| サ ボ 島 沖 海 戦 (Battle of Cape Esperance ) 1942年10月11日 |
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ガタルカナル島をめぐる日米両軍の戦闘は激化してきた。はじめての米軍との陸上戦で敗北を喫した日本陸軍はその総力をあげて、対応にあたった。そして、海軍もその一連の作戦に協力を惜しまなかった。 |
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| 一木支隊の全滅後、42年8月28日、川口少将率いる旅団がガ島に派遣された…… |
| 第 二 次 ガ タ ル カ ナ ル 島 の 戦 闘 |
米軍は、日本の上陸部隊に対して、航空機による攻撃を敢行した。この攻撃で、駆逐艦「朝霧」が沈没、乗船していた陸軍一個中隊は海の藻屑となってしまった。結局、9月2日までに、大発(上陸揚舟艇)30隻のうち、20隻を日本軍は失ってしまったのである。 しかし、米軍の空襲を回避して上陸した部隊があった。 それは、岡連隊第1大隊(国生少佐)、第3大隊(渡辺中佐)、第二師団第四連隊第2大隊(田村少佐)、一木支隊第二陣「熊大隊」の計3996名であった。しかし、攻撃兵器として、上陸に成功したのは「山砲1,迫撃砲2」というまことにお粗末なものであった。 これらの部隊は、ヘンダーソン飛行場の東40哩タイボ岬タシンボコに陣を張った。 一方、タイボ岬の反対に位置するエスペランス岬には、第124連隊(岡連隊長)が集結した。その勢力はわずかに550人であった。岡連隊長はわずかな部隊を率いて、海岸沿いに東に進み、飛行場の南アウステン山を占領する計画をたて、兵を動かした。そして、途中、「第一次ガ島攻略隊一木支隊」の生き残りの兵に出くわすこととなった。彼らは空腹を抱え、惨めな姿であらわれた。連隊長はあの精兵がかくも惨めな姿になるものかと気持ちを曇らせた。 四千名の部隊を率いる川口少将は、ジャングルを切り開き、米軍背面からの攻撃を企て、遂行に入った。 作業は困難を極めたが、遂に9月13日夕刻、攻撃の態勢は整った。川口少将は、ヘンダーソン飛行場南の丘を奪取するため、国生・田村・渡辺・熊大隊を並べた。 米軍はこの日本軍の動きを察知して、防御体制を整えた。丘を守るのはエドソン中佐の部隊と、ミラー少佐の第1降下部隊であった。 午後9時、南の空に星が輝くころ、日本兵は白襷をかけて、合い言葉を「山・川」として突撃した。 この突撃に対して、米軍が使用した105粍砲弾は1992発、75粍砲弾は878発、手榴弾、機銃弾はすべてを撃ち尽くした。 夜も明けようとする午前4時には、最後の予備弾を開封し、日本軍の突撃に抵抗を示した。 米軍将兵は、この日本陸軍の突撃戦法に度肝を抜かれたのだった。アメリカ陸軍には命を捨てて、敵陣営に攻撃を仕掛けるという戦法はなかったのである。 この戦いで、国生少佐は戦死、田村少佐は米軍本部まで進撃、「熊部隊」は6台の戦車のうち5台を破壊した。 しかし、渡辺隊長はジャングルにひそみ、積極的な戦闘には参加しなかった。また、川口少将も道に迷い、指揮をとることはできなかったのであった。 丘は「血染めの丘」と呼ばれた。 米軍の戦死40,戦傷103。日本軍は戦死487,戦傷396であった。 |
| 日本海軍潜水艦部隊の活躍…… |
| 8月31日、空母「サラトガ」は、珊瑚海でイ26潜水艦の魚雷で大破された。 9月15日、空母「ワスプ」は、イ19潜水艦によって撃沈された。 「エンタープライズ」は第二次ソロモン海戦で中破されているので、太平洋で動ける米軍空母は「ホーネット」だけとなった。 バンデグリフト少将は、カクタス航空隊(ロイ・ギーガー少将指揮/海兵、陸海の混成)の稼働率が60機、これに日本軍の100機編成の航空隊がラバウルから攻撃をかけてくれば負けると踏んだ。日本海軍は戦艦を繰り出し、艦砲のもとに一個師団を上陸させれば、それで、ガ島の戦闘は最終的に日本軍の勝利となる。「ホーネット」一隻ではとても太刀打ちできないと考えた。 ところが、日本軍はそれ以上攻めることができなかった。 そして、米軍守備隊には、ドラム缶3823本の燃料、車両147台、食糧1012トンと豊富な弾薬が運ばれてきたのだった。 |
| 9月29日、第二師団長丸山政男中将はラバウルに到着した…… |
| 第 三 次 ガ タ ル カ ナ ル 島 の 戦 闘 |
第17軍司令部では、ガ島作戦強攻策を主張する二見参謀長を更迭した。 そして、新たに宮崎参謀長を抜擢、作戦主任参謀に小沼大佐ら7人を増員したのだった。 さらに、大本営からは辻中佐、杉田中佐、林少佐の三人が派遣参謀として着任した。 それに伴い、実戦部隊である、第二師団の兵力も、ジャワから続々進駐し、ラバウル郊外の椰子林に野営し始めたのであった。この第二師団はジャワ攻略部隊の精鋭2万名であった。 10月4日、百武中将以下の第17軍司令部は16隻の駆逐艦でガ島に向かった。 6日後、西北岸のタサフォロングに上陸した。そこで、百武中将が見たものは、餓死寸前の残存日本兵の姿であった。 中将は「人員輸送を中止し、糧秣及び飛行場制圧の弾薬のみ急送すべし」とラバウルに命じた。
その要請に応えるために、海軍がまず考慮したことは、ヘンダーソン飛行場を叩き潰すことであった。しかし、航空攻撃を敢行するには余力がなかった。そこで、戦艦の大口径の主砲を用いるという案が浮上した。「艦砲攻撃」である。 日本軍が本格的なガタルカナル攻略を意図していると踏んだ米軍は、10月13日、アメリカル師団164連隊3000名を上陸させた。一方、丸山中将は六門の砲をマタニコウ左岸の高地に進出させた。 昼頃、海兵の砲兵が反撃にうつるまでに日本軍の砲撃は滑走路、集積所を破壊し、164軍の上に砲弾をばらまいたのだった。
午後11時30分、栗田健男中将麾下の第3戦隊の戦艦「金剛」「榛名」は、田中少将の第2水雷戦隊(駆逐艦6隻)とともにルンガ沖に進入した。一時間半に渡り、918発の14吋三式弾(散布力と焼夷力が大きい特殊砲弾)を打ち込んだ。これにより、カクタス隊90機のうち48機が破壊され、弾薬・燃料に引火、飛行場は火の海となった。 14日、第8艦隊の重巡「鳥海」と「衣笠」が艦砲攻撃したが、サファロングに上陸しようとした輸送船は6隻中1隻が沈没、3隻が炎上してしまった。 この艦砲攻撃の威力はやがて、太平洋に散らばった日本軍を攻撃する時の米軍の常套手段となった…… |