昭和6*年11月下旬、氷雨が降りしきる宵闇、U市寺町、10才ぐらいの女の子が明覚寺の山門で雨宿りしていた。

ボタン雪が混じった冷たい横殴りの氷雨は、遠慮なく女の子に降りつけ、三つ編みに下ろした髪の毛から履き古したズック靴に至るまでびしょ濡れだ。

かじかんだ掌を温める息は、白く悲しい。

降りしきる氷雨がフロントガラスを叩きつけ、キューキューとワイパーが悲鳴を上げる。

「北条さん、悪いね。こんなところまで送らせて」

「ご住職、遠慮なさらないで下さい。こんなに天気が悪くなるとは」

「それにしても、檀家総代の利長さまのお陰で、ようやく阿弥陀堂の改修の目途が立ちました」

「良かったですね。聞くところによれば二百年ぶりの大改修で、かなりの費用を必要とされるのでしょう?」

「ええ、1億円近くかかるそうで、この2千万円があれば、他の檀家の皆さまも寄付をいただけると思います」

僧衣姿の男性は、石山茂樹。彼が大事そうに抱える布製のバッグの中は、前田利長から寄付された2千万円の札束が入っている。明覚寺の創建は室町時代中期、織田信長の根切り政策と焼き討ちで廃寺の憂き目にあったが、本能寺の変後、信者たちが道場として再建、それ以来、この地方の中核寺院として存在している。

「北条さん、ここらで降ろして下さい」

U城の大手門を移設した山門の前で、前田家執事の北条氏勝が運転するベンツから降りた石山住職は、少しでも氷雨に濡れないように、山門の庇の下に駆け込んだ。

「あれっ、どうしたの?お嬢ちゃん」

うずくまった女の子に気づいた石山住職は、やさしく声を掛けた。

「お父ちゃんを待っているの」

あどけなく見上げた瞳は、心なしか不安に慄いている。

「どのぐらいお父さんを待っているの?」

「ずっと・・・・」

この時季に不釣合いな半袖のブラウス、着古したスカート、泥で汚れた靴下、爪先が破れかけているズック靴、どこから見ても父親が迎えに来そうにない服装だ。

「取敢えず、オジさんの家に入りなさい」

 

富山出身の小西茂樹は龍谷大学真宗学科に学び、代々、明覚寺住職を勤める石山家に婿入りし、妻の靖恵との間に二人の男児を授かっていた。

今春から平安高校に入学した長男の光章は、U市の親許を離れて京都の伯父宅に下宿し、現在、石山家には茂樹・靖恵夫婦、靖恵の母・貞子、10才になる次男・光利の4人が住んでいる。

家付き娘の靖恵は他人への思いやりが行き届いた女性で、夫の茂樹が連れ戻ってきた女の子を風呂に入れ、氷雨に打たれ冷え切った身体を温めさせた。

「ゴメンね、うちは男ばっかりで、女の子のものがないのよ。

今晩は光利のパジャマで我慢してね。

明日、あなたの服を買ってくるわ。

ところで、お嬢ちゃん、名前は何ていうの?」

「・・・・・・・・・・・

あきな・・・・むらた・・・・あきな」

「そう、むらたあきなっていうのね」

雨に濡れて滲んだ名札からは、どうにか“村田明菜”と読み取れた。

 

風呂上りの明菜が、背中の肌を見せまいと努力していることを、靖恵は気づかないふりをして、脱衣籠に男児用のパジャマを置き、そ知らぬ表情で台所に戻って行った。

びしょ濡れになった肌着は、靖恵が手洗いし、乾燥機でしっかりと水分を取り除いていた。

その頃、居間では石山茂樹は、受話器を握り、誰かと話をしていた。

“前田さまから2千万円も寄付をいただいたから、どうにか阿弥陀堂の改修の目途が立ったよ”

“小切手なの?振込なの?”

“それが、現金で”

“豪気だね、お金持ちのすることは”

“明日、檀家の集会があるので、皆に披露するつもりで、阿弥陀堂にお供えしているよ”

“私もそれなりに寄付をするつもりだから”

“それじゃ、明日”

受話器を置いた茂樹は、寄付集めに奔走したここ数年来の苦労が報われた思いで一杯だった。

「あなた、美人になったでしょう」

背中まで伸びた髪の毛をタオルで拭いてあげながら、靖恵は明菜を居間に連れてきた。

「ほう!この娘さんは、美人だな!」

汚れを落とした明菜は、明眸皓歯、すっきりした鼻立ちの光り輝く美少女に変貌していた。

「明菜ちゃんっていうのよ」

「そうか、何か温かいものでも食べさせては」

「ええ、お母さんがスープを作ってくれているの」

 

靖恵の母、茂樹にとっては義母に当たる貞子は、乳母日傘で育ち、物事に疑いを持ったことがない温厚な女性だ。びしょ濡れになった女の子を娘婿が連れ戻っても、嫌な顔ひとつ見せず、娘の靖恵とともにやさしく面倒を見ている。

「明菜ちゃん、たくさん食べてね」

湯気が上がるスープを一口食べた明菜は、毎夜、毎夜、父が持ち帰ってくる売れ残りの惣菜弁当とは違い、物心ついて初めて“温かくて、美味しい”と感じた。

明菜が無心にスプーンを口に運んでいると、

「お祖母ちゃん、この子と一緒に寝るの?」

と、この家の次男坊・光利が台所に顔を出した。

「そうだよ、二段ベッドの上を光利が使い、下のほうをこの子に使わせてやってね」

「うん、良いよ。食べ終わったら、部屋に案内してやるよ」

光利に案内された部屋は、3畳一間の朽ち欠けたアパート住まいの明菜にとって、眩しくて何もかも興味が尽きない。

「これ、何?」

机の上に無造作に置かれたものを、明菜は掌に取った。

「それは水晶山で見つけた石だよ」

太古の昔、造山活動が活発な時代の名残りで、U市一帯は多くの活断層が見つかっている。標高852mのKS山からは、水晶が掘り出される。鉱山としての価値は低いため、子供たちが勝手に採っても、所有者は目くじらを立てることはない。

尖った六角形の立方体は、小ぶりながらも濁りがまったくなく透き通っている。

「あげるよ」

「ほんと!本当にくれるの」

 

二段ベッドの上段からは、スヤスヤと安らかな寝息が聞こえる。

ジッと耳を澄ませても、この家のどこからも物音一つ聞こえない。

静かに明菜は起き出し、パジャマ姿のまま部屋を抜け出し、足音をひそめて台所の方に向った。

山門に置き去りされる前、『夜中に迎えに行くから、台所の鍵を開けておけ』と、父親の村田保治は何回もしつこく繰り返した。

惨劇は、ここから始まった。

台所、居間からの異音に気づき、寝床を離れた石山茂樹は、金目のものを物色する村田保治を見つけ、『誰だ!』と大声で誰何した。

これに仰天した村田保治は、居間に置いてあったゴルフバッグからアイアンを抜き出し、茂樹を滅多打ち、辺り一面は血の海となり、毒を食らわば皿までと、動転し腰を抜かした靖恵、貞子までも滅多打ち、あっという間に三人を撲殺してしまった。

居間から見つけ、奪った金額はわずか2万円。

「明菜、この家の家族はこれだけか?」

「うん、お父ちゃん、早く行こう」

居間の扉の向うで息を潜ませ、小さな身体をすくませている光利に気づきながら、明菜は父親の右手を引っ張った。

U市民を震撼させた「住職一家撲殺事件」、前田利長が寄付した2千万円は、明覚寺のどこからも発見されず、事件は「強盗殺人事件」として捜査されることになったが、遂に犯人の手がかりすら見つからなかった。

 

20年後、優れた洋裁技術を持つ女性が、京都・北山に小さなブティックを立ち上げた。

「明菜さん、珍しい生地を手に入れたのよ。これでスーツを縫ってくれないかしら?」

「通子さま、ミラノ製でございますね。これだけのシルクは、なかなか手に入りませんわ」

「そうなのよ、息子の知り合いからプレゼントされたの。

これだけの生地、明菜さんしか縫えないわ」

「光栄でございますわ、1週間ぐらい余裕をいただければ」

「それで結構よ。出来たら、別邸まで届けてね。

あなたを恭子さんや優子さんに紹介したいから。必ず、あなた自身が届けてね」

「はい、喜んでお届けさせていただきますわ」

神戸のアパレルメーカーで若くしてチーフデザイナーに抜擢され、今秋、小さいながらも自前のブティックを持つことができた。

明菜が担当したブランドを好んで着ていた前田弥生は、明菜が独立したことを知り、友人や知人たちに明菜の腕の確かさを吹聴していた。

京都・前田家次期当主の前田利輝の末っ子として生まれ育った弥生は、天衣無縫といえば聞こえは良いが、自侭気侭、我意の強い驕慢な女性で、ステディな関係を持っていた大高信高がUSA留学していることもあり、母親の香奈子の言うことに従わず、最後の学生生活を満喫している。

母親の香奈子が優子の母親の秀子と姉妹の関係上、弥生は従姉妹の優子を実の姉のように慕い、度々、東大谷山町の別邸を訪ねてきたり、高山弁護士事務所に入り浸り、受付の真似事をしたりしている。

そんな関係上、プレゼントされた舶来生地を持て余していた生駒通子は、スーツやワンピースを明菜に縫ってもらうことにした。

しかし、腕は確かな明菜が時折見せる暗い翳を、通子は気になっていた。

「明菜さん、心配事があれば、遠慮なく言ってね。

息子の秀信なら、大抵のことを解決できるわよ」

「ありがとうございます。

店の方も、生駒さまからのご紹介の方々のお陰で、このように順調に」

「そう、それなら良いのよ」

 

数日後、明菜の店を覗き込むように、行ったり来たりする初老の男性の姿があった。

生地を裁つ手を休めた明菜は、ようやくその男性に気づき、美しい容貌に暗い翳を落とした。

「お父さん、入ってきて!」

ショップの扉を開き、薄汚れた小さなバッグを持つ男性を招き入れた。

「何時、出てきたの?」

「うん、一週間前に出所したが、お前に合わせる顔がなくて・・・・」

「一緒には住めないからね。

どれだけ私に迷惑を掛ければ、気が済むのよ」

「そ、そんな冷たいことを言うなよ。

この世で、たったひとりの肉親じゃないか」

「それが嫌なの!子供は親を選べないから、今まで我慢してきたのよ。

本当は・・・・本当は・・・・お父さん、あなたはずっと昔に死刑になっていたのよ」

「お、お前も共犯だぞ。手引きしたのは、お、お前だからな!」

「もう止めましょう、その話は・・・・

暫くは、これでどこかに泊っていて」

財布から10枚近い一万円札を取り出し、明菜は二つ折りにして保治の掌に握らせた。

「良く聴け、やっと俺にも運が向いてきた。

ムショの中で、面白い話を聞き込んだ。これでお前に、苦労を掛けることはなくなった」

「もう、怒るわよ。

変なことをして、迷惑を掛けないでね」

 

数日後、3,000円で一泊できる釜ケ崎の杉谷旅館に、ひとりの妙齢の女性が訪ねてきた。

日雇い労務者や行き場を無くした人々が集まる釜ケ崎、ここは過去を穿鑿する者も居らず、それぞれが哀しみを背負った人々の安住の地であった。

三段ベッドの蚕棚はなくなり、洒落たビジネスホテルに衣替えし、低料金の宿泊費に魅せられた外人観光客が増えても、幾度も暴動が発生した土地柄は、消したくても消えない。

「こんばんは、どなたかいらっしゃいませんか?」

「はーい」

流れ歩くテキヤを宿泊させる旅館が、この杉谷旅館だ。

水商売崩れの雰囲気をプンプンさせた老女が、けだるそうな返事とともに帳場の奥から出てきた。

「ここに村田保治が宿泊していると聞いて来たのですが」

「ええ、泊っていますけど・・・・・・あんさんは?」

大口を叩き、他の宿泊客と揉め事を起こす村田保治は、旅館の女将・八代浩子の悩みの種だった。

「はい、娘の明菜と申します」

「そうでっか、村田はん、そこの居酒屋で呑んではりますわ」

「これを父に渡して下さい。当座の着替えを入れてあります」

「さよか、確かにお預りします」

着替えの入った紙袋を女将に預け、明菜は丁寧に頭を下げた。

 

杉谷旅館を出た明菜は、女将の八代浩子から教えられた居酒屋に向った。

“みっちゃん、もう一軒、行こうぜ”

聞き覚えのある濁声が、居酒屋のガラス戸の向うから聞こえてきた。

ガラ、ガラ・・・

勢い良くガラス戸が開けられ、ヨレヨレに泥酔した初老の男が、がっちりした体型の男性の肩に掴まり、居酒屋から出てきた。

「な、なんだ!明菜。どうした、何か用か?」

「着替えを届けてきたのよ」

「そ、そうか・・・・明菜、こっちがみっちゃん、ムショを出てから、ずっと世話になっている。

お前からも礼を言ってくれ」

「父がお世話になり、ありがとうございます」と、明菜は軽く会釈し、泥酔して真直ぐ歩けない保治に肩を貸し、杉谷旅館の方に向って歩き始めた。

情けなく薄っすらと涙を浮かべた明菜の背に、

『明菜ちゃん』

と、みっちゃんと呼ばれた男は、含みのある声を投げ掛けたが、父の介抱に気を取られていた明菜は気づかなかった。

 

翌朝、木津川河口、北津守付近に男性の死体が浮かんでいると、航行していた砂利運搬船から大正警察署に通報があった。

現場に到着した警官に引き上げられた死体は、後頭部が大きく陥没し、検視官の検分を待たずとも殺人と断定できたが、身元を示すものは何ひとつ所持していない。

労務者の風体に関わらず日焼けしていない肌、運転免許など所持していない点から、検分に当たった大正警察署の石橋警部補は、最近、刑務所を出所した人物と考え、鑑識員に死体の指紋採取と照合を依頼した。

 

“もしもし、村田明菜さんでしょうか?こちらは大阪府警大正署の石橋と申します”

“はい、村田ですが”

“カクカク、シカジカ、******で、ご面倒でも確認をお願いします”

“はい、父に間違いないのでしょうか?”

“指紋で照合しましたが、念のため、ご家族の確認が必要です”

“はい、かしこまりました”

 

昨夜、杉谷旅館に送り届けた時、泥酔していても父親は元気だった。

物心ついてからは、肉親と言えば父親しか知らず、気に入らないといっては殴る蹴るの虐待を繰り返す父親、ひどい時は焼け火箸を背中に押し付けられたことさえあったが、それでも明菜は耐えに耐えた。

この20年間、父親が刑務所に入獄している時が、明菜にとっては安息の時だった。それでも、この世に唯ひとりの肉親だった父親は、明菜は見放すことはできなかった。

その父親が、この世から居なくなった。

いったい、どこの誰が、父親を殺したのか?

あの夜以来、父親の保治は、窃盗や暴力事件を起こし、度々、刑務所のお世話になっていた。

その都度、身寄りがない明菜は養護施設に送られ、そこから小学校、中学校に通い、中学校卒業後、民生委員が経営する工場に就職、夜間は定時制高校に通った。明菜は20才の誕生日に工場を辞め、北新地のスナックに入り、幼い頃から好きだった洋裁を学ぶため、昼間は芦屋の服飾学校に通った。

この服飾学校の特色は、デザイン、パターンなどの基礎的な技術を徹底的に教えることで、学ぶ者の実力を芯から向上させることに重点を置いていた。

東名阪に学校を設立し、TVCMなどを派手に流す某学園は、基礎的な技術より見映えのする教育に走り、一見、その生徒の技量が優れているような錯覚に陥らせる。

ともあれ、芦屋の服飾学校を選んだ明菜の目は確かで、乾いた砂が水を吸収するように、日に日に、明菜の洋裁技術は向上し、卒業する頃、老境に達した創立者から教員として学校に残るように懇願されたほどだ。

スナックの常連の一人に、神戸で数百億円の売上を持つアパレル企業を経営する大下という男性が居た。質素ながらもファッションセンスに溢れる衣装を纏う明菜が、優れたデザイナーを輩出する服飾学校を卒業することを知り、大下は自らが経営する会社への就職を奨めた。

アパレル会社に就職した明菜は、水を得た魚の如くその能力を発揮し、トップブランドのチーフデザイナーに抜擢された。

父親が入獄している期間は順風満帆だが、出獄してくると所構わず明菜を訪ねて来てはカネをせびる。

こうしたことが度重なると、同僚や上司から明菜を観る目は冷たくなり、30才の誕生日を期して独立を果たした。

父親との思い出が走馬灯のように巡ったが、明菜の瞳は乾いたままだった。

 

「父に間違いありません」

その日の午後、明菜は冷たくなった父の死に顔を、大正警察署霊安室で確認した。

「解剖の結果、村田保治さんの死亡原因は頭蓋骨陥没による脳幹損傷、死亡時刻は本日未明の午前3時前後、とのことです」

会議室に案内した担当刑事の石橋警部補は、明菜に淡々と説明をし、発見当時、身に着けていたものを明菜に提示した。

「財布の中身は、7万5千円、どうやら物取りの犯行じゃないようです」

「そのお金は私が渡したものの残りだと思います」

「お父さんに恨みを持つ人物・・・・心当たりはありませんか?」

「さあ・・・・刑務所に出たり入ったり、父に恨みを持つ人は多いと思いますが・・・・

昨夜、父と一緒にお酒を呑んでいた人・・・・確か、みっちゃん、って父は呼んでいました」

「そうですか、お父さんの泊っていた旅館は?」

「出所してからは、釜ケ崎の杉谷旅館に宿泊していました」

「そうですか」

と言いながらも石橋警部補の視線は、明菜の胸元でキラキラ輝く水晶に向けられた。

視線に気づいた明菜は、

「刑事さん、何か?この水晶が」

と、不審な表情を石橋に向けた。

「イヤ、キレイな水晶だなと感じたので」

「そうですか、私にとっては大事な人から貰ったものですわ」

「埋葬許可は取っていますので、京都で火葬に付されますか、それとも署の近くの斎場で、荼毘に付されますか?」

石橋警部補の計らいもあり、明菜は父・保治の亡骸を大正警察署近くの斎場で火葬し、小さな骨壷に遺骨を少しだけ入れ、残りの遺骨の殆どを係員の処分に任せた。

 

葬儀をするにしても、連絡する親戚も居らず、明菜は居室のテーブルの上に置いた骨壷を前にして、小さくため息をついた。

ピンポーン

この住所を知っている者は、父親ぐらいしか居ないはずだ。

TVカメラ付きインターホーンで確認すると、父親が亡くなる前夜、一緒に居た“みっちゃん”と呼ばれる男性だった。

『何かご用でしょうか?』

『オヤジさんの件で、どうしてもアンタに話がある』

『判りました、お入り下さい。玄関ロビーでお話をお伺いします』

入居者のプライバシーとセキュリティに配慮されたマンションに入居できたのは、前田弥生の尽力によるところが大きい。

前田不動産が所有管理している岡崎コーポのエントランスのソファーに、その風体が不釣合いな男性が大股を広げて座っていた。

「お待たせしました。父のことで何か?」

「オヤジさんから、何か預かっていないか?」

「いいえ、何も預かっていません」

「何も聴いていないのか?近々、大金を手にするって、そんな話を聴いていないのか」

「そんなことを言われても・・・・」

「エヘヘヘ・・・・とりあえず500万円を用意してくれ!

20年前のことは黙っていてやるから」

「エッ・・・・どうして、どうして、そのことを・・・・」

「まだ思い出さないのか?」

「・・・・・・あ、あなたは・・・・・」

「それじゃ、またな」

明菜の脳裏には、20年前のことがまざまざと浮かび上がってきた。

“それじゃ、彼が光利さんなの?”

“だったら・・・・彼があんな風になっているのは・・・・私のせいなの”

 

師走の慌しい中、石橋警部補は釜ケ崎の居酒屋を丹念に調べ上げ、事件発生の2週間後、ようやく村田保治と飲み歩いていた“みっちゃん”と呼ばれる男の所在を突き止めた。

その男がミナミのキャバクラ・ホステスと同棲していると聞き込み、石橋警部補は部下の刑事・小山巡査とともに我孫子観音近くの安普請のマンションを訪ねた。

ピンポーン、ピンポーン

「ハーイ、どちらさまですか?」

「○○宅配便です」

「ちょっと待ってね」

ギシギシと蝶番が鳴り、鉄扉が少しだけ開けられた。

扉が開いた瞬間、小山刑事は膝から下の脚を、グイと扉の内側に差し込んだ。

「こういうもんだが、小西は居るのか?」

警察官という証明書を提示しても、スッピンのまん丸顔をした女は驚かない。

「あいつなら、ここ暫く顔を見せないよ。何か金蔓を見つけたと言って、出て行ったきり帰ってこないわよ」

「そうか、もし帰ってきたら、大正署に出頭しろと伝えてくれ」

女の言い分を信用したわけでもないが、石橋警部補と小山刑事は大人しく引き下がった。

地下鉄とJR線のほぼ真ん中に位置するこの付近は、交通の便が良いところから水商売関係者が多く住む。

「ちょっと厄介だな、この付近で張り込むのは」

「放置自転車、それに買い物客、それにあの女、化粧すれば別人になりそうですね」

スーパーの買い物客で溢れる狭い道路を見て嘆く石橋警部補に、部下の小山刑事も相槌を打った。

「みっちゃんの名前は、小西光生、あいつは必ずあの女の部屋に居る」

「応援を要請しましょうか?」

「イヤ、泳がそう。あいつの行く先は判っているから、今日のところはこれで引き上げよう」

引き上げることを指示した石橋警部補の瞳に、暗い翳が過ぎったことを小山刑事は気づかなかった。

 

“500万円を用意して、月曜日午後8時、地下鉄四つ橋線難波駅A2出口で待て”

虎の子の定期預金300万円を解約した明菜は、家路を急ぐ通勤客の邪魔にならないよう出口の壁に身を寄せた。

そんな明菜の肩を、背後からポンポンと叩く男が居た。

「カネを持ってきたか?ここでは話ができないから、あそこに行こう」

父親が“みっちゃん”と呼んでいた男は、道路に面して建つ妖しげなホテルを指差した。

異性関係がまったくないと言えば嘘になる明菜だが、示されたホテルを見上げた瞬間、おぞましい気分に襲われた。

が、明菜の贖罪意識がその感情を抑え、慌てて男の後を追った。

男は手慣れた様子で部屋のカードキーを受け取り、モジモジする明菜の肩を抱えて201号室に入った。

「カネを持って来ただろうな?」

「私に用意できるのは、これだけです」

用意していた封筒を、明菜は男に渡した。

「・・・・足らないぞ、俺は500万円と言っただろう」

「許して下さい、今の私には、これが精一杯なんです」

「今夜のところは、これで勘弁してやるが・・・・別嬪なあんたなら、一晩で2〜30万ぐらい、直ぐに稼げるぜ。ボン、キュ、ボン、その身体なら、幾らでも客が付くからな。

手始めに、今夜は俺が買ってやる」

男は帯封を破り、

「服を脱げよ、早く!」

と、十数枚の紙幣を明菜に投げつけた。

男から指摘されたように、明菜のスタイルは同性が羨むほどのものだった。

カネを投げつけられ、屈辱感に苛まれながらも、明菜はジャケットを脱ぎ、ブラウスのボタンを上から順番に外していった。

ブラウスを脱ぎ、ブラジャー姿になった明菜の背中が、壁一面の鏡に映し出され、蚯蚓腫れに引きつった幾筋もの火傷痕が晒されると、男は一瞬たじろいだ。

その時、いきなり部屋の扉が押し開けられ、「明菜さん、そいつは光利じゃない」と、石橋警部補が飛び込んできた。