土田弥平次が東美濃の合戦で討ち死にし、吉乃は天文二十二年(一五五三)、生駒屋敷に戻った。
生駒屋敷に良く出入りしていた信長が、吉乃を側室にしたのがこの頃である。
信秀が死に家督を継いだ信長であったが、周囲を敵に囲まれ、領内は兄弟や親戚が信長を滅ぼそうとしていた。
かろうじて、舅斎藤道三の援助により、那古野城十二万石を支えている状況であったので、生駒八右衛門の持つ経済力と情報は魅力であった。
吉乃を側室にしていることが、妻帰蝶に知れると斎藤道三の援助が無くなり、信長は一挙に窮地に陥るので、生駒屋敷を訪れるのは、八右衛門への訪問と表向きにしていた。
天文二十三年(一五五四)十一月、十八才になった日吉が、生駒屋敷に戻った。
前年に松下家臣と不和になり、松下長則が家臣の不満を抑えるために、尾張者の日吉を追放したとのことである。

もう会うこともないと思っていた日吉を見て、吉乃は家出した弟が戻ってきたかのように喜んだ。

「弘冶元年、風体は無頼の輩の如く、小兵なれど武芸あり、兵法の嗜みも深く、得体知れず。吉乃様の前、少しも憚らず、色話も屡、生来の利口者なれば、吉乃様の御機嫌取ること巧みなり」
と、この時の様子を「武功夜話」は記している。

「私の許でしばらくいなさい。武士であれば元服も済ませている年齢。名も改めねばなりません。
私は藤の花が好きですから、藤吉郎が佳い名前と思う」
吉乃を姉のように慕う日吉には異存がなく、その日から吉乃の下人として、陰日向なしに働いた。
天文二十四年(一五五五)四月二十日、信長は謀計を以て、尾張守護代・清洲城主織田信友を討ち、清洲城を奪う事件があった。藤吉郎は、度々守山に出向き、信長の伯父信光に密かに書状を届けていた。
藤吉郎は、吉乃の小者として仕えていたので、信長の小者同然であった。
六月二十六日、信長の弟喜六郎が、守山城主織田信次の家臣洲賀才蔵に射殺される事件が起こった。
信長がこれに怒り、守山城に攻め込み皆殺しにすると云う噂が広がり、信次は恐れをなし逐電し、佐久間信盛の進言を入れた信長は、七月、庶兄の信時を守山城主にした。
この時、藤吉郎の所在は、十日程不明であった。

十一月二十六日、那古野城主織田信光が家臣の坂井孫八郎に斬殺され、信長は後任として、林通勝を那古野城主に任命した。
信光が斬殺される前に、那古野城下では、
・・孫八郎と信光・内室は、人目を忍んで交情している。体の弱い信光では、内室は満足していない・・
と、隠微な噂が囁かれていた。
坂井孫八郎は信光の妻との密通を信光に知られたと感じ、信光に殺される前に暗殺してしまったが、信光は妻の密通の事実を知ってはいなかった。
信光の妻は、熱田神宮神官・千秋四郎の娘で、坂井と共に父を頼り逃げのびようとしたが、不義者として父に坂井孫八郎ともども切られてしまう。
この時においても、藤吉郎の所在が十日程不明となる。
信長の勢力が拡大することは、吉乃の喜びでもあったが、そのたびに藤吉郎が不在になるので
「藤吉郎、あなたは信長様から、どのようなことを命じられているのでしょうか」
と、心配顔で訊ねた。
・・見栄えの佳い女がおりまして、ついつい長居となりました、出先で腹を壊し養生していました・・
藤吉郎が川並衆と一緒にやっていることは、吉乃にも喋れない陥弄の謀略であった。

弘治二年(一五五六)一月下旬、信長が生駒屋敷を訪れ、吉乃との逢瀬を終え、清洲城に戻ろうと屋敷を出たとき、信長の乗る鹿毛の轡を取ったのが藤吉郎である。
「信長様、あまが池の茂みになにやら不振な動きがあります。ここは私もお供させていただきます」と、藤吉郎は言上した。
信長は「であるか」と一言いい、鹿毛に鞭を入れた。駻性の強い大型の汗血馬で、厩方が世話に困っていた鹿毛である。しかし、藤吉郎が轡を取ると、不思議と温なしくなった。
かなりの距離を、それも信長が鞭を入れ、速度を上げたにもかかわらず、藤吉郎は息一つ乱さず、轡を取り続けた。あまが池の近くまで来ると、待ち伏せしていた佐々成政が、森可成と丹羽長秀に急を襲われ、高篭手に縛り上げられていた。
「成政、その様はどうしたことか。そちには信長を殺せるだけの器量が足りぬわ」
と、丹羽長秀に縄目を解くように命じた。
うつけ、うつけと信じ込み、土田御前と林通勝の策謀に乗り、信長を暗殺しようとした佐々成政であったが、信勝よりはるかに武略も優れ、武将として織田信秀以上の質を持っていると感じ、その場で信長にひれ伏し臣従を誓った。

一方、美濃では先年より、家督を譲り隠居した斎藤道三と、息子義龍との骨肉の争いが激化した。
四月二十日、長良川にて道三は討ち死した。このとき道三は遺言状に「信長に美濃を譲る」と記す。
この時、斎藤義龍に呼応し尾張岩倉城主・織田信安が、清洲城まで攻め込み下の郷の集落に放火。
一月の暗殺を未然に防いだ藤吉郎は、信長に近侍することを願い出て、吉乃の尽力もあって、清洲城の厩方として、信長の傍で仕えることを許された。
藤吉郎は軽輩な小者でありながらも、川並衆の蜂須賀正勝や前野長康の信頼を得て、彼らの手勢をいとも簡単に借り受け、信長の調略の命を果たすことができる。
弘冶二年、林佐渡守・その弟林美作守・柴田権六が謀議を重ね、三人で信長の弟勘十郎を盛り立て、織田家を我が物にすると云う噂が、あれこれと清洲城下に流布された。
弘冶二年四月、尾張国主は斯波義銀と奉載し、信長は清洲城の本丸を義銀に譲り渡し、自身は北櫓に居住したが、あくまでも擬態に過ぎなかった。

五月二十六日、信長は何を思ったか、庶兄信時と唯二人で、那古野城の林佐渡守を訪れた。
「能仕合にて候間、御腹めさせ候はん」
と、弟美作守は、信長の暗殺を兄林通勝に迫った。
「余りにおもはゆく存知候哉。三代相恩の主君を、おめおめと爰にて手に懸け討ち申すべき事、天
道おそろしく候。とても御迷惑に及ばるべきの間、今は御腹めさせまじき」
と、林通勝は、主君信長を仕物にかけることを躊躇した。
轡を取っていた藤吉郎は、那古野城の庭に川並衆数十人を信長警固として入れ、林兄弟が信長を暗殺しようとすれば、林兄弟を討ち取り信長を救出する手筈を整えていた。
林通勝は、蜂須賀正勝から・・川並衆が総力を上げて信長を警固する・・と伝えられおり、信長謀殺を思い止まった。
藤吉郎は仔細を吉乃に報告し、生駒屋敷から蜂須賀正勝に礼金を贈るように依頼した。
五月二十八日、林通勝は逆意を表し那古野城に兵を入れ、荒子城・米野城・大脇城の諸将達も、通勝に味方することを表明した。
六月に入ると、守山城主・庶兄信時が若衆として取立てた坂井孫平次と、守山城家老角田新五との確執が拡大して、角田新五が普請半ばの土塀から兵を引き込み、信時を自害させるという事件が発生した。
信長は、前城主織田信次を牢に閉じ込めていたが、不憫に感じて叔父信次を赦免し、城主不在となった守山城の城将に任命した。
この間も、信長と信勝を離反させる林兄弟の策謀が続いていた。
土田御前、林兄弟、柴田勝家の後ろ盾を得た勘十郎信勝は、信長御台所料の知行地篠木三郷(春日井市内津あたり)を横領し、庄内川際に砦を築いた。

七月十八日、信長は、家臣を引き連れて、津島にて盆踊りを興行した。
赤鬼は平手内膳衆、黒鬼は浅井備中守衆、餓鬼は滝川一益、地蔵は織田太郎左衛門衆、弁慶は前野長康・伊東夫兵衛・市橋伝左衛門・飯尾近江守、祝弥三郎は鷺に扮装し一段と似合っていた。
信長は天人の衣装で飾り立て、小鼓に合せて女踊りを舞い町衆の喝采を得た。
藤吉郎は、蜂須賀正勝を密かに津島の堀田道空の屋敷に呼び寄せ、休息に道空の屋敷を訪れた信長と引き合わせた。堀田道空屋敷の庭で藤吉郎と正勝は、林兄弟と柴田権六の動きを信長に報告した。
信長は無言のまま聞き入り、そのまま下知することなく清洲城に戻った。
津島五ケ村の年寄達が盆踊りの御礼にと、清洲城の近くで津島踊りを舞う。
信長はこれを歓んで城内の庭にて再度津島踊りを舞わせ、瓢げ親しげに一人一人に声を懸け、家臣達に団扇を扇がせ、お茶を振舞った。
「忝き次第、炎天の辛労を忘れ、有難く皆感涙を流し罷り帰り候キ」
と、津島の住民は信長の別の顔を見せられ、感激して帰っていった。
見事な信長の領民掌握で、政治力でも非凡な冴えを見せた。

八月二十二日、信長は、小多井川の対岸・名塚(総兵衛川東岸)に砦を築かせ、佐久間大学を入れた。
翌二十三日、尾張に台風が来襲して、豪雨が降り注ぎ小多井川が氾濫した。
清洲城から名塚へ援軍が出せないと見た柴田権六と林美作は、兵千七百ばかりで名塚を攻めた。
弘冶二年八月二十四日、信長は、七百の将兵を率いて清洲城を出立し、氾濫する小多井川を難なく渡りきった。少年時代から水馬の訓練を行い、この辺りの浅深は肌で覚えていた。
柴田権六率いる一千は、稲生村外れの街道を西向きに、林美作守率いる七百は、南田から北向きに、信長勢に襲いかかった。
寡兵の信長は、村外れよりちょうど六・七段(一段は十b)引き下がり、東の藪際に陣を構える。
八月二十四日正午過ぎ、南東から柴田権六勢が攻めかかり、武将・足軽が入り乱れての戦いが始まり、山田冶部左衛門が柴田権六に討取られた。勢いに乗った柴田権六は、手傷を負い退却する佐々孫介その他の将兵を討ち、信長本陣前まで迫った。
信長の前には、織田勝左衛門・織田造酒丞・森可成、鑓持中間衆四十名ばかりであった。
織田造酒丞・森可成両人は土田衆大原を突き伏せて、もみ合い首を取ると、その首を奪い返そうとする柴田勢と相懸かりとなった。
味方の醜態に信長は大音声を上げ、憤怒の形相で怒り狂った。この様子を見た柴田権六は、信長の威厳に萎縮し、立ち止まってしまい、柴田勢一千は総崩れとなり、上社村に退却した。

この時、織田造酒丞下人禅門と云う者が、神戸平四郎を切り倒し、織田造酒丞に首を持参したが、切り倒した敵をそのままに置き、先に進むように信長は下知した。
信長は南に兵を向け、林美作勢七百に攻めかかる。黒田半平左と林美作が激しく斬り合い、半平左は左手を切落されたが、林美作も息が続かず半平左を討取ることができない。
信長は、美作に鑓を突きかかり、織田勝左衛門御小人杉若は、美作を馬から引きずり落とした。
信長は、林美作を突き伏せ、杉若に頚を取らせた。杉若は、この日の働きにより、後日、杉左衛門尉として士分に取り立てられた。
大将を討取られた林美作勢は総崩れとなり、信長勢により、多くの武将が頚を取られた。
林美作は上総介信長が、鎌田助丞は津田左馬丞が、富野左京進は高島三右衛門が、山口又次郎は木全六郎三郎が、橋本十蔵は佐久間大学が、角田新五は松浦亀介が討取った。
信長勢の足軽・小者に討取られた武将は、大脇虎蔵・神戸平四郎を始めとして、歴々の頚数四五〇余りで、信長の大勝利となった。
織田勘十郎信勝は末森城に、林佐渡守は那古野城に籠城したが、敢えて信長は攻め懸ろうとしない。

八月二十五日深更、那古野城と末森城の城下は、正体不明の敵から焼き討ちを受け、一軒残らず焼け落ち、城下の人々の怨嗟は、無謀な戦いをした勘十郎に向けられた。
信長の母・土田御前は、末森城に信長家臣の村井長門と嶋田所之助両人を呼び寄せ、母の使いとして勘十郎信勝を許すようにと信長に送った。
信長は母の頼みを聞き入れ、赦免する、とのみ云う。
勘十郎・柴田権六・津々木蔵人は墨衣を着て、土田御前と共に清洲城に出向き、赦免の御礼を言上するが、勘十郎には反省の色が薄かった。
林佐渡守は、謀反の首謀者として清洲城に召し出され糾問を受けたが、弟美作の信長暗殺を防いだと懸命に申し立て、信長から「今度だけは宥免する」と許された。
九月二十六日、美濃恵那郡明智城が斎藤義龍によって攻め落とされ、城主明智光安が自害、信長から離縁され明智城に戻っていた濃姫も自害、明智十兵衛が出奔した。

弘冶三年(一五五七)一月、生駒屋敷の吉乃が、信長の嫡男奇妙丸を出産した。
信長は、庶兄信広の謀反未遂事件の後始末に追われており、お市に藤吉郎を付けて、吉乃へ祝いの品々を届けさせた。
お市の乗った馬の轡を取った藤吉郎は、吉乃に会える喜びよりも、お市の側に居られることが嬉しかった。
九才のお市であったが、美男美女を輩出する織田一族にあっても、その美貌は傑出していた。
お市はなぜか、異相・醜魁な小者の人懐っこい笑顔に興味を持ち、用事も無いのに侍女を連れて、藤吉郎の働く厩まで度々来ていた。
藤吉郎が馬の扱いに特異な才能があると、侍女の噂話を耳にしたお市は、兄信長に頼み込み、お市付の小者として取り立てた時期がある。その時にお市は藤吉郎から、乗馬術のイロハを学んでいた。
冬の寒い夜、お市の部屋の前で警固する藤吉郎は、お市の履物が氷のように冷たいのに気づき自分の懐に入れ温めた。
庭に積もる雪を見ようと部屋を出てきたお市は、自分の履物が温かいことを感じた。
「藤、そなたは私の履物を尻に敷いていたであろう」
「お市様、藤吉郎は姫様が冷たかろうと思い、懐で温めておりました」
涙を瞼に浮かべ、藤吉郎は襟を大きく広げ、泥の着いた胸を見せた。
(背中に入れ温めたとする書もある)
「藤、そなたの気持ちは嬉しいが、私は自然の冷たさを好む」
九才の女人であっても、自分に寄せられる好意は嬉しい。
もっとも、藤吉郎はお市の履物を温めるという気持ちよりも、お市が履いている物を、自分の肌に抱きしめる快感の方が強かった。
お市は、この夜の出来事は誰にも話すことなく、自分の胸に奥深くしまい込んでしまった。
他人に話すことが憚られる淫らな出来事と感じたのか、それとも二人だけの秘密として共有しようとしたのか、十数年後に明かされることになる。
藤吉郎は、お市にのみ伝わる発声方法で、お市をよく驚かせていた。
乗馬訓練中に轡を取る藤吉郎から、無音で相手に伝える発声方法をお市は教わり、二人で侍女達を驚かせたり、呆れかえらせていた。
更に、聾唖の世界独特の伝達手段である「手話」を、お市は藤吉郎から教わり、自分の世界をどんどんと広げて行った。
ほどなくして、藤吉郎が側にいないと調略に不自由を感じる信長は、お市から藤吉郎を取り上げ、元の厩方に戻した。
信長が放つ細作の報告と、藤吉郎が報せる内容には、大きな違いがあった。細作の報告は概ね正しいが、敵城の武将間の人間関係や軋轢の報告が少ない。藤吉郎の報告は、武将の性格や軋轢、領民の城主への信頼度等、信長が必要としている内容であった。
藤吉郎は、諸国を流れるワタリ衆と川並衆から銭で情報を買っていた。銭の出所は吉乃である。
その吉乃が住む丹羽郡小折村に、お市が乗った馬の轡を取り、早春の尾張路を藤吉郎は向かう。
警固の武将数十人がお市を取り囲んでいるので、藤吉郎はお市に話し掛けることを控えた。

夢のような一日を過ごした藤吉郎は、厩に戻り信長自慢の斑駒の側で寝ていた。
藤吉郎は厩の横に粗末な小屋を与えられていたが、そこで寝ることは稀であり、殆どは厩の中で馬と一緒に寝る。
寝ていた藤吉郎を起こした川並衆稲田大炊が、
「鳴海城主山口左馬助が逆心を抱き、鳴海城に今川勢を引き入れた」
と、藤吉郎に報せてきた。
山口左馬助は、大高城・沓掛城を調略で乗っ取り、鳴海城に駿河から岡部五郎兵衛を城代として迎え入れた。
信長は、藤吉郎に小さな革袋を渡し、何やら命じると、藤吉郎は、すぐさま蜂須賀屋敷に向かった。
この後、程なく山口左馬助・子息九郎次郎父子は、駿河に出仕を命ぜられ、忠節の褒美ではなく、今川義元から親子共に切腹を命ぜられた。
山口父子の知らない間に、駿府城下には父子が信長に寝返った、との悪意ある噂が流されていた。
信長は尾張下四郡の内、河内一帯は二の江の坊主服部左京進に横領され、知多郡は今川義元に占領され、残りの二郡も弟信勝の策謀が続いていたので、軍資金に事欠く有様であった。

弘冶三年(一五五七)九月、竜泉寺に蟄居していた勘十郎信勝は、寺を城普請すると共に、上郡岩倉城の織田信安と示し合わせ、横領した篠木三郷に御若衆津々木蔵人を入れた。
信勝の家臣は、津々木蔵人の配下とされ、蔵人は驕り高ぶり、付家老の柴田権六を蔑ろにしていた。
柴田権六は、勘十郎に見切をつけ、信長に「勘十郎殿、御謀反」と言上した。
信長は、病と称して清洲城から一歩も出なくなり、柴田権六は、土田御前に「勘十郎様、御見舞然るべし」と意見を具申した。
十一月二日、兄信長が重篤であり明日をも知れぬと聞いた信勝は、込み上げてくる嬉しさを隠し切れず、清洲城の大手門を寵臣津々木蔵人と堂々と入った。
清洲城北櫓の次の間で、信勝と蔵人は、河尻・青具に取り押さえられ、切腹を命ぜられた。
柴田勝家は、この忠節により天正三年秋、越前を封知されることになる。
同時期、今川家臣・尾張笠寺戸部城主戸部政直は、忠心厚い武将であったが、尾張知多郡・三河岡崎に政直寝返りの噂が、密かに囁かれ出した。鳴海城代・岡部五郎兵衛は、噂の真偽を確かめるため細作を放つが、報せてくる内容は戸部政直に不利なものであった。
岡部五郎兵衛は・・戸部政直には寝返りの噂がある。しかし、累代の忠義の家臣であり心変りは有り得ない・・と駿府城の今川義元に連絡した。
山口父子は使い捨ての駒であったが、戸部政直は武略ある有能な累代の武将であり、義元は処置に悩んだ。
大原雪斎が生存していれば、このような噂を一笑にふしたであろうが、雪斎の死後は義元には相談相手がいない。
尾張併合を目前にして噂とはいえ、戸部政直を放って置くことができず、岡部五郎兵衛に命じて仕物に懸けた。
手許不如意の信長に代わり、藤吉郎が吉乃に無心して用意した銭で、川並衆を動かした結果である。

弘冶四年三月、信長の側室坂氏(北伊勢豪族坂氏の女)が参男三七郎を出産、その二十日後に吉乃が次男茶筅丸を出産。側室坂氏が正室同然の吉乃に遠慮して、三七郎出生の届を遅らせたと云う。
永禄元年(一五五八)四月、犬山城主・織田信清の重臣の葉栗郡黒田城主・和田新助と丹羽郡小口城主・中嶋豊後守が、信長に帰順し、信清も生駒八右衛門の説得により信長を支援するようになった。
川並衆の旗頭の前野長康は、蜂須賀正勝と藤吉郎の説得を受け、祖父の代から仕えた尾張上四郡・守護代・岩倉城主・織田信安から離れた。
五月、岩倉城主・織田信安は、次男信定に家督を継がせたが、長男信賢は、老臣稲田修理亮らと結び信安を追放し、美濃・斎藤義龍と連絡して信長に反抗した。
織田信安は、信長の祖父信定の兄にあたる人物で、尾張上四郡の守護代として信長に抵抗していた。
七月十二日、岩倉城は清洲城の北三十町(三・三q)にあり、要害の場所に築かれていた。
信長は足場の良い丹羽郡浮野に三千の将兵で陣を張った。
午刻(午前十一時頃)、信長勢と信賢勢が数刻相戦い、信賢勢は崩れ信長勢は追撃を行う。
信賢の家臣に林弥七郎という弓の巧者がおり、追撃してきた信長の鉄砲指南役・橋本一巴とは、以前からの知合いであった。
橋本一巴は、退却する林弥七郎に「信長様に仕えよ」と声を掛けた。
弥七郎は「心得た」と一巴を騙し、あいかを仕込んだ矢を放つ。矢は一巴の脇に下に深深と刺さったが、一巴は二つ玉を込み入れた鉄砲を弥七郎に撃ち込むと、弥七郎は堪らず倒臥してしまう。
信長の御小姓衆佐脇藤八が弥七郎の頚を取ろうとしたが、座りながら太刀を抜き持った弥七郎に左肘を斬り付けられた。
佐脇藤八は手傷を負いながらも、弓と太刀巧者の林弥七郎の頚を討取った。
浮野合戦で信長勢が討取った侍頚は、千二百五十であった。

永禄元年(一五五八)九月、藤吉郎、丹羽郡脇村にて十五貫の給地を賜り、足軽頭に取り立てられた。
この頃、上司である浅野又右衛門長勝を挨拶に訪れた藤吉郎は、又右衛門宅にて寧子と出会った。
吉乃に良く似た美貌を持つ寧子の姿に、強い衝撃を受けた藤吉郎は、早速小折村の吉乃に報告した。
「吉乃様、信長様から給地を賜りました。また、妻として迎えたい女人も見つけました」
「藤吉郎、あなたが気に入った女人とは、どのような女人なのでしょうか」
・・藤吉郎は、寧子との出会いの経緯を吉乃に話したが、弓衆筆頭の浅野又右衛門が藤吉郎に寧子を嫁がせるとは思えず、吉乃の心配の種が増える・・
吉乃は毎年の妊娠・出産のため、身体が弱りつつあり寝込むことも度々あった。藤吉郎はそんな吉乃を気遣い、精力のつく朝鮮人参を、どこからか調達して生駒屋敷に届けていた。
晴れて士分に取立てられた藤吉郎に、吉乃は名を授けた。
「藤吉郎、これからは・・中村藤吉郎秀吉・・と名乗りなさい。中村はあなたの在所、秀は信長様の父上様の諱、吉はそなたの家に代々伝わる名でもあり、私の名でもあります。
信長様には私から御届けしておきます」
愛知郡の豪族とし、一柳荘荒子村に前田蔵人・菅原利昌(前田利家の父)、岩塚村に福富平左衛門、中村に中村弥右衛門元親、名古屋荘広井村に中村対馬守元勝、御器所荘に佐久間氏、鳴海荘折戸村に丹羽氏、岩崎村に川尻氏、山田荘上社村に柴田氏などが割拠し、守護代織田氏を盟主と仰いでいた。

永禄二年(一五五九)二月、信長は俄に・・上洛する・・と言い出し、御伴衆八十人を指名して、京都・奈良・堺を見物する。
弾正忠任官の御礼言上にと、将軍足利義輝に永楽銭千貫文を贈り、謁見を許された。
上洛の御伴衆には藤吉郎は加えられず、信長から岩倉城下への放火を命じられていた。
三月、藤吉郎と川並衆は、岩倉城下の町を全て焼き払い、岩倉城を裸城としてしまった。
信長は、城の周囲を竹木の皮で荒く結んだ鹿垣を二重三重に張り巡らし、馬廻衆を定期的に巡回させ包囲を固めさせた。
火矢・鉄砲による攻撃が二・三ケ月続けられ、城を維持できないと信賢は遂に降伏し、美濃に落延びて行った。信長は岩倉城を破却し、尾張国内をほぼ統一した。
この攻囲中、生駒屋敷の吉乃が長女五徳を出産。
吉乃は信長に依頼して、浅野寧子を呼び寄せた。
浅野又右衛門と生駒家とは接点がなく、訝しがった又右衛門であったが、主君信長からの直接の命であり、寧子を連れて生駒屋敷の吉乃を訪れた。
信長正室の扱いを受けている吉乃への御見得と云うことで、十四才になったばかりの寧子は緊張したが、吉乃の問い掛けに臆せず、はきはきと答え、吉乃は藤吉郎の眼の高さを喜んだ。
「又右衛門、そなたの組下の中村藤吉郎は、私の存知よりの者。宜しく頼みます」
又右衛門は、あっと思った。藤吉郎は、吉乃の縁で信長に仕えるようになったことを思い出した。
信長に腰巾着のように付き纏い、胡散くさい商人のような藤吉郎は、武骨で頑固な又右衛門の好みではなかったが、吉乃から直接頼まれると引き受けざるを得ない。
「寧子の嫁ぎ先は決まっているのでしょうか」
「寧子の母は杉原家利の娘、父木下定利は筋目正しき者でございます。浅野家を継ぐ者を婿に迎える所存でございますが、いまだ婿は決まっておりませぬ」
浅野又右衛門夫婦には子がなく、妻七曲の妹朝日の長女寧子と次女ややを養女としていた。
木下定利は織田信賢に仕えていたが、信長勢との戦いで先年に戦死していたので、子供のいない浅野又右衛門夫婦が、二人の姉妹を引き取っていた。

信長公記によると『浅野と云う村に林弥七郎と申す者、隠れなき弓達者の仁躰なり。・・略・・
信長の小姓衆佐脇藤八走懸り、林が頚をうたんとする処を、居ながら太刀を抜持ち、佐脇藤八が左の肘を小手くはへに打落す。
かゝり向って終に頚を取る。林弥七郎、弓と太刀との働き比類なき仕立なり』とある。
武功夜話には『木下藤吉郎様の妻女は、尾州丹羽郡浅野郷・浅野又右衛門の娘である。が、その実は同村の住人・林孫兵衛(木下家定)の妹なのだ。親の林弥七は、先年、上総介様の岩倉退治のとき、武運つたなくして討死したが、岩倉家でも豪勇比類なき武者であった』と伝えている。
「見目麗しい寧子の婿を私も心掛けておきますが、寧子の心はどうなのでしょうか」
寧子は答える代わりにと、城下流行歌の最初の部分・・木綿・・とだけ懐紙に書いて吉乃に渡した。
吉乃はそれを見て、にっこりと微笑み・・寧子の気持ちを受け取りました・・とのみ云い残し、部屋を出て行った。
又右衛門は狐に包まれたような顔をしていたが、寧子の心には決めた男がいることだけは覚った。
帰り道に寧子を問い質したが、寧子は頬を赤らめるだけで何も答えなかった。