北条攻め(2)
豊家の領内で検地を実施し、世界でも稀である豪華な金貨を鋳造し、伏見城・広島城・名護屋城を普請し、更に秀吉は後陽成天皇に聚楽第への行幸を願い出ていた。
行幸が許されると、この行幸をかってないほどの華麗さと豪華さで飾る準備に懸かった。
秀吉は行幸を利用して、自分が天皇の次位にあることを天下に実感させ、天下平定を促進させようとした。

行幸の警固は、秀吉譜代の家来から三十八人が選抜され、先駆けは前野長康と木村重茲と決められ、大坂城の在番は蜂須賀家政が、洛中の諸道・諸門の警固には加藤光泰・浅野長政があたることになった。
四月十四日、後陽成天皇は、山鳩色の束帯の御衣を着て、御所の南殿に出た。南殿から長橋までは毛氈を敷き渡御の道にしていた。天皇が南殿を出て、毛氈の道を歩く時、秀吉は腰をかがめて天皇の裾を取り、従い歩いた。
後陽成天皇は六千人の武士が警固する上京を、母の勧修寺時子、女御の近衛前子以下の女房衆、宮、五摂家を始めとする公家衆を引き連れて、聚楽第に入った。

聚楽第では、早速饗宴が始まり、七献にわたって献上物があり、夜には管弦の宴が催された。
翌十五日、秀吉は天皇へ京都の地代である地子五千五百三十両を禁裏料として、正親町上皇に八百石、天皇の弟六宮に五百石、諸公家・門跡に八千石の知行を与えた。

秀吉は天皇を前にして、二十九人の大名に起請文を提出させた。
一、昇殿を許された礼
一、禁裏御料・公家知行所の安堵
一、関白秀吉の命令への服従
の三カ条の起請文であった。
誓紙の宛先は、羽柴信秀であり、秀吉は鶴丸の将来を信秀に託した。

四月十六日は和歌会が催され、秀吉側室・三条殿の教養の高さが評判となり、秀吉の返歌も素朴ではあったが、秀逸なできばえで若い天皇を驚かせた。
秀吉の和歌は、衾の中で三条殿から手ほどきを受け、古今に通じた公家に負けない程であった。
また、三条殿の影響を受け、秀吉は能楽に限りない保護と愛情を与え、華やかな桃山文化に彩りを添えている。
天皇や女御・公家衆は大いに満足し、三日間の予定を延ばして五日間滞在することなり、秀吉はこれを喜び様々な宴遊を演出した。

四月十七日、舞楽が催され、この席で秀吉は、母大政所や政所の寧子・お市と共に貢物を献上し、天皇は十八日に還幸された。
信長は天性の資質で京都の公家文化を取捨選択して吸収したが、希有な知能を持つ秀吉は全てを吸収してから、自分流に味付けしてから秀吉独自の文化を形成した。

五月十五日、二年前、聚楽第と同時に着工された方広寺大仏殿の居礎の儀が、南六波羅において改めて執り行われた。石壇を築き土を盛り、京都市中の住民に餅と酒が振る舞われ、洛中各所から出し物もあって賑わった。
作事奉行は前田玄以、奈良から大仏師宗貞・宗印が招かれ、土佐・木曽・熊野から大木が集められた。資材調達の名目で二ヶ月後には、刀狩令が布告される。

天正十五年八月に蜂起した肥後・国人衆を、諸大名の加勢によりこの月に入って鎮圧した佐々成政は、秀吉からの招きで大坂城に向かった。
・・肥後における一揆も無事に治まり、咎めぬ故に、茶なりとも喫しながら、年来の旧交を温めあうのも一興なり。是非とも上坂されよ・・
と秀吉からの書状を受け、佐々成政は肥後を出立し、ようやく尼崎に到着した。
佐々成政と家臣二百名は、府内への立ち入りを差し止められ、尼崎・法華寺に押し込められた。

閏五月十四日、秀吉は「先達ての、領国内一揆騒乱の不手際の罪軽からず」として、佐々成政に切腹を命じた。
信長に仕え、柴田勝家の与力として越中を支配、信長の死後、秀吉打倒を企てて失敗し和睦、大坂城で秀吉に近仕し「黒百合」を寧子に贈り、それに対抗した近江出身の武将達が、お市に「黒百合」を献上すると云う騒動をおこした。

更に佐々成政には、もう一つの「百合」騒動があった。
越中の地侍の娘で小百合という妙齢の女人を、佐々成政は側室として召し出していた。
天正十二年秋、小百合は成政の子を懐妊したが、それを喜ばぬ成政の三人の側室から陰湿な苛めを受けていた。
この年の十一月十三日、佐々成政は数人の従者を連れて、さらさら越えを敢行して徳川家康と織田信雄と会見するために、越中を出発した。
雪中の隠密行が身体に堪えたか、従者の竹沢熊四郎が病気になり、富山城に熊四郎は戻ることになった。
難行の末辿り付いた尾張で、織田信雄と会見した佐々成政は、徳川家康の死を知らされ、意気消沈して、越中・富山城に戻って行った。
佐々成政の留守中に三人の側室は、小百合と竹沢熊四郎が密通し、腹の子は熊四郎の種であると、噂を撒き散らしていた。
噂を耳にした佐々成政は小百合を信じていたが、ある夜、小百合の寝所の戸口に、錦の匂袋があるのに気づき、同朋衆に誰の物かと聞くと、竹沢熊四郎の匂袋であることが判明した。
側室達に買収された同胞衆が、そこに置いた物であった。
逆上した佐々成政は、竹沢熊四郎を召し出し、事情を問い質すことなく斬殺し、小百合の黒髪を引っ張り神通川の辺まで走り出て、黒髪を逆手に取り榎に縛り付け、頚に刃を押し当て斬殺した。
小百合は罵り叫び、歯を噛み砕き、血の涙を流し、修羅の相に変貌し
「己成政、この身は此処に斬罪せらるる共、怨恨は悪鬼となり、数年ならずして、汝が子孫を殺し
尽し、家名断絶せしむべし」
と叫んだ。
佐々成政は、小百合の親兄弟、一族十八人を磔に処し、その後、神通川の辺には恨みが残った小百合の首と鬼火が出ると云う。
(黒百合伝説は「Hiroe`s Homepage」から引用させていただきました。非常に興味のある説話です)

九州征伐では、信秀の側に仕え勲功を上げ、秀吉から肥後・隈府城を与えられたが、検地に反対する国人衆の鎮圧に失敗した。
佐々成政は、法華寺の庭に出て、泉水のほとりの石に腰を掛け、家臣に身の回りの物と金を与え、腹を十文字にかき切って自害した。
天正十三年八月に佐々成政を許した時から予定していたことで、秀吉にとっては心の痛みは感じなかったが、寧子とお市にとっては衝撃的な出来事であった。

佐々成政が自害した翌日、閏五月十五日、北肥後に加藤清正が封じられ、南肥後・秀吉直轄地の代官に小西行長が命じられた。
肥前・名護屋城を普請していた加藤清正は、六月に隈府城に入り、坪井川・白川・菊池川の堤の修復にかかった。
加藤清正は秀吉と従兄弟の関係にあり、秀吉は清正の肥後入りに最大限の援助をした。
秀吉が直轄地とした港や城下の修復に従事していた「生駒衆・大工方」を、加藤清正の配下にしたのである。
長年にわたる戦禍と一揆により、肥後の河川は堤もなく、少しの雨で洪水となり、田畑は荒廃していた。人心の集覧は治水にあり、短期間に築堤を完了させるために、秀吉は生駒衆だけではなく、近江穴太衆の石積人夫も肥後に送り込んだ。
加藤清正に治水の才能があったのか、隈府城の側の低地を遊水池にして、領民を悩ませた坪井川・白川の治水に成功した。

佐々成政を自害させ、寧子とお市を嘆かせた秀吉であるが、信松尼を驚かせ喜ばせた。
天正十年二月、天目山で武田一族は滅んだと思われていたが、秀吉は密かに武田家の遺児を育てていた。
この時、信松尼・寧子・お市に対面した武田一族は、勝頼の次男・勝親、庶子・又六、信勝の子・新五郎(木村重茲の養子として養育)、信松尼の甥・貞友、信玄の七男・信清らであった。
武田家の家名存続を姉の菊と二人で支えてきた信松尼にとって、これら一族が生存していることが不思議でならなかった。
「信松尼様、この方々は木曽山方衆が密かに保護し、しばらくの間、真田昌幸に預けておりました。
新五郎殿は武田嫡流であり、一族の木村重茲に預け養育させました」
信長が生存中に「秀吉はわしを騙しても・・・・」とお市に云ったことが、またもや再現された。
「信松尼様、この秀吉は信玄公から様々な恩を受けておりました。
この方々を匿ったことは、上様も薄々感づいておられたと存じますが、信秀と井頼を御許しになられたこともあり、真田の忍と山方衆を救出に向かわせました」
信松尼は一族との再会で感涙に咽び、お市もつられて涙が止まらなかった。




天正十六年)七月八日、秀吉は、農民や漁民らが武器を所持することを禁止する布告を発令した。
織豊家の領内や臣従する大名に対して、武士以外の者が所持している刀・鉄砲等の武具を回収するように命じた。
一、諸国の農民が武具を所持することを禁止し、国主・給人・代官にその武具を没収することを命ず
一、没収した武具は無駄になるのではなく、大仏殿造営のための釘などにするので、農民は現世のみならず来世まで救われることになる
一、 農民は、農具だけを持って耕作に専念することが、国家安全・万民快楽のもととなる。

この頃、刀・脇差は、貴賎・職業を問わず社会の成員の証であり、その価値観の変革を図り、武士は武具、農民は農具という、身分制度の固定化を秀吉は目指した。
刀狩令発布の一ヶ月後には、早くも大聖寺城主の溝口秀勝が、農民から狩り集めた刀一〇七三腰・脇差千五百四十腰・槍先百六十本・かうがい五百本・小刀七百本、合計三千九百七十三点を京都に届けてきた。
大名によっては、取り組みの早い遅いはあったが、天正十六年中に殆どの大名は「刀狩」を実施し、集めた武具を京都に運んだ。
ただ、薩摩・大隅では刀狩りが行われず、在京していた島津義弘は心配した。
・・情勢判断が甘く、油断しているのではないか。国許では、長い刀が流行している事は、関白様もよく承知している。短い刀だけでなく、長短取り混ぜて京都に運ぶように・・と薩摩に書状を届けた。

興福寺の多聞院英俊は日記に・・「天下の百姓の刀」を悉く召し上げ、大仏の釘に使うと云うが、それは口実で「一揆停止」の関白の種々計略なり・・と記している。

併せて海賊禁止令も布告した。
一、諸国の海上での海賊行為を禁止したにもかかわらず、近頃、備後・伊予両国間にある伊津喜島で海賊船が出没するのは問題である
一、浦の地頭・代官の責任で諸国浦々の船頭・漁師などの調査を行い、今後、海賊行為をしないとの起請文を徴収し、国主が国単位で進上せよ
一、今後、法令に背いて海賊行為を働く者がいたら、彼らを成敗し、その在所の給人領主は、監督不行届きにより知行を没収する
というもので、漁民の武装解除を図った。

秀吉は強力な中央政権を背景として、源平以来続く争乱を根絶させ、平和な国土を建設しようと、様々な施策を打ち出していた。
大名間の争いを無くす惣無事令、村々の間の諍いを無くす喧嘩停止令、戦闘に百姓が武器を持って参加できない刀狩令、船舶が安全に航海できる海賊禁止令、と秀吉が長年抱いてきた「天下経綸」の理想が実現しようとしていた。
信長が推進してきた商工業振興・土地政策を徹底的に模倣し、信長でさえ考えなかった武将・領民の統制を行い、秀吉は完全に信長を超越したと云っても過言ではない。

この頃から秀吉は、関東・奥羽征伐の大構想を練り始め、その一環として、豊家大艦隊の創設を計画した。
志摩・海賊大名の九鬼嘉隆に、三層の総矢倉を持つ「大安宅」を十艘、鉄板で装甲した屋形を持つ「大型関船」を百艘、大砲を撃てる井楼を持つ「井楼船」を十艘、馬船・兵糧船等の軍需運搬船を数百艘、建造することを命じた。
熊野の堀内氏、瀬戸内・三島の村上氏、伊予の加藤嘉明、土佐の長曾我部元親、安芸・長門・周防の毛利輝元、筑前の小早川隆景、肥前の松浦氏・龍造寺氏・大村氏・有馬氏、薩摩の島津氏らには、前面を鉄板で軽装甲した関船・小早や兵糧運搬船の建造を命じた。

蒲生氏郷・池田輝政・信秀には、尾張・伊勢・美濃の商人を使い、関東での五穀の買い付けを命じ、関東の米の価格を釣り上げさせる。
真田幸村を慕って信濃に滞在していた井頼には、関東・奥羽の探索を命じた。
井頼は生駒衆や真田忍衆の警固を受け、上野から武蔵・下野・安房・上総・下総・相模・伊豆・常陸・陸奥・出羽へと潜入した。信秀が統括している川並衆や伊賀・甲賀の忍衆にも、関東への潜入を命じ、情報の収集に当たらせる。

信長の死後、秀吉の有力な与力大名として、幾多の合戦で勲功を上げた蒲生氏郷は、天正十四年六月、伊勢松ケ島城を秀吉から与えられた。
封地に着くやいなや、領内を自ら調査し四五百森(ヨイホノモリ)に着目し、ここに城を普請することを決意した。
天正十四年に従四位侍従に、翌十五年には島津攻めの功績で「羽柴飛騨守」と称することが許され、この十六年には「正四位下・左近少将豊臣氏郷」と昇進を重ね、秀吉から厚い信任を得ていた。
このことから、常緑の松は縁起の良いめでたい木であり、我の如くであるとして、四五百森を改めて「松阪」と名づけた。
天正十四年から蒲生氏郷は、四五百森に城を築き始め、近江日野から商人を呼び寄せ、町造りも開始した。

弘治二年、日野城主・蒲生賢秀の嫡男として生れた氏郷は、祖父定秀が育て上げた日野の町の賑わいと活況を見て育った。
永禄十一年九月、蒲生賢秀は信長に臣従し、幼名鶴千代と称していた氏郷を人質に差し出し、氏郷は三年間を岐阜城で小姓として信長に仕えた。
当時の岐阜城には、各地の武将から人質として数百人の子供が送られてきていたが、その中で一際秀でていたのが氏郷であった。
永禄十四年、北畠具教を攻める信長軍の中に、蒲生氏郷も初陣として出陣し、大きな勲功を上げ、信長や重臣達から賛辞の声を得た。
岐阜に戻った信長は、自ら烏帽子親となり氏郷を元服させた上、娘冬姫を娶らせた。
人質という身分を解かれ、日野城に戻った氏郷に父賢秀は家督を譲り、十五才の若さで氏郷は日野城主となった。

元亀・天正と合戦が続いた近江であったが、氏郷は日野を楽市楽座とし、鉄砲鍛冶を養成して、日野城下の商工業の振興を図った。
蒲生氏郷は、岳父信長の「安土掟」を参考として、日野城下に「掟」を定めた。
・・第一条には「当町楽売楽買と成す上は、諸座諸役、一切これあるべからざる事」と、座の制度による商品の流通を厳しく禁じた。氏郷領内の街道を商人が素通りすることを禁じ、商人は必ず日野に一泊して、その荷物を日野城下の市で商えとも命じた。
更に「当町、地子・加地子ともにこれあるべからざる事」とし、商人や職人に課せられていた税金を一切免除した。
喧嘩・争論、押し売り・押し買い等の沙汰は、領主自らが取り締まるという内容であり、日野城下は安土城下と並び、南近江における商工業の二大拠点へと成長した。
古代より交通の要衝として、人や物資の流れが盛んな近江の地に、信長・秀吉・氏郷らが商工業の振興策を取り入れたため、近世・近代と多くの近江商人が輩出していく。

天正十二年、日野から松阪に移った氏郷は、城下町の形成に力を注いだ。
参宮街道を六軒から城下に引き入れ、城下の中央を貫通させ、街道から縦横に道を設け、道に沿って町家を建てさせた。道は湾曲させ、二丁先を隠すように、町家は交互に一尺・二尺程前後させ、城郭防衛の一端を担わせた。
城下町形成は、天正十六年十一月一日に公布された「町中掟書第十二箇条」に示され
・・松ケ島における百姓を除いて、すべての町人は松阪に移住すること。誰であろうと自由に商売ができること。
ただし、油の商売と殿町に店を出すことは禁止する。誰であろうと刀を抜いて乱暴狼藉をする者がおれば、取り押さえて奉行所に訴えでよ。商売人は諸役を免除する・・
と商人の保護と城下の治安に努めた。

この時期、松阪には本町・工屋町・博労町・紺屋町・平生町・中町・鍛冶町・白粉町・大工町・新町・桜屋町等ができ、道に沿って町家が建ち並び、町の外側には樹敬寺・清光寺・正円寺・善福寺・竜華寺・頼仰寺等の寺院が建立された。
中央の参宮街道に沿っては、優秀な商人を住まわせ、街道と大手通が交差する本町には、松ケ島当時の豪商六蔵を住まわせた。
近江日野から商人を呼び寄せ、日野町を造り、伊勢大湊の回船問屋・角屋七郎次郎を招き湊町の名を与えて保護した。
角屋七郎次郎の次男・栄吉は、遠く安南に渡り、南蛮交易で巨万の富を築いた。

松阪城は、北東を大手とし、南東を搦手とし、本丸・二の丸・三の丸で構成され、城の周囲は水堀を巡らした。秀吉から許され、三層の天守閣には、金箔塗りの瓦が輝いていた。
蒲生氏郷の妻は信長の娘、妹は秀吉の側室・三条殿であり、豊臣家の有力な大名として、松阪城の天守閣を金箔瓦で飾ったのである。

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