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大坂城に戻った秀吉は、遠江・駿河・甲斐・信濃・上野の国替を発表した。 駿河・南信濃を徳川家に、甲斐一国を加藤光泰に、遠江・浜松城を滝川雄利に、北信濃・西上野を真田昌幸に、越後・越中魚津を上杉景勝に、前野長康には京都警固を命じた。 播磨で欠所になった三木・明石・宍粟郡は、信秀の領地とした。 この国替は、上洛して秀吉に臣従しない北条氏や伊達氏への布陣であると共に、巧妙な大名統制の施策であった。 一国一城を基本として、全ての城砦を破却する城割が命ぜられ、秀吉が許した大名のみが城を持つことが許され、違背した大名は追放処分を受けることになった。 国替と徹底した城割及び妻子の大坂在住の強制は、秀吉政権への反抗を防止する有効な施策であった。 大坂城・山里丸に前田利家を招いた秀吉は、 「又左、留守番は辛かろう。しかし、北条攻めはそなたの槍働きが必要である」 「殿下、北条の仕置きを何時なされますか」 諸候に範を示す意味からも秀吉に臣従し、前田利家は尊称を呼ぶようにしていた。 清洲以来の武将は、数十年の間に数少なくなったが、秀吉をいまだに同僚扱いする武将も多いなか、前田利家のこうした言動は有り難いものであった。 「又左、二人の時は藤吉郎の方が良い」 「殿下、豊家の諸候は、九州攻め・京都の普請課役で、少々疲れております。北条攻めは先に延ばされた方が得策と存じます」 信長亡き後の秀吉の異常とも云える膨張の影には、豊家諸候の並々ならぬ血と汗が流されおり、領内は疲弊していたのも事実であった。 「又左、相判った。しかし、北条攻めを延ばすが、それは九州の地侍が一揆を企てているからである。佐々は肥後を与えられ張り切り過ぎ、地侍の反感を買っておる」 ・・肥後一国の検地を命ぜられた佐々成政は、強引とも云える差出を国人衆に指示した。 菊池郡の国人領主・隈部親永らは、侍八百、百姓二万を擁して、他国者による慣例無視の支配に反抗し一揆を起こした。肥後・国人衆の一揆は、山鹿・益城・託麻と拡がり、佐々成政だけでは鎮圧できず、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家・黒田官兵衛らに、秀吉が加勢を命じるのは一ヶ月後のことである・・ 九州の一揆蜂起を聞き、秀吉は密かに笑いを堪えた。 膝には丸々と肥えた棄丸を抱き、産褥の疲れもすっかり取れ、元の美貌に戻ったお市が側に控えていた。 「こうして見ると、棄はまるで藤吉郎の孫であるような」 「お市様、それが良い。 棄を信秀の子にすれば、豊臣家は安泰でござる。 信秀とまあに子供ができれば、分家させれば良い」 「寧子殿も安心することでしょう」 秀吉の笑いは、五十一才になって授かった子供のことではなく、土地にしがみつき蜂起した九州の国人衆の時代錯誤であった。 源平以来とか、鎌倉以来と云う意識にとらわれ、中央政権の圧倒的な強権に抵抗を試み、数百年続いた家名を、自ら消し去ろうとしていることへの嘲りであった。 国人衆の勢力が根強く、戦国大名が誕生しなかった肥後に、武断派の佐々成政を配置した秀吉の深慮遠謀を見抜ける国人衆五十一家はいなかった。 豊家の武将達は、秀吉の寛大さを褒めたたえ、小早川隆景でさえ秀吉が佐々成政を肥後に封地したことを「関白様は心広き方」と讃えた。 秀吉は国人衆に一揆を蜂起させ、根こそぎ旧体制にしがみついている支配層を葬り去る企てを謀り、わざわざ強権的な武断派の佐々成政を肥後に配置した。 九州各地で国人衆が蜂起して、それを諸大名が鎮圧できなければ、大名を追放することもできる。 一揆の規模が大きければ大きい方が、国人衆を滅ぼすことができ、専制体制を敷くことが容易になる。 信長や秀吉の目指した国家体制には、領地と強く結び付いた勢力が不要であり、害であった。 国内を自由に物資が流通し、数千石の大船が大量の物資を積み、日本の港を行き交い、地上に平安楽土を築くことであった。 領国内の関所を壊し、道を拡張・整備し、河川に橋を架け、往来や物資の移送を自由にし、特産物の生産を振興し、商業を保護し、余剰品を海外に輸出するという重商主義が、織豊政権の基盤であった。 信長の天才的で独創的な政策を秀吉は考え出せなかったが、信長の政策を徹底的に模倣し、その政策を実行する力は秀吉の方が上であった。 この二人の共通点は、領国内の治安維持であり、軍律の厳しさであった。 西国大名は九州の国人衆一揆の鎮圧と、肥前名護屋城の普請課役により、豊臣政権に抵抗する気力を失い、残るは東国の北条氏が秀吉の敵である。 豊臣政権と関東政権・北条氏に両属する徳川家を通じて、秀吉は北条氏直に上洛を促していた。 徳川家としても南信濃を与えられ、後見人の五徳からは、竹千代が「御礼言上」の為に上洛した方がよいと盛んに伝えてきていた。 天正十五年八月、本多忠勝・榊原康政・井伊直政らに伴われて、徳川竹千代は大坂城に入り、異母兄秀康に付き添われて秀吉と謁見した。 秀吉は徳川家に疑いを抱かせぬように、妹旭を駿府城に人質として送った。 寧子とお市は十才の竹千代の烏帽子親となり、大坂城西の丸で元服させ秀吉の諱を与えて「秀忠」と名付けた。 閑話休題、信長と吉乃の娘である五徳は、この時二十九才。 お市を上回る美貌を持つ五徳に、好色な秀吉が手を出さなかったのはなぜか。 吉乃の娘であり、赤子の時に世話をし、二人には叔父・姪としての情の交流が存在したから、秀吉は五徳を欲望の対象とはしなかったのではないか。 五徳からは再三・再四にわたり、剃髪し仏門に入ることの願いが出ていたが、秀吉はなぜか許そうとはしなかった。 五徳の慕情が或る武将に向けられていることを、秀吉とお市、それに寧子は知っている。 八月六日、肥後・国人衆五十一家が、佐々成政の検地に反対し、諸々に一揆の煙を上げ、佐々成政は直ちに佐々平左衛門・前野又五郎に三千の兵を与えて、一揆鎮圧に向かわせた。十五日には隈部親永ら一万五千の一揆勢は、鎮圧部隊を破り隈府城に迫った。 九月七日、一揆蜂起を待ち構えていた秀吉は、黒田官兵衛・小早川隆景・毛利輝元・吉川広長らに、肥後の一揆鎮圧を命じた。 黒田官兵衛が留守にした豊前では、伊予に転封を命ぜられていた宇都宮鎮房が反乱を起こした。 黒田官兵衛の嫡子長政はよく戦ったが、要害の城井城に楯篭もった国人衆に大敗北を喫し、陰惨な謀略を以て宇都宮鎮房らを惨殺した。 肥後の一揆鎮圧は、翌天正十六年(一五八八)閏五月まで懸かることになった。 九州各地では豊家に反抗する国人衆が、検地阻止を叫んで一揆を起こし、寛永十五年(一六三八)の島原の乱まで騒動は続く。 九州での騒動は局地的なものであり、豊臣政権の威信を傷つけるものではなく、秀吉は着々と領国内の検地・城割・道普請・港湾の整備を促進させていた。 九月十三日、平安京内裏跡内野に普請中の新第が完成し、この日、秀吉は大坂城から移った。 織田家ゆかりの岐阜城に織田秀信を入れ、近江八幡山に三好秀次を置き、安土城を廃城にした。 大坂・天満の本願寺准如には、京都・堀川に土地を与えて本願寺を建立させ、安土城の資材・石材を宇治川のほとりの桃山に運ばせ、伏見城の普請に懸かった。 安土の大名や武将達の屋敷も解体し、新第の周囲や大坂城の外郭に移築させた。 信長の築いた安土城は役目を終え、天下人の居城は大坂城に移った。 京都の鎮守のためには、本願寺の法力と京都の南を摩利支天の力を以て、都に住みついた魑魅魍魎を押さえ付ける必要があった。 宣教師フロイスは、この新第の様子を本国に報せている。
新第を「聚楽第」と名づけた秀吉は、寧子・お市らの家族・側室を伴い、華麗な行列を仕立て入城した。 一万石以上の大名には、新第の周囲に邸宅を築くことを命じ、織豊家に繋がる前田利家・蒲生氏郷・羽柴信秀・三好秀次・豊臣秀長・浅野長政・堀秀政・池田輝政・細川幽斎らには新第の中に屋敷を与えた。 更に洛中と洛外を「御土居」で区切り、道路が十字に交差する町割区画を行い、新第を中心とした城下に変貌させた。 現代の京都の町割は、この秀吉の区画である。 秀吉が九州から帰陣した後、畿内各地に 「北野の森において、十月朔日より十日の間、天気次第、大茶湯なさる御沙汰に付て・・・・茶の湯執心の者は、若党・町人・百姓によらず、釜一つ、釣瓶一つ、飲み物一つ、茶なきものは、こがしにても苦しからず候間、ひっさげ来り仕るべきこと・・・」 と云う沙汰書が出されていた。 十月一日、北野神社の神域と境内の松原で、関白秀吉が主催する大茶会が始まった。 参加者の身分を問わず、八人一組となり籤を引き、一番秀吉、二番千利休、三番津田宗及、四番今井宗久の茶席で茶を貰った。一席で二人ずつが茶を飲み、引き下がって入れ替わるような仕組みで、一日に八百人が茶にあずかった。 秀吉や茶頭の点前は午前中で終わり、昼食後、秀吉は寧子・お市を伴って、会場の茶席を一つ一つ見物して歩いた。 織豊家の大名や公家衆、畿内の豪商達は九月二十五日から茶席の設営を開始し、八百余りの茶席が設けられた。 秀吉の茶席は拝殿に造られ、中央には黄金の茶席が置かれた。 この茶会で話題をさらったのが、麻阿、綾小路優子、利休の娘お吟、三人の美女が接待した羽柴信秀が設けた茶席であった。 秀吉は信長から拝領した茶器や長年懸かって収集した名物を展示し、自らの権勢を参加者に示した。 この茶会に飾った道具は、秀吉の財力と権勢を物語るものであった。
土くれからできた茶器の名物よりも、秀吉にとっての大名物は、信長から賜ったお市であった。 お市が秀吉に嫁し子供を産んだことにより、秀吉が織田家の正統な後継者であることを、天下に知らしめていた。 寧子は秀吉の名代として、領国内の政治や禁裏との外交交渉に成果を上げていたが、お市がいなければ算奪者の烙印を秀吉は捺されていたであろう。 秀吉は弘治二年(一五五六)以来、お市を菩薩と崇めてきた。 三十年余り経た今日も、その気持ちには変わりなく、二人で過ごす夜は、自然と清洲時代の主従の関係に戻る。 この夜は、聚楽第の天主に衾を設けていた。 お市は乳母をつけず、自分の乳で棄を育てていた。 むずかる子に腹一杯の乳を含ませて、天主に上がってきた。 一人で闇に沈む京都の町並みを見ていた秀吉は、 「お市様、もう少しで秀吉の役目も終わります」 「藤吉郎、そなたの気持ちは嬉しいが、それは本心なのですか」 「お市様、鶏道八林で飢え苦しむ武将が、この秀吉を恨み、異国の土になることを悲しみ、死んで逝く夢を、博多で見ました。秀吉がこのままでいると、豊家にとって不吉なことが起こります」 青史の秀吉が起こした無謀で狂気の戦争が、思念となってこの世界の秀吉を悩ましていた。 双虹の瞳は暗く、漆黒の闇から狂暴な光が閃けそうな気配に、お市は自らの身体で慰めようとした。 「甘い匂いがします」 「藤吉郎、今まで棄に乳を与えていました」 瞳に狂気を宿した秀吉を幼子同様に母性で包み、暴走をくい止めねばとお市は必死になっていた。 「お市様は女盛りです」 お市は秀吉の背を、やさしく擦る。 「藤吉郎、少し肉が付きましたね」 お市の懸命ないたわりに、秀吉の瞳から狂気が消えていく。 肥後・豊前・筑後における国人衆の一揆は、秀吉の予測を超え拡大していった。 天正十五年七月、豊前においては黒田官兵衛は、六尺三寸を一間とした検地竿を使用し、一間四方を一歩、三十歩を一畝、十畝を一反、十反を一町とし、田畑・屋敷の一つ一つに上・中・下・下々と、生産高に応じて等級を付ける「織豊検地」を実施した。 織豊家の領国内においては「京桝」の使用を義務付け、検地で設定される斗代は、上田は一石五斗、中田は一国三斗、下田は一石一斗、屋敷地・上畑は一石二斗、中畑は一石、下畑は八斗で、下々田・下々畑は見計らいにより決定した。この斗代に面積を乗じたのが石高である。 検地帳には土地の面積・石盛だけではなく、実際に耕作している百姓の名前が記載され、一つの土地に対して一人の耕作者に限定した。土地からの貢租収取者を領主のみとしたので、村々の地侍が耕作者から徴収していた小作料を否定した。 これを「一地一作人・作合否定」と云い、検地帳に記載された百姓の耕作権を保証し、地侍との隷属関係から解放し、百姓の自立を促したのである。 そのかわり、百姓は年貢納入を義務付けられ、他所への移動を禁じられ土地に縛りつけられることになった。 中間搾取を否定された地侍は、村に残って百姓になるか、村を離れて織豊家の家臣になるかの選択を迫られた。 秀吉は西国二十数カ国の大名・武将達に「検地」の実行を命じた。秀吉の検地にかける熱意は高く、各地から検地帳が届くと食事を中断して、検地帳を隅から隅まで監査し、不審な箇所があれば再検地を命じた。 検地の出目(耕作人が不在の土地)は、関白蔵入地として没収した。 秀吉が初めて検地を実施したのは天正元年九月で、旧浅井三郡の領地三万五百七十五貫文の領地であった。検地は前述通りのやり方で実施し、検地奉行には立木直治・杉原家次・一柳直末が命じられ、検地帳には石高十二万二千三百石と記載された。 年貢は六公四民という苛酷な収奪であったが、地侍・寺社から三重・四重と搾取されていた百姓にとっては、貢納が領主秀吉のみとなり負担が減少した。 秀吉は浅野長政に命じていた。 ・・検地は山の奥、海は櫨櫂の続く所までも実施し、これに従わない者は城主・国人から百姓に至るまで撫切りにし、その村が亡所となっても構わない・・ このような地侍や寺社の中間搾取を否定する「検地」に、九州の国人衆は猛反発した。 肥後の一揆鎮圧に加勢するために、黒田官兵衛が豊前を離れると、豊前各所で国人衆は居城に楯篭もり蜂起した。 「犬丸の城、賀来の城、福島の城に楯篭もる。是に依て、長政、馬ケ岳より広津まで馬を出さる。其時、鬼木掃部、伊藤田氏、緒方氏等、広津へ働かんと相集まる所に、長政是を聞きて、此方より押し寄せ、数度戦て敵を切崩さる」と黒田家は記録した。 頑強に抵抗したのが、城井谷の宇都宮鎮房であった。宇都宮氏は鎌倉時代に築上郡城井谷へ東国から下向した御家人で、秀吉の九州征伐に鎮房は出陣せず、伊予今治に転封を命じられていた。 旧領安堵を秀吉に却下され、宇都宮鎮房は居城の城井谷・茅切城に楯篭もり、黒田長政に抵抗していた。我責めでは城を陥れることができず、黒田官兵衛は宇都宮鎮房に和睦を申し入れた。 和睦の条件は、宇都宮氏の所領安堵、鎮房の娘を長政の嫁に、と云うものであった。 これを受け入れた鎮房は、天正十六年正月、娘を連れて中津城に出向いた。城下の合元寺に滞在していた宇都宮氏の家臣は、黒田家の将兵の襲撃を受け全員が死亡した。城内の鎮房父娘は斬殺され、謀将・知将と讃えられた黒田官兵衛にとっては、後味の悪い仕置きとなった。 秀吉は西国二十数カ国の検地の状況を、各地に派遣した隠目付・生駒衆から逐一報告を受けていた。 秀吉の眼は関東・奥羽に向き、十二月三日、関東・奥羽に「惣無事令」を布告していたが、九州の状況を悪意ある眼で観察していたのも事実である。 秀吉の良平(竹中半兵衛・黒田官兵衛は漢の張良・陳平に例えられていた)とまで称された黒田官兵衛を、秀吉は疑い始めたのがこの事件であった。 秀吉や半兵衛もかなり悪辣な謀略を重ねたが、降伏してきた武将や家族を、暗殺すると云う卑劣なことはしていない。 ・・官兵衛も光秀と同じ資質を持っている・・と秀吉は感じた。 天正十六年正月、九州で一揆勢と戦っている者を除いて、織豊家の大名に大坂城出仕が命ぜられ、数年間途絶えていた年賀拝礼が執り行われた。 大名達は夫人同伴を義務付けられ、華やかな祭典となった。 武将は騎馬、夫人は輿に乗り、屋敷から難波の町を回り、大坂城に入ることが命ぜられ、華々しい行列を見ようと、難波津の路地は見物人で埋め尽くされた。 年賀に登城した大名は、津軽の大浦為信、出羽の最上義光、常陸の佐竹義重・太田資正、越後の上杉景勝、信濃の真田昌幸・木曽義昌・諏訪頼忠・保科正直、甲斐の加藤光泰、駿河の徳川秀忠・秀康、遠江の滝川雄利・一柳直末・市橋長勝、三河の堀尾吉晴・池田長吉・石川貞清、尾張の織田信雄・同信正・同秀則・同信高・信吉・信貞・信好・長次・生駒八右衛門、美濃の森忠政・蜂屋頼隆・氏家直通・稲葉貞通・池田輝政・田丸直昌・竹中重矩・河尻秀長・高木盛兼、飛騨の金森長近、加賀・能登の前田利家・利長父子・溝口秀勝、越前の堀秀政・戸田勝成・青山宗勝、若狭の丹羽長重・大谷吉継、近江の浅野長政・中村一氏・生駒親房・三好秀次・新庄直忠・山内一豊・長谷川秀一・石田三成・増田長盛・長束正家・京極高次、伊勢の織田信包・関一政・蒲生氏郷・分部光嘉・木造具政・岡本良勝、志摩の九鬼嘉隆、伊賀の筒井定次、大和の秀長・藤堂高虎・桑山重晴・多賀秀種、山城・紀伊・河内・和泉は秀吉の直轄地、京都奉行の前田玄以、摂津の福島正則・脇坂安治・小西行長・田中吉政、平塚為広、丹波の羽柴秀勝(姉ともの次男)・上田重安・青木一矩・小野木公郷・杉原長房、丹後の細川幽斎・忠興父子、播磨の羽柴信秀・中川秀政・平山友房・片桐且元・赤松則房・山崎片家、但馬の前野長康・垣屋光成、因幡の宮部継順、亀井茲矩・八木直信・木下重茲、伯耆の南条元続、美作の糟屋武則・平野長泰・江原親次、備前の宇喜多秀家、出雲・岩見は秀吉直轄地で代官の大蔵藤十郎、備中は杉原家次・木下家定・池田知正、備後の小鴨元清・立原久綱・寺沢広政、阿波の蜂須賀家政、淡路の稲田大炊、讃岐の生駒親正・小笠原貞慶・徳永寿昌・太田一政、伊予の加藤嘉明・来島通統・得居通年・小川祐忠、土佐の長曾我部元親らで、毛利輝元と九州の大名は年賀出仕を免除された。 豊家の主な武将の官位は、織田家当主の秀信は従三位参議、秀吉は従一位関白・太政大臣、織田信雄は正二位内大臣、秀長は従二位権大納言、宇喜多秀家は従三位参議、織田信包は従三位左近衛中将、前田利家・細川忠興・蒲生氏郷は従四位左近衛権少将、羽柴信秀は従五位下筑前守であった。 大坂城・本丸御殿の大広間は、豊家の大名夫婦で埋め尽くされた。一段高い上座には、秀信と信松尼、秀吉・寧子・お市が座り、上座の手前には織田信雄・信包が左右に対面して座り、織田一門衆・同盟大名・政所評議衆が序列に従い、二百名近い人々が秀信と秀吉に謁見した。 武将たちの数年来の勲功に対して、茶器・刀剣・珍物・金銀等を与えて、秀吉は大名達を賞した。 秀吉の織田秀信に対する敬意は、主家に対するものではなくなり、天下人は「我一人」という態度を明確に表していた。 織田家に対する恩義や忠節は忘れないが、わが血肉を分けた後継者である鶴丸に、おのが勝ち取ってきた総てを渡す願望が顕わに現われてきた。 年賀の拝礼が終了した後、大名の夫人達は寧子・お市・信松尼の案内で、大坂城の天主を見学し、西の丸にて豪華な膳の接待を受けた。 寧子・お市・信松尼・茶々・初・達子や秀吉の側室竜子・山名殿・三条殿・姫路殿・三の丸殿が、自ら膳を運び接待すると云う丁寧さであった。 土産は緞子や縮羅の反物と京紅であり、合戦で夫が不在になる家を守る夫人達をねぎらった。 接待の手伝いは、前田利家の妻お松、信秀の妻まあ、宇喜多秀家の妻豪であった。 秀吉は武将達を山里丸に案内し、千利休を茶頭に雪見茶と称して、自らの点前で茶の湯を催した。 正月三日、秀吉は聚楽第において、関白の年賀拝礼を行った。 これは太政大臣としての年賀であり、公家衆・神官・僧侶・豪商達が多くの進物を持ち、聚楽第に参上した。 大坂城では武家の顔を見せ、聚楽第では公家の顔を見せる秀吉であった。 秀吉の許には、佐渡・甲斐・駿河・信濃・飛騨・但馬の金や生野・多田・岩見の銀が、生駒衆黄金吹方の手により掘り出され、膨大な量が送られてきていた。 秀吉は京都の調金師・後藤徳乗に命じて、銀銭の天正通宝や金銭・銀銭の永楽通宝を鋳造させていたが、更に金の大判の鋳造を始めた。 菱大判は「天正十六、十両、後藤」と墨書され、豊臣家の桐紋が押されており、長大判は年次がなかった。 金が七割五分含まれ、重さは四十四匁一分(一六五c)で、大判一枚で米四十石と交換できた。 十両とは重さの単位であり、大判・金銭・銀銭は備蓄・贈答・褒美に使用され、流通経済の基礎貨幣には至らなかったが、秀吉政権の銅銭鋳造への第一歩となった。 秀吉は備蓄用として、重さ四貫から百匁の分銅金をたくさん造らせた外に、銀本位制の交易に使用するために、御公用銀を鋳造させた。 銀貨は切断して使用(切り遣い)されることに配慮の上、どこを切られても、その真偽を判断できるよう、全面に「御公用」という刻印を打った。 |