年には、海軍少佐として、米国駐在武官となった。 そのおり、ハーバード大学に語学研修生として籍を置いた。山本は米国の強大な産業と米国人の剛胆さに目を見張った。当時、日本では、米国人はダンス好きの軟弱な国柄というのが一般的であった。しかし、山本の眼前にあったのは、ダンスもするが、フットボールでしゃにむにボールを追いかけ、しかも、頭脳を使ってゲームに執着するアメリカ人のエネルギーあふれる姿であった。また、山本は業務の合間を縫って、というより、武官としての業務として、デトロイトの自動車工場、テキサス、メキシコの油田を視察している。山本は、あきらかな国力の差をここで認識したのだった。 米国から帰国した山本の職務は、その後、軍務よりは、ワシントン軍縮会議随行員といった政治の分野、海軍大学校教官といった教育の方面が主となってくる。1923年には、海外出張を命じられて、欧州へ出かけている。
特筆すべきは、1924(大正13)年の出来事である。山本は、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭となったのである。時あたかも、軍縮の時代であった。日本海軍も13隻の艦艇を破棄し、戦艦は空母に衣替えしていた。また、一三式艦上攻撃機が霞ヶ浦・旭川間を無着陸飛行した年でもあった。 時代が大きく動いていたのである。 その年の12月、山本は霞ヶ浦で一つの訓練を受けていた。それは飛行機の操縦であった。元来、聡明な人物であったので、習得にはさして時間を要しなかった。山本は程なく単独飛行ができるまでになった。 山本が、航空機の存在に大きく心を動かしたのは確実である。 1930(昭和5)年9月、山本は海軍航空本部に出仕することなり、12月には、海軍航空本部技術部長兼海軍技術会議議員となったのである。この年、海軍軍事参議官会議で、制限外艦艇の増強と航空兵力の増強を要望する議案があがっていた。日本が欧米の圧力に屈せず、戦いきるには、空母と航空機による戦いがベストではないかと考えられはじめてきたのである。 もちろん、これは先進的な考えであった。 従来、海戦は、大きな艦艇とそこに積まれた巨砲で決まるものと考えられていた。翼が二枚ついた飛行機で決着がつくものではないという考えが、当然のごとく、日本海軍の上層部にはあったのである。 そうした中で、航空兵力に注目する先進的な将校と山本のような理解者が登場したことは、注目すべき事柄であったのである。 その後、山本は海軍省、軍令部といった政治の方面で活躍することになる。 1939(昭和14)年8月30日、山本は連合艦隊司令長官に就任する。 折しも、中国戦線では日本海軍航空隊と中国機が空中戦を展開していた。そうした最中、海戦の勝敗を決するのは航空決戦だとして、航空部隊の育成に努力するのだった。
また、来るべき日米開戦に備えて、第1航空艦隊作戦参謀源田実に作戦立案を指示した。源田は緻密な頭脳で、真珠湾攻撃作戦を立案した。 この作戦には、物資を補給するための南方作戦が一段落するまで、真珠湾の米艦隊主力を開戦当初で叩いて、米国民の士気を挫きたいという心理戦の側面があった。圧倒的な工業力の前に、長期戦を戦うには不利であるとの判断がそこに働いていたのである。そのため、緒戦で絶対的な優位に立ち、早期に講和をすることで、この不利な戦争を終わらせようという考えが山本にはあったのである。 山本はそのために、機動力をもった航空兵力を重視したのである。 もう一人、特筆すべき人物がいる。大西瀧治郎である。 大西と山本は、霞ヶ浦の航空隊で出会った。大西は、その時、航空に対する経験と知識に浅い山本の補佐役として常に側にあった。霞ヶ浦での一年有余にわたる出会いは、二人の信頼関係を強固にした。 しかし、二人が対立した時があった。日米開戦やむなしとなったとき、山本は窮余の策として真珠湾の米国太平洋艦隊を航空攻撃で叩こうとした計画した。その折、山本は大西に対して、作戦立案を指示しているのである。山本は航空の専門家である大西の意見を尊重したかったのである。しかし、大西は反対した。 大西は、第1航空艦隊参謀長草鹿龍之介少将とともに、連合艦隊旗艦「陸奥」を訪れ、山本に作戦中止を進言したのだ。 その主な理由は、米本土を攻撃することは米国民を奮い立たせることにつながる。米国民が怒れば、彼らは最後まで日本と戦うことになる。真珠湾攻撃は、その後の和睦の余地を失う攻撃であるというのがそれであった。 しかし、真珠湾攻撃は敢行された。 大西は、昭和4年11月1日、航空本部教育部員となり、続いて、昭和11年4月1日、海軍航空本部教育部長となった。さらに、昭和17年3月20日、海軍航空本部総務部長となる。
大西は海軍兵学校40期で、水雷・砲術を学び、大正4年、輸送船を改造した母艦「若宮」に乗り込んだときから、航空との関係が深まってきた軍人である。翌大正5年には、横須賀海軍航空隊付きとなり、以来、霞ヶ浦・佐世保の海軍航空隊で指揮をとり、昭和2年には、第一艦隊司令部付きおよび連合艦隊参謀となった。昭和3年11月には、日本初の制式空母「鳳翔」の飛行長となった。戦局が厳しくなった昭和19年10月には、第一航空艦隊司令長官となった。 この昭和19年10月、日本海軍は、マリアナ沖海戦で米国海軍に大敗を喫する。サイパン島も陥落し、日本政府が定めた<絶対国防圏>は、もろくも崩れ去ろうとしていた。そこで、大本営は<捷一号作戦>を発動し、栗田艦隊がレイテ湾へ突入し、米国機動部隊の殲滅を意図するが、しかし、大西が司令官となった第一航空艦隊の実動機数は30機余りという惨憺たる状況であった。 そこで、すくなくとも、米海軍の空母の甲板に穴をあけて、それが使えなくするようにするためには、確実な命中を必要とする攻撃が必要と考えた。もちろん、このたびのイラク戦争で使われたハイテクミサイルなどない時代であった。 大西のアイデアは、零戦の腹に、250キロ爆弾を装着して、米海軍空母の甲板に突っ込むという攻撃方法であった。 攻撃隊は「神風特別攻撃隊」と呼称されることになり、また同攻撃隊は四隊に区分され、それぞれに「敷島、大和、朝日、山櫻」の隊名を付された。 昭和19年10月20日午前10時、特別攻撃隊全員を第201航空隊本部に集め、大西は訓示を行なった。関大尉を先頭にして、敷島、大和、朝日、山櫻の隊員24名が並び、玉井中佐と副官門司地親徳大尉が臨席した。 「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救いうるものは、重臣でも大臣でも軍令部総長でもない。むろん自分のような長官でもない。それは諸氏の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。従って自分は一億国民に代わって皆にお願いする。皆の成功を祈る。皆は既に神であるから、世俗的な欲望は無いだろうが、もし有るとすれば、それは自分の体当りが成功したかどうかであろう。皆は永い眠りにつくのであるから、それを知ることは出来ないであろう。我々もその結果を皆に知らせることは出来ない。自分は皆の努力を最後まで見届けて、上聞に達するようにしよう。この点については皆安心してくれ。 しっかり頼む。」 この話を側で聞いていた門司副官は、純一な雰囲気だったのは、長官が自分は生き残って、特攻隊員だけを死なせる気持ちが無かったからに違いない。はっきりした言葉には出さなかったが、それは私にも判ったし、搭乗員にはもっと敏感に伝わったようであると回想している。 神風特別攻撃隊の戦果は、以下のようにまとめられている。 「敷島隊」 空母「セント・ロー」撃沈、空母「カリニンベイ」中破、軽巡1隻撃沈。 「春日隊」「菊水隊」 空母「サンチー」中破、空母「スワニー」中破。 また、終戦までの特攻攻撃による戦死者数は、海軍が2525名、陸軍が1387名、人間魚雷回天による戦死者は80名となっている。 これらの青年による戦果は、当時の日本側の発表では、撃沈81隻、損傷195隻であったが、その後の調査では、撃沈34隻、損傷288隻であることが判明している。 特攻については、別にページを譲るとして、その後の大西について言及していきたい。 第一航空艦隊司令長官として、大西は苦しい戦いを強いられていた。そして、ついに米国に屈するときが来た。
大西瀧治郎中将は、特攻で散っていった若き隊員に続くべく、昭和20年8月16日未明、渋谷区南平台の軍令部次長官舎において、介錯なしで割腹自決を遂げた。 大西は、「特攻隊の英霊に日す 善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす 次に一般青少年に告ぐ 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり 隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ 諸子は国の宝なり 平時に処し猶克く特攻精神を堅持し日本民族の福祉と世界人類の為 最善を尽くせよ」と遺書を残している。 |
もどる3 予科練 若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞が浦にゃ でっかい希望の雲が湧く 燃える元気な予科練の 腕はくろがね心は火玉 さっと巣立てば荒海越えて 行くぞ敵陣なぐり込み 仰ぐ先輩予科練の 手柄聴くたび血潮が疼く ぐんと練れ練れ攻撃精神 大和魂にゃ敵は無い 命惜しまぬ予科練の 意気の翼は勝利の翼 見事轟沈した敵艦を 母へ写真で送りたい あまりにも有名な「若鷲の歌」である。作詞は西条八十、作曲は古関裕而という戦前のヒットメーカーたちの作品である。 この歌にある霞ヶ浦にあるように、予科練に入った学生たちは、霞ヶ浦の土浦海軍航空隊で日夜厳しい訓練を行いました。そして、多くの優れた海軍航空兵を育成したのです。現在この地には<陸上自衛隊武器学校>がおかれています。敷地内には、予科練があったことを記念して「雄翔園」があります。
「予科練」とは、日本海軍が養成した<少年航空兵>をさす。正式名称は「飛行予科練習生」である。 これに応募できた生徒は、満15歳から17歳の男子で、高等小学校卒業程度の学力を必要とするとされていた。海軍としては、当時の不況から、経済的に中学に進学できない、しかし、優秀な生徒を対象にして募集を行ったというわけである。 教育期間は3年、その後、1年の飛行戦技教育が行われた。 第1期の志願者は、全国から5807名となり、合格したのは、79名という超難関であった。 第1期生として入学した76名は、1930(昭和5)年に、海軍4等航空兵として、横須賀航空隊(追浜)へ入隊してきたのであった。(その後、予科練は霞ヶ浦に移動する。)
その後、<予科練>は幾度かの改革を行った。 1936(昭和11)年には、「予科練習生」という呼称は、「飛行予科練習生」と改称された。翌年には、<甲種飛行予科練習生(甲飛)>が新設された。これは、航空士官及び下士官を短期間に養成する目的で新設されたものであった。第一期生は250名で、受験資格は中学第四学年1学期修了程度で、養成期間は、従来の半分、一年半という短期であった。もちろん、その後に1年間の飛行戦技訓練がなされる。 これにより、従来の予科練は、<乙種飛行予科練習生(乙飛)>と改称されたのである。 1940(昭和15)年になると、航空兵以外の部署で任務についていた海軍の兵士から航空兵に選抜された<操縦練習生(操練)>と<偵察練習生>を統合して、<丙種飛行予科練習生(丙飛)>が発足した。この養成期間は4カ月であった。 また、1943(昭和18)年には、乙飛合格者の中で年齢の比較的高い者を短期で教育し、<乙種(特)飛行練習生>として採用したのだった。 昭和14年3月1日 海軍は、飛行予科練習生教育を、横須賀より茨城県にある霞ケ浦航空隊に移した。翌年、11月15日 霞ケ浦航空隊より予科練習生教育の任務を分散し、新たに土浦海軍航空隊を開設した。
<予科練出身者の戦争> 昭和12年7月7日 渡洋爆撃敢行。長崎大村基地より東シナ海を飛行して、中国本土を攻撃。世界注目の的となる(1期2期3期生参加)。 昭和16年12月8日 海軍機動部隊、真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を空襲。台湾基地航空部隊、比島方面敵航空兵力を空襲。 昭和16年12月10日 マレー沖空戦。英国不沈戦艦プリンスオブウエールズとレバレスを空襲し撃沈する。その後、印度洋・蘭領要地及び濠州に航空作戦を展開する。 昭和17年6月8日 ミッドウエー海戦。敵航空攻撃により、重大な損害を受ける。 昭和19年10月25日 戦局の不利を挽回するため「神風特別攻撃隊」を編成。戦闘機に250キロ爆弾を装備し、体当たり攻撃を敢行する。予科練魂を遺憾なく発揮する。 昭和19年11月20日 航空機保有数低下、遂に回天特別攻撃隊(潜水式特攻艦)を編成し、水中よりウルシーを攻撃す。その後震洋、海竜、咬竜、伏竜の各特別攻撃隊を編成す。 |
もどる| 4 日本海軍の転機 人類の歴史、とりわけ、科学技術の進歩は軍事を基軸にして発展してきたことは否めない。青銅器から鉄器への移行も、そこには進歩し、他の文明を駆逐していった闘いの歴史が必ずあるはずである。鉄砲が日本に移入されて、戦国大名達のいくさも大きく変わった。最新の兵器を持つこと、それを運用することではじめて、戦国の世を制覇することができたのである。反対に、青銅器に固執したり、古来の騎馬戦に執着したりしたものは滅びていった。 1930(昭和5)年の海軍もそうした転機を迎えていたといえる。 前年10月に発生したニューヨーク株式市場の大暴落は、世界に暗雲をもたらしていた。そして、欧米、とりわけ、米国は経済の立て直しこそが最優先課題としてあった。 また一方、米英両国は日本の駆逐艦に脅威を抱いていた。 1922年(大正11年)、ワシントン軍縮条約の締結により、主力艦保有数対米6割を受け入れた日本海軍は、仮想敵国米太平洋艦隊の迎撃作戦に新たな作戦をたてた。 それによれば、日米艦隊が激突する場所をトラック諸島などが位置する内南洋と仮想し、そこで米太平洋艦隊を打ち破るには、強力な水雷戦隊が必要と判断したのである。 八八艦隊計画が遂行していれば、仮に内南洋で水雷戦隊が米太平洋艦隊の主力艦隊攻撃に多大な被害を与えられなくても、後陣には米太平洋艦隊と匹敵する強力な連合艦隊が控えていた。しかし、八八艦隊がなくなった以上、後陣に控えるのは、対米6割の日本海軍でしかなかった。どんなに命中率の高い砲撃をしたとしても、勝ち目のない海戦を余儀なくされていたのである。 そこで、日本海軍は水雷戦を敢行する駆逐艦に新たな改造を施したのである。 その第一は、日米海軍の決戦場である内南洋まで、一気に進出可能な耐波性と、敵主力艦に対して、強力な破壊力をもつ重雷装であった。 強力な戦艦を中心に据えて、艦隊編成を行ってきた日本海軍は、ここへ来て、艦隊の端に位置して、戦艦護衛の任務に就いていた駆逐艦の戦力に重きを置き始めたのである。 耐波性と重雷装という要求を具現化したのは、「吹雪型」駆逐艦であった。
「吹雪型」駆逐艦は、基準排水量1680トン、全長118メートル、全幅10、36メートル、速力38ノット、搭載燃料475トン、航続距離4500海里、乗員219名のスマートな艦艇には、主砲として、50口径12.7cm連装砲3基、重雷装として、61cm三連装発射管3基、その他、7.7mm単装機銃2基と爆雷投下機能を備えた大型駆逐艦であった。 船体の大型化と重武装は、欧米諸国の駆逐艦を一気に旧式化したといっても良い。しかし、それゆえにこそ、船体の安定について問題があり、改良が加えられていった。 「吹雪型」駆逐艦の同型艦は24隻が作られた。第三次ソロモン海戦の<綾波>の活躍を見るまでもなく、米英両国の造船担当者は、この優れたこ駆逐艦に脅威を感じていたのである。それ故に、新たな軍縮条約の必要性を感じさせたのである。 それが、ニューヨークの暴落と相まって、1930年のロンドン軍縮会議開催となったひとつの理由であったのである。 その結果、日本は「吹雪型」のような大型駆逐艦を建造することが出来なくなってしまった。日本海軍は、条約の定める排水量の制限内で、「吹雪型」に匹敵する性能を持った中型駆逐艦を計画するが、建造された中型駆逐艦「初春型」「白露型」は、満足するような性能を実現できなかったのである。 こうした背景があったロンドン軍縮会議は当然のごとく紛糾することとなった。あの有名な「統帥権干犯問題」が発生したのもこのときであった。 <軍政>を担当する<海軍省>が、<軍令>を担当する<軍令部>に相談がなく、兵力を決定したことに対して、軍令部長加藤寛治大将は天皇に奏上し、辞表を提出してしまったのである。一方、重鎮東郷元帥や伏見宮は、海軍次官から説明を受けて、すでに容認していたことも、事態を混乱させていた。11月には、浜口首相が東京駅で佐郷屋留雄に狙撃され重傷を負うという事態にまで発展し、海軍を巡って大きな混乱があった年となってしまったのである。 そうしたなか、1930(昭和5)年7月23日に、海軍軍事参議官会議が開かれた。ロンドン軍縮会議の決定を受けて、制限外艦艇、及び、航空兵力の増強を要望したのだった。 翌年には、鳳翔・赤城といった航空母艦の甲板に、横張りワイヤーが採用され、航空母艦における着艦能力の向上に大きく前進をみせることになったのも、参事官会議の影響であった。 1931(昭和6)年6月には、呉と館山に航空隊が設置された。また、海軍航空本部は、昭和七年度から九年度までの飛行機製作計画を決定した。このときの技術部長は山本五十六少将であった。 そうした海軍の新たな展開が実際に動き始めたのは、満州事変後の上海での戦場であった。 1932(昭和7)年1月31日、日本海軍第一航空戦隊が上海揚子江河口に派遣されたのである。 このときの<第一航空戦隊(一航戦)>は、昭和三年完成の「加賀」と「鳳翔」の二空母を中心に、駆逐艦からなる護衛部隊を付けて編成された艦隊である。
空母<鳳翔>は、1921年(大正10)年11月13日、世界初の空母として進水した制式空母です。(その9ヶ月後、英制式空母<ハーミス>が完成する) その後、ワシントン軍縮条約により、日本の空母保有総トン数は81,000トンに制限され、これにより<鳳翔型空母2隻>は建造中止となり、代わって巡洋戦艦赤城、天城が空母に改造されることが決定した。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災により<天城>が被害を受けたので、廃艦処分が決まっていた<戦艦加賀>が空母に改造されることになった。 <加賀>は、<赤城>とともにワシントン条約に基づく日本海軍最初の大型空母となった。 両空母は、日本海軍独特の三段式甲板をもっていた。最上段が着艦用甲板、中段が小型機発艦用甲板、下段が大型機発艦用甲板であった。 日本海軍は、このとき日本が誇る二空母を上海に派遣したのである。上海上空では、日本海軍三式艦戦と中国空軍コルセアとの空戦が行われた。また、空母を発進した航空機による戦略爆撃も敢行されたのである。 この空戦も戦略爆撃も今までの戦闘にはない、新しい戦闘行為であった。1 このとき日本海軍が空母に搭載して航空機は、英国グロスター社が開発した三式艦上戦闘機と、英国人技師スミスが設計した一三式艦上攻撃機であった。 こうした空戦の経験は確かに蓄積されていった。 1932(昭和7)年4月、海軍は、横須賀に航空廠を置いたのである。 外国の技術によらない日本独自の技術で航空機を作り上げる機運が高まってきたのである。
この年、海軍は七試艦上戦闘機を試作した。設計制作は三菱であった。そして、設計主務者は堀越二郎技師であった。 この機体は、日本初の片持式低翼単葉構造であった。しかし、海軍が要求した性能を大幅に下回り、また、試作1号機、2号機とも墜落事故を起こすという不運に見舞われてしまった。しかし、この大失敗の経験は、次の九試艦戦の開発につながっていったのである。 |
| 5 航空戦力としての「艦載機と水上戦闘機」 1931(昭和6)年3月28日、帝国議会は、艦艇建造費2億4708万円を昭和6年度から11年度まで6年間の継続予算として、航空隊設備費4495万6千円を昭和13年度まで8年間の継続予算として支出することで予算を成立させた。 これは<第一次軍備補充計画>通称<マルイチ計画>と呼ばれているものである。 この予算で建造された海軍艦艇は、巡洋艦が4隻、駆逐艦が12隻、潜水艦が9隻、敷設艦が1隻、小艦艇では、敷設艇が3隻、水雷艇が4隻、掃海艇が6隻となった。また、マルイチ計画によって、分隊単位ではあるが、チームワークのよい、また訓練の行き届いた<航空隊>が、14隊作られたのである。 一方、航空技術の改善については、1932(昭和7)4月に<海軍航空廠>を横須賀に設置した。また、1939(昭和14)年には、<海軍航空技術廠>に名称が変更され、開戦にむけて、夜を日に次いで活動が展開されたのであった。 この間、<海軍航空廠>では、三菱・中島・川西といった軍需産業に対して、艦上機及び水上機の開発を指示している。 横須賀に<海軍航空廠>が設置された年、三菱は、7試艦攻と7試艦戦を、中島で90式2号3型水偵を、また、広島工廠で7試大攻を、さたに、三菱で 7試双発艦攻を、川西で7試3座水偵を、広島・川西共同で91式1号飛行艇を、川西で93試水中練をそれぞれ試作したのだった。また、オートジャイロをアメリカから輸入し、茅場で実験を行い、大海原を長駆飛行する海軍機の開発を始めたのであった。 この艦上機と水上機の開発こそ、日本海軍がめざした戦略を完遂させる大きな力となるものであった。その開発の原動力となったのが、<海軍航空廠>であった。 山本五十六がいる<海軍航空廠>は、航空母艦を運用した機動作戦を将来の海軍戦略のあり方としておさえていたのである。これは、現在の米海軍の有り様を見れば正しい認識の仕方であったことがよく分かる。戦艦を部隊の中心に据えるのではなく、空母を中心に据え、その周りを艦艇で取り囲み、敵の航空攻撃から空母を守るという作戦である。それには、空母に搭載する各種の航空戦力が必要になる。 また、<海軍航空廠>は水上機にも重要な位置づけをしていた。 現在の日本では水上機が現実に活躍する場面を見ることはほとんどない。しかし、カナダのバンクーバーやオーストラリアのシドニーやブリスベーンといった大都会を訪問すると、水上機が日常的に活動を行っている。 その利点は、金と時間のかかる飛行場を作らなくてよいことである。当時の日本では瀬戸内海の穏やかな内海に水上機部隊を配して、情報の連絡、人員の動きを軽快に行っていたはずである。また、<海軍技術廠>は、トラックを始め、南洋に拠点をおいて、米国海軍ににらみをきかす為には南の島々の穏やかな入り江に、水上機部隊を配し、情報収集のみならず戦闘行為にも関与できる優秀な水上機の開発を意図していたのである。 では、まず艦載機について調査してみる。 空母に搭載する航空機には、四種類ある。艦上戦闘機(艦戦)、艦上攻撃機(艦攻)、艦上爆撃機(艦爆)、艦上偵察機(艦偵)である。 日本海軍が開発した最も新しい<艦戦>は、<烈風>である。 ゼロ戦の後継機として、アメリカの戦闘機と互角に戦える戦闘機として、昭和17年に開発が始まったが、試作機8機を作ったのみで、戦闘に加わることはなかった。 海軍が、本格的に艦上戦闘機の制作に臨んだのは、<96式艦戦>がはじめてであった。 それまでの艦戦は、まだ欧米の技術を模倣するにすぎなかったのである。 我が国初の国産艦上戦闘機は、<10式艦戦>である。しかし、設計はイギリス、エンジンはフランス製のものを三菱がライセンス契約して製造したものであるから、まさに、模倣であった。しかし、この機体は、空母への初の着艦という偉業をなしたことで歴史に名を残すこととなった。 <10式艦戦>の後継機として、海軍は、中島、愛知、三菱の各企業に開発を競作させた。その結果、英国のグロスター・ゲームコック機をモデルにした中島機が採用されることとなり、それを<3式艦戦>としたのだった。 エンジンは、中島ジュピターエンジン空冷545馬力を使用し、速力は241キロ、7.7粍機銃2丁を搭載した一人乗りの戦闘機であった。 <3式艦戦>は、第1次上海事変において、戦闘行為に及び、空母加賀から発進し、中国軍機の使用するボーイング機と空中戦を展開したことで有名である。 <3式艦戦>を制作した中島飛行機は、中国での戦闘状況を分析し、また、欧米の戦闘機の開発動向にも研究を致し、特に、米国のボ?イング戦闘機、英国のブリストル・ブルドッグ戦闘機などを参考にして、独自に<3式艦戦>の後継機を開発した。しかし、<3式艦戦>と性能的には大差ないと言うことで、採用は見送られてしまった。
そこで、中島飛行機では、新たに開発した中島寿2型空冷580馬力エンジンを据えて、米英のトップクラスの戦闘機を上回る性能を出すことに成功し、海軍もこれを<90式艦戦>として採用したのだった。 その後、中島飛行機は、中島「光」1型空冷730馬力エンジンを搭載した<95年式艦戦>を制作した。これは速力の点で、352キロと大幅に上昇させ、武装も機銃以外に、120キロの爆弾を搭載することができるようになったのである。 <95式艦戦>は使い勝手もよく、200機を越える生産がなされたが、翌年には、苦渋をなめていた三菱が、優れた戦闘機を出してきた。 <96式艦戦>は、エンジンは、中島「寿」3型空冷690馬力を使用していたが、単葉のスマートな機体で、中国戦線で敵機を圧倒する高性能を発揮した。 1935(昭和10)年の日本海軍には、鳳翔、龍驤、赤城、加賀といった航空母艦があり、そこに九六艦戦が配置され、海軍航空部隊は実力を伴った戦力になっていたのである。
日本の艦上攻撃機を代表するのはやはり何と言っても、<97式艦攻>である。1300機近く生産された<97式艦攻>は、中島「光」空冷770馬力エンジンを搭載した三人乗りの攻撃機で、魚雷もしくは800キロ爆弾の搭載が可能であった。 この機体は、日中戦争から太平洋戦争中盤までの長きに渡って、日本海軍の艦載攻撃機として君臨した。実は、<97式艦攻>が登場するまで、日本の艦上攻撃機はすべて、複葉機であったので、この斬新で太めの車輪のでた機体デザインと全金属低翼単葉の機体は国民に広く親しまれたのであった。 戦争も中盤になると、97式艦攻にかわって、<天山>が中島飛行機によって開発された。 中島飛行機が、<天山>の開発に着手したのは、<97式艦攻>が制式採用された昭和14年であった。しかし、エンジンの開発に手間取り、完成は大幅に遅れてしまった。三菱の「火星」空冷1850馬力エンジンを搭載したことで機体としての安定と性能の向上が果たせたことで、量産体制にはいり、<97式艦攻>とほぼ同数の機体が生産された。戦線には昭和18年のブーゲンビル島沖航空戦から参戦し、艦攻の主力となった。しかし、この時点で日本海軍は優秀なパイロットを喪失し、この艦攻での戦果は芳しいものではなかった。
艦爆と艦攻の違いは、艦攻が魚雷攻撃が可能で、艦爆は急降下で爆撃するという点で違いがある。 日本の代表的な艦爆は、<97式艦攻>と同じ昭和14年に採用された<99式艦爆>である。 <99式艦爆>は、真珠湾攻撃の際、のヒッカム飛行場に第一弾を投弾した機体である。日本海軍の主力艦爆として、インド洋作戦、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦等で大きな戦果を挙げてきた機体である。また、この機体は、特攻機としても使われた。 <99式艦爆>は、三菱「金星」44型空冷1070馬力エンジンを搭載した二人乗りの艦爆で、爆弾250キロ搭載が可能であった。1500機あまりが生産された。
艦爆も<99式>以前は、複葉機であった。
いずれも250キロ爆弾を搭載し、中国戦線で活動した。 <彗星>は、<99式艦爆>の後継機として、空技廠が設計をした。当初、高速で飛行し、急降下する爆撃機を作ろうという意図であったという。愛知「アツタ」液冷1400馬力エンジンを搭載し、速力は580キロで、搭載爆弾は500キロという性能を持つことができた。しかし、エンジントラブルが相次ぎ、実用化にはなかなか至らず、空冷に変えるなどして、昭和18年に、一戦に投入されるようになった。終戦まで2000機あまりが生産されたが、パイロット不足で大きな戦果を得ることは少なかった。 日本海軍では、偵察に関して軽視する傾向が強いというのが一般的であるが、戦略面そして技術面では決してそうではない。ただ、海軍ばかりでなく陸軍も含めて日本の軍隊は、敢闘精神が強く、そのため、偵察要員が攻撃隊を引っ張って敵上空まで進出、撃墜されるという事例は多くある。任務というのは、組織の中で一人一人が自覚して行うことで完遂されるもので、こうした偵察の任務につくものがその任務を越えて行うこと自体に軍隊としての欠陥があったと言っても差し支えない。 レーダーがまだ機能していないとき、戦艦の主砲を敵艦に遠い距離から命中させるためには、艦橋をより高くする必要があった。日本の軍艦が天守閣のように高くせり上がっているのはそのためである。砲手はその艦橋のトップにあって、水平線の彼方の煙を見つけるのである。主砲も多くなると、飛距離は二万メートルを超えてくる。いかに目がいい兵隊でも20キロ先はなかなか見えない。そこで、飛行機が有効となる。 飛行機の優秀性は、現場の上空まで進出できる点で、また、写真をとって、そのデーターから、かなり正確に敵の概要を分析することが可能と言うことであった。 海軍は、日米開戦に備えて、高速偵察機の開発を中島飛行機に指示していた。 まず、中島飛行機は、2000馬力級エンジンである「誉」の実用化を優先した。そして、それを搭載した<17試艦上偵察機>が開発された。速力は600キロを上回った。 昭和18年にこの<17試艦上偵察機>は<彩雲>として採用された。<採雲>は、高速偵察機として、昭和19年半ばに第一戦に投入された。 本来は空母に搭載されて、敵艦の位置、敵基地の状況を偵察して有効な攻撃を引きだすはずであったが、時すでに日本海軍機動部隊の根幹をなす空母は壊滅状態であった。 しかし、<彩雲>の速度は米軍にとっても追いつくことはできない速度であった。当時、日本機を凌駕していたグラマンも<彩雲>には追いつくことができないという状況であった。<彩雲>が放った「我に追いつくグラマンなし」という有名な電文は有名である。
一方、水上機のほうは…… 日本海軍は、世界のどの海軍よりも水上機を多用したといわれている。その理由は、日本海軍の仮想敵国が米海軍太平洋艦隊であったからである。当然、決戦場は太平洋となる。広大な太平洋には、多くの島嶼がある。そこには波穏やかな入り江があり、機体を隠すことができる洞穴もあった。日本海軍はそうした地形を活用できる水上機に期待したのである。 また、実用的な側面ももちろんあった。内南洋は、小さな島の寄せ集まったところで、熱帯のジャングルが茂る島に大きな飛行場を作るには困難があった。そのため、水上機の活用を意図し、また、レーダーのまだ開発不十分だった時代、戦艦の主砲の命中精度を上げるには航空機による観測測量と偵察が必要だったのである。 その日本海軍が作りだした水上機の傑作が二式水戦である。
私の小説『風の島』にでてくるのもこの飛行機である。 水戦、つまり、水上機でありながら戦闘機という珍しい作りとなっているのである。 1940(昭和15)年、海軍は中島飛行機に対して、零戦を使った水上機戦闘機を作るよう指示した。 二式水戦は、翌年の12月9日に第一号機が試験飛行に成功した。つまり、真珠湾攻撃の翌日である。1942(昭和17)年7月、この機体は、正式採用され、二式水上戦闘機と呼称されるようになった。 元来は、当時の最新鋭戦闘機「零戦」である。それをベースにしてフロートを付けたのだから、幾分動作は鈍るとしても、水上機として優れた性能を発揮した戦闘機となった。 二式水戦は、採用から数ヶ月、つまり、昭和17年秋頃より戦線に配備された。当時、日本には本格的な水上機戦闘機「強風」の計画が準備されていた。そのため、二式水戦は、それまでの一時しのぎ的な意味合いがあったが、飛行場設営困難な南洋の小島、沿岸部でも対応が可能で、北はアリューシャン列島、南はソロモン諸島など、点在する小島の沿岸を基地とし、船団護衛、偵察哨戒など活躍したのだった。 特に、ラバウル-ガダルカナル間の往復1000Kmの道のりをへて戦わなければならなかった<ソロモン航空戦>では、ガタルカナルまでの途中にある島に基地を置き、ガダルカナル攻撃に活躍した。 この戦いで、二式水戦は対重爆迎撃も敢行し、また、敵戦闘機との空戦も行い、撃墜記録もある。 「強風」の開発の遅れ、戦局の悪化で、多くの二式水戦が前線を追われて行ったが、本土での防空戦闘、船団護衛など終戦まで奮闘し続けた優れ戦闘機であった。 水上偵察機の最高傑作と呼ばれているのが、九四式水上偵察機である。
この三座複葉機川西製で、後にドイツが製造ライセンス取得を欲したと言われくらいの優秀な機体であった。 九四式水上偵察機と同様、開戦初期に活躍し偵察機が中島製九五式水上偵察機である。 正式採用されたのは昭和10年で、中国大陸でも活動し、戦艦に搭載されて偵察の任務をこなしていた。さらに、この機体がもつ軽快な運動性能から、水上機でありながら、急降下爆撃による艦船攻撃、敵陣地攻撃なども行った。 大きな作戦に参加した水上機として忘れてはならないのが零式水上偵察機である。 この愛知航空機製の機体は、優れた航続距離を誇っていた。そのため、連合艦隊の主要艦船に搭載され、偵察任務を遂行したのだった。 真珠湾攻撃、珊瑚海海戦において、零式水上偵察機のもたらした情報は戦局に大きな影響を与えた。もちろん、良いことばかりではない。ミッドウェー海戦では、カタパルト故障に偵察出動の遅れにより、戦機を逸してしまうという事態も招いている。
日本らしい水上機のあり方として、潜水艦で敵陣営まで忍び寄り、航空機を飛ばして、そこを攻撃するという作戦があった。当時の日本海軍での、潜水艦の位置は、敵艦隊を捕捉し、逐次攻撃をかけ,主力艦隊決戦時までに敵艦を少しでも減らしておくという任務があった。そのために、日本の潜水艦には、敵の艦隊を捕捉するための能力が必要となり,水上機を搭載するようになったのである。そうした機体の中で唯米本土を攻撃した小型水上機がある。 零式小型水上偵察機である。この機体は海軍航空技術廠が設計し、九州飛行機が製造した。小型水偵としては、初の単葉機で、昭和15年に零式小型水上偵察機として採用された。 昭和17年9月、大型航洋潜水艦に搭載された零式小型水上偵察機は、米本土奇襲攻撃を敢行、オレゴン州の森林へ爆撃を投下したのだった。 |
6 戦略爆撃機<96陸攻>と戦略戦闘機<12試艦戦> 日本海軍の航空戦力の中で、この二機は特筆に値する二機である。とりわけ航空機は新しい兵器として、各国が極秘の内に開発をすすめ、どこよりも早く、どこよりも遠く、どこよりも強くと、しのぎを削っていた。 そうした中、日本海軍は航空機に、戦略性を持たせようと考えていた。 従来の発送からすれば、例えば、首都を守るために、郊外に基地を作ると、そこにおかれる戦闘機は、いち早く急上昇し、襲ってくる敵機を最善の位置から攻撃することのできる戦闘機となる。まら、艦上機であれば、まず、自国の艦隊の上空を守ることのできる戦闘機が必要である。 さらに、敵艦を攻撃するために必要な武器を搭載できることも条件になってくる。 しかし、日本海軍が目論んだのは、そうした戦闘機や爆撃機ではなかった。 何の目印もない大海原を、風の強さも計算に入れ、確実に目的地にたどり着ける機体であり、何千キロも離れた目標に爆弾を確実に落とすことのできる戦闘機であり、爆撃機であったのである。それこそが、航空機という兵器がもつ特筆であると見抜いたのである。 この二機は、そうした点で<戦略爆撃機>であり、<戦略戦闘機>であった。 自国を守るのではなく、自艦隊を守るのではない、敵地に飛び込んで一戦を交える強力な航空兵器であったのである。 1937(昭和12)年8月15日、海軍航空隊は96式陸上攻撃機をもって、上海、南京、南昌などの郊外にある中国軍航空基地への空爆を開始した。これは、中国空軍の上海日本人居留地への空襲に対する報復として実施されたものであった。 しかし、中国軍機の激しい抵抗にあい、投下した爆弾は、目標を大きく外れ、市街地にも落ちることになり、中国市民への犠牲を強いることとなってしまった。 海軍航空隊の攻撃は、台北新竹基地及び長崎県大村基地から東シナ海を渡っての長駆航空攻撃であったので、日本の新聞社はこれを「渡洋爆撃」と呼んで歓呼したのだった。
この日、東シナ海には、台風の通過があり、天候は大荒れの状態であった。激しい風雨をついて、夜間、海上を、編隊を組んでの飛行は、その技術がよほど高いものでなくてはならなかった。 8月15日の渡洋爆撃のニュースは、欧米の軍事筋に衝撃を与えたのであった。
96式陸攻は、日本海軍が初めて製作した全金属製の飛行機であった。双発のエンジンを持ち、低翼の美しい形をした飛行機であった。 昭和14年、毎日新聞社は、海軍の許可を得て、96式陸攻を輸送機に改造、<ニッポン号>の名で世界一周飛行を行った。羽田を出発して東回りで北太平洋を横断、アラスカ、米国、南米の各地を訪問、各国で大歓迎をうけた。 米国の航空機専門家は、この機体が、日本の国産機と聞いて、しばらくは信じようとはしなかったという。それくらい、美しく、機能的な機体であったのである。 <ニッポン号>の世界一周計画は、ドイツがポーランドに侵入したことで、完遂はできなかったが、総飛行時間195時間、総行程5285キロの世界記録をつくったのである。 そして、この96陸攻は、実に、三回目の驚きを世界に与えることになる。 1941(昭和16)年12月10日のできごとであった。マレー沖で英国の戦艦プリンス・オブ・ウエールスとレパルスの二隻を、美幌、元山両航空隊の96陸攻と鹿屋航空隊の1式陸攻が攻撃、これらを撃沈したのである。 これは、航行中の艦船を飛行機だけで撃沈した最初の海戦となったことで、英国首相チャーチルばかりでなく、世界に衝撃を与えたのである。当時の常識では、戦艦が航空機によって沈没させられるとはだれもが考えていなかったのである。
しかし、皮肉なことも語らなくてはならない。 戦略爆撃という新しい航空兵器のあり方に着目し、その先鞭を付けた日本が、戦争末期には、米国による戦略爆撃によって敗戦に追い込まれてしまったことである。 また、航空機のよる戦艦撃沈という事態から、大艦巨砲時代の終焉をきちんと受けとめたのは、戦勝した日本ではなく英米のほうであったのもまた皮肉というべきものであった。
B-29の初出撃は、1944年6月15日であった。 米軍のサイパン島上陸に合わせ、成都の米軍基地から75機が北九州八幡を空襲したのである。 この機種不明機に対して、屠龍・ 飛燕などの陸軍の局地戦闘機が迎撃し、撃墜7機を報告した。その後の調査でこの機種不明機が噂の新型爆撃機B-29と判明し、かねてから憂慮されていた新型爆撃機による本土空襲が現実化したのである。
米国が日本を空襲するために開発した武器に焼夷弾がある。 現在のナパーム弾である。米国が開発したのは、<M69焼夷弾>と呼ばれるもので、リレーの時のバトンのような筒の内部に、ゼリー状の油脂がつめられており、木造の家屋を焼き払うのに適していた特殊爆弾である。 このM69が38本束ねられた集束焼夷弾が、地上近くでばらばらになって落下する。焼夷弾は、衝撃により爆発し、高温の油脂が当たり一面飛び散って燃え広がる。
実は日本も焼夷弾を開発していた。日本の焼夷弾は<三式焼夷弾(三式弾)>というもので、戦艦の主砲弾丸として作られた。通常砲弾では、艦艇を砲撃する場合には効果があるが、押し寄せる敵機を仕留めるには何の効果もないことから作られた砲弾である。 三式焼夷弾は、内部に豆焼夷弾子が詰まっており、時限装置で砲弾が炸裂し、豆焼夷弾が500メートル四方に飛び散り、敵機に損傷を与えるのである。「長門」「陸奥」等の40cm砲砲弾で、735個の焼夷弾子が、「伊勢」「比叡」「山城」等の36cm砲砲弾で475個の焼夷弾子が詰め込まれていた。 当初、戦艦の主砲用だった三式焼夷弾は、その後重巡洋艦用の20cm砲用や12.7cm高角砲用のもとりいれられたのである。 ![]() 12試艦戦を、海軍が正式発注したのは、1937(昭和12)年10月5日であった。設計は、三菱重工の堀越技師。昭和14年(皇紀2600年)正式採用され、零戦(れいせん)と呼ばれる。 当時、世界最高レベルの戦略戦闘機であった 昭和12年10月5日に交付された。「十二試艦上戦闘機計画要求書」には以下のようなことが書いていた。 ○敵の軽戦闘機よりも優秀な空戦性能を備え、敵の攻撃機を捕捉撃滅可能な戦闘機(空戦性能は、96式2号艦戦に劣らないこと) ○最大速度は、高度4000mで270kt(500km/h)以上。また、上昇力は、高度3000mまで3分30秒以内。航続力は、高度3000mを公称馬力で1.2?1.5時間の飛行が可能。過荷重状態(増設燃料タンク装備)時、高度3000mを公称馬力で1.5?2.1時間の飛行が可能。 ○機銃は、20粍機銃2挺、7.7粍機銃2挺。搭載爆弾は、60kg爆弾2個、30kg2個。 ○ 無線機は、96式空1号無線電話機1組、ク式空3号帰投方位測定器1組を搭載する。その他、酸素吸入装置、消化装置、夜間照明装置を掲載する。 この過酷な要求を三菱設計陣は克服していった。
零戦は、当時、どの戦闘機よりも長い航続距離を誇り、落下タンクを付ければ、さらに5倍の飛行距離を手にすることができたのである。また、機体でジュラルミンを使用し、空気抵抗をなくすために平打ちの鋲を使うなどし、当時の戦闘機より1000キロ以上軽い機体作りに成功したのであった。これにより、小さなエンジンでも軽快な運動性能を失うことがなかったのである。また、 当時戦闘機に普通に設置されていた7,7粍機銃2丁以外に、当時としては常識を越えた20粍機関砲2つ、主翼に装備していたのである。 こうした点から、零戦は戦略戦闘機として確固たる地位を持つに至ったのである。 零戦の画期的な特色はまだある。 零戦の翼は、その取り付け角度を一定ではなく、根元から翼端に向って2.5度のねじり曲げを施したのだ。このことにより、零戦は急上昇、旋回、着陸などの動作ときに、失速が起こらない俊敏な戦闘機となったのである。 また、空戦フラップが採用も特筆に値する。 飛行機には着陸時の空気抵抗を得るために、翼にフラップが付けられている。着陸時にはそれが広がるのである。そうした抵抗を、空戦の時にも使えるよう工夫したのである。そのことで、巧みな運動性能を出すことが可能となった。 大体、艦載機には、空母上空にて自艦隊を防衛する任務と敵艦隊を捕捉し、攻撃にあたる攻撃機や爆撃機を護衛する任務が課せられるのであるが、零戦にあたえられた。
|
|||||||||||||||||
| 7 中国戦線 平成15年5月16日、航空自衛隊は、米空軍が実施する演習(コープサンダー 2003年6月5日から6月20日実施)に、F15J/DJ戦闘機6機、E767哨戒機1機およびC130H輸送機3機を派遣すると発表した。 この共同訓練の目的は、部隊の戦術技量及び日米共同対処能力の向上を図ることを目的としている。訓練場所は米国アラスカ州アイルソン空軍基地及びエレメンドルフ空軍基地並びに同周辺空域である。 また、F15がアラスカへ移動する際(往復)には、米空軍空中給油機KC?135による空中給油を受けるとしている。
この派遣は日本の戦闘機が米軍の空中給油を経て海外に進出するという点で画期的な出来事となる。 さて、話は、1937(昭和12)年に戻る。 第一次大戦以降、戦いの場所は、都市部にまで押し寄せてくるようになっていた。戦線を張って、両軍がにらみ合いながら行う戦いはもはや時代遅れであった。 後に、ナチスドイツのロンドン空襲に際して、英国首相チェンバレンは、我々は空爆で民間人を殺傷して勝利を得ようとするいかなる作戦計画も強く非難すると声明を出した。 しかし、それより数年前に、すでに、日本海軍航空隊は中国の各地の都市に爆弾を落とす<空爆>を行っていたのである。いうなれば、日本は世界で最初に民間人を対象にした都市空爆を行った国なのである。 1937(昭和12)年8月14日、中国空軍は大挙上海に飛来し、海軍陸戦隊本部、日本総領事館、海軍第三艦隊旗艦および日本資本の紡績工場等への爆撃を行った。 これに対して、政府は「支那事変不拡大方針」の撤廃を視野にいれながら、「南京政府の反省を促すため、 今や断固たる措置を取る」という方針を出し、松井石根大将を司令官とする上海派遣軍の派遣を決定および海軍航空隊による中国各都市への空爆の開始を命じたのだった。 翌15日、命令を受けた日本海軍の96式陸攻の編隊は、台北と長崎県大村の両基地から東シナ海を渡って中国の首都南京を始めとして、中国各地の都市爆撃を開始した。 その日、長崎県大村基地を離陸した96式陸攻は20機であった。各機には、60キロ爆弾12発が搭載されていた。 折しも強い低気圧が東シナ海を覆っていた。攻撃隊は、南京上空までの960kmを4時間で飛行した。豪雨の中、編隊飛行をする海軍航空隊の技量の確かさを証明する飛行であった。しかし、この日、攻撃隊は、8機の未帰還を出した。 南京空襲は、8月15日から同月31日までに23回実施された。その多くは、防備力が弱い96式陸攻の安全を図って、夜間の空襲であった。 19日の深夜の空襲では、中国市民12人が死亡、多数の負傷者をだした。26日午後12時の空襲では、市内で火災が発生し、およそ100人の住民が死亡した。 南京では、学生や子供の避難が始まった。 9月に入ると、海軍航空隊は上海の公大飛行場を基地とし、そこに進出してきた。 9月19日、長谷川第三艦隊司令長官は、南京市民に速やかに南京からの避難を勧告する声明を発した。そして、ただちに、96艦戦による南京空襲も始まった。 19日から25日までの7日間に、96艦戦による空爆は11回、 延べ289機が出撃した。 この空襲は、それまでの基地攻撃ではなく、首都南京の産業を支える工場地帯、運送を担う鉄道、橋などを攻撃対象とする「戦略爆撃」であった。目標は、政府関係の建物、大学、病院、放送局、駅、水道や電力といったライフライン、さらには、人口密集地域も爆撃するというものであった。 25日の空襲は、中国軍の反撃もないということから、朝の午前9時30分から夕方の午後4時30分にかけて5回の爆撃を行った。この日一日で、爆弾500個が投下され、市民に死傷者多数を出すという惨劇を見たのであった。 海軍航空隊による空爆は、上海、杭州、漢口、広州などの大都市から華中や華南といった中小都市60カ所におよんだ。 これらの非武装都市の爆撃は、 当時日本も署名していた「陸戦の法規慣例に関する条約」に違反する行為であった。 9月22日には、米英仏の三国による抗議が日本になされた。日本軍の南京空襲は無差別爆撃だ、というのである。 10月5日には、米大統領ルーズベルトは、シカゴで演説し、日独両国が好戦的であると非難した。 しかし、日本は中国政府に対して、強硬な姿勢を崩さなかった。 10月20日には、第三、第四艦隊をもって、<支那方面艦隊>を新たに編成し、断固戦う覚悟を示した。司令官は長谷川清中将であった。 12月1日には、陸軍も編成替えを行った。上海派遣軍と第10軍を合体させて、<中支那方面軍>を編成、司令官に松井石根大将をあてた。 日本は、陸海の強力な軍事力をもって、中国への攻撃の手を緩めなかったのである。 12月12日、海軍機は、揚子江に停泊中の米国の砲艦パネー号を誤って空爆し、これを撃沈してしまった。また、同日、陸軍も蕪湖付近を航行していた英国の砲艦レディバード号を誤って砲撃するという事件を起こしてしまった。 この二件については、日本はひたすら陳謝し、要望に応じて弁済を果たした。
12月13日には、日本陸軍はついに南京を占領した。南京政府は、重慶に移動した。 年が改まって、1938〔昭和13〕年1月、海軍は第一連合航空隊、第二連合航空隊の二隊を、占領したばかりの南京に進出させた。そして、南昌及び漢口に待避した中国空軍への攻撃を開始したのであった。 2月18日、海軍航空隊は初の重慶空襲を挙行した。 日本政府は、4月1日に、<国民総動員法>を公布。戦争のためにすべてを捧げよと国民に要望し、中国に対する戦争遂行貫徹を内外に示した。
2003年のイラク戦争で米英軍が空爆に用いた攻撃兵器は2万9199発にのぼった。このうち、精密誘導弾の比率は、1万9948発で、68%であった。 精密誘導弾の内訳を見てみると、レーザー誘導弾が8618発、GPS(全地球測位システム)誘導弾が6542発、誘導システムを持つ改良型クラスター(集束)爆弾も908発であった。また、英国が仏国と共同開発した巡航ミサイル「ストーム・シャドー」679発であった。 米国防総省の調べによると、1991年の湾岸戦争での精密誘導兵器の比率は10%未満で、2002年のアフガニスタン戦争では約60%だった。 米国防総省の当局者はイラク戦争の開戦前、民間人被害を防ぐためとして、この精密誘導弾は「全体の8?9割を占める」との見通しを明らかにしていた。 米国は高度に発達した市民社会である。自国の若者が戦地に行くにあたっては、物資の補給、手紙などの配達が滞りなくなされなくてはならないし、戦争遂行において、余りに無体な作戦行動は米国社会そのものが反発して、戦争遂行が不可能になってしまうのである。 そのため、目標に向かって、的確に誘導弾を導き、市民に被害を与えずに戦争をするというのが米軍の戦略となる。しかし、万全の注意を払っても、誤爆はつきものであったことは、一連の報道で認知しているところである。 当時は、もちろん、誘導爆弾などなかった。日本海軍航空隊爆撃は、それが的確であっただけに大きな被害を中国の国民に与えたのであった。 戦争は常に市民に犠牲を強いるものであるということを改めて認識しておかなくてはならない。 ![]() 12試艦戦が中国戦線に投入されるのは、1940(昭和15)年になってからである。 中国戦線では、爆撃対象がさらに奥地へと移動していった。ただでさえ、防御力が弱い上に、航続力が短い九六艦戦の護衛もつかず、96陸攻は苦戦をしていた。中国戦線司令部では、航続距離が長い、しかも、今までの戦闘機以上に、戦闘能力をもつ新型機の登場を待ち望んでいた。 1937(昭和12)年5月、海軍は、中島飛行機と三菱に対して、新しい戦闘機の開発を命じた。 翌年、中島飛行機は、新戦闘機の製作を断念した。海軍の新戦闘機に対する要望が厳しすぎたのであった。一方、三菱は若い技術者にこれを委ねた。新戦闘機<一二試艦戦>は、若き技術者たちによって、着々と具体化されていった。 まず、模型を作って、風洞実験を行う。いかに空気抵抗をなくし、速度を上げるかに焦点が絞られた。最善の形が決まった。新戦闘機は図面上にその形を現した。 図面に基づき、今度は、部品が作られた。プロペラが作られた。搭載エンジンが決まった。 機体の重量と空気抵抗を下げるために、主翼を1枚にして、さらにねじりをいれた。風防は涙滴形にして視界をよくすると共に、空気抵抗を下げた。空気抵抗を極限にまで下げるために、<沈頭鋲>を発明し、採用した。さらに、機体を軽くするために、超々ジュラルミンを使用した。 1939(昭和14)年3月16日、第1号機が三菱名古屋工場で完成した。 翌日エンジンテストが、40キロ離れた各務ガ原飛行場でおこなわれることとなり、新鋭戦闘機は、<牛車>で運ばれた。 志摩操縦士が操縦する、<12試艦戦>は、見事テスト飛行に成功した。 以後、詳細なデータ収集のための試験飛行が続いた。 同年9月14日、三菱は日本海軍に<12試艦戦>を引き渡した。 10月18日、第2号機が渡された。7.7ミリ機銃と20ミリ機関砲が設備されていた。 第3号機には、中島「栄」12型950馬力エンジンを装備した。格段に性能が向上した。 1940(昭和15)年3月11日、事故が起こった。急降下訓練中、<12試艦戦>は墜落したのだ。奥山操縦士が死亡した。事故調査がなされ、新鋭戦闘機は改善が加えられた。 6月10日、第四号機で最終テストが行われた。このテストは、24日間、繰り返された。7月15日、すべてのテストが完了した。 海軍は、第四号機の最終テスト時期に、すでに、<12試艦戦>の中国戦線投入を決していた。 横須賀海軍航空隊には、横山保大尉、進藤三郎大尉、白根斐夫中尉、山下小四郎空曹長、東山一郎空曹長といった腕利きのパイロット達に、<12試艦戦>をもって中国戦線において96陸攻の防衛任務に就く旨内示が出された。 7月21日、<12試艦戦>の部隊は、第12航空隊に配属され、第一陣として、横山大尉の率いる6機が、96陸攻に誘導されて、横須賀基地を出発した。さらに進藤大尉が率いる9機が続いた。また、空技廠からも、長野治技術大尉、高山捷技術大尉、卯西外次技師らが同行し、現地でのトラブルに備えた。 7月31日、日本海軍は<12試艦戦>を<A6M2零式艦上戦闘機11型>として正式に採用した。 8月19日、横山大尉麾下の零戦11型、12機は、52機の96陸攻を護衛して、重慶攻撃に向かった。離陸は午前9時5分であった。重慶到着は午後2時10分、5時間あまりの飛行であった。 翌日は、進藤大尉麾下の零戦部隊が出撃した。零戦は、1850キロ無着陸往復飛行をして、見事、爆撃隊の護衛任務を成功させた。 零戦隊のパイロット達は、各人が腕利きのパイロットであり、戦闘機乗りであった。次第に、護衛任務よりは戦闘任務に就きたく思うようになっていた。 しかし、零戦の噂を聞いたのか、中国空軍は姿を見せなかった。 9月12日、その真相が判明した。 九八式陸偵の写真偵察により、重慶の中国軍基地には、戦闘機32機の存在が確認されたのだ。零戦の来襲を察知して、中国軍機は、戦闘機を退避させていたのである。 翌13日金曜日、午前8時30分、進藤大尉麾下の零戦隊13機は漢口基地を出発した。午前9時30分、宜昌の第21基地に着陸し、燃料を満タン補給した。正午、第21基地を出発。午後1時20分、陸攻隊の爆撃が終わると帰還すると見せかけて重慶上空から去った。午後2時、重慶上空西部に密かに戻ってきた。 やがて、27機のソ連製ポリカルホフI-15複葉機、Iー16単葉戦闘機が現れた。零戦のいなくなるのを雲の彼方に身を隠していた<民国第四大隊>の航空戦力だった。 進藤三郎大尉麾下の13機の零戦隊は、太陽を背に、中国軍機に襲いかかった。最初の空戦で10機を撃墜した。 零戦隊は、遠巻きに中国軍機を包囲し、残りの敵戦闘機群17機を撃墜した。のこりの5機のうち、2機は空中で味方同士衝突炎上した。残りの三機は、戦闘を避け、墜落していった。 13機の零戦は27機全機撃墜を遂げたのである。 10月4日、四川省成都を、横山大尉麾下の零戦隊8機、陸攻27機で長距離爆撃に出撃した。中国軍は、日本軍がここまで来るとは思っていなかった。太平寺飛行場には、中国軍機がきれいに整列していた。零戦は急降下して、居並ぶ中国軍機を銃撃、19機を炎上させた。逃げようと離陸した5機も零戦の銃撃から逃れることはできなかった。 さらに、零戦4機が太平寺飛行場に強行着陸した。パイロットは零戦の操縦席から降りて、居並ぶ敵機に火を付けようとした。しかし、敵も必死で応戦してくるので、火を付けることを断念、離陸するという離れ業をやってのけた。 10月5日、零戦隊7機は、前日に成都の鳳凰山飛行場を急襲した。飛行場に整列していた大型輸送機6機、小型の輸送機4機、それに、大小14機の囮機に対して、機銃攻撃を加え、これを炎上させた。 10月26日、飯田大尉麾下8機が成都方面に進撃、成都西南上空で中国軍機と遭遇、交戦。全機を撃墜し。零戦隊には被害はなかった。 12月30日、横山大尉麾下12機が成都を襲い鳳凰山、太平寺、双流、温江などの中国空軍飛行場を急襲。機銃掃射により33機を撃破した。零戦隊は2機が被弾しただけで全機無事帰還した。 昭和15年9月からの半年で、零戦隊は、のべ153機出撃し、59機を空中戦で撃墜、地上で101機を破壊した。その間、零戦の損害は皆無であった。 このように、第12航空隊(12空)の活躍は華々しかった。 12空以外には、華南に配属された14空の零戦部隊9機、また、14空では、北部仏印ハノイに進出し、零戦は活躍の度を増していった。 10月7日、小福田租大尉麾下の7機は、ハノイを出発し陸攻隊と共に昆明まで630kmを2時間かけて飛行、敵戦闘機14機を撃墜した。 12月12日、零戦隊7機は、陸偵2機の誘導で長躯飛行、詳雲飛行場を急襲、居並ぶ22機に機銃掃射を行い撃破した。 12月13日、零戦2機が陸偵1機、陸攻27機、艦爆9機と共に昆明北部の兵工廠を攻撃した。 16年になっても、零戦隊の優位に変化はなかった。そうした中、零戦隊から犠牲者がでた。 5月20日、成都上空の戦闘で、12空の木村英一一空曹機が撃墜された。木村英一空曹は零戦搭乗員最初の戦死者となった。 6月23日、蘭州強行偵察の際、12空の小林喜四郎一等航空兵が、敵の対空砲火にあたり、撃墜された。 9月15日、華々しい戦果をあげた、12空14空の零戦隊が解散した。 両隊が、この間にあげた戦果は、撃墜103機、地上撃破163機に達した。それ以上に素晴らしいことは、陸攻隊の被害が激減したことだった。 艦戦機として作られた零戦は、ここ中国戦線では、陸上攻撃機として大活躍をした。また、中国大陸奥地まで、長距離飛行を行っての空襲は、世界戦闘機史上、稀に見る快挙であった。 |
もどる