転生そして覚醒

 

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阿弥陀ケ峰から西方を眺めれば、真西に西本願寺の伽藍を見ることができる。
旧暦の十八日、吉田神社の禰宜は阿弥陀ケ峰の豊国廟に祈願、その後、正面通りを歩いて西本願寺の御影堂に上がる。
吉田神社の秘儀として、豊臣朝臣羽柴秀頼が自刃した慶長20年(16155月以来、毎月、毎月、欠かさず絶やされることはなかった。
伊勢と近江の境、入道ケ岳の頂きに小さな朽ちかけた祠があり、猿田彦大神を祀る椿大神社の氏子総代の高角氏は、旧暦十八日、この祠に祀られた天鈿女命に猿田彦の復活を祈願することを一族の使命としていた。
この祈願が何時から始まったかは神社の由来にも記されておらず、高角一族の誰も知る由はなかった。
石見・江津の高角山の頂上には隕石が落下したと伝えられ、そこには人麻呂を祭る人丸神社がある。
この神社においても、旧暦十八日には伝承不明の祈願がなされていた。

19832月、この月を境に、各神社における祈願は停止された。

 


この物語の主人公、生駒秀信、この地域の秀才たちが通学する県立濃津高校の三年生に進級したばかりだ。
秀信が三才の時、両親は交通事故で亡くなった。
今にも壊れそうな、日当たりの悪いアパートの一室で、ピーピー泣いていた秀信を引き取ろうとする親戚はいなかった。
秀信の父親が運転を誤り、対向車線を走行していたベンツに激突した、と当時の新聞は伝えている。
軽四貨物自動車とベンツが喧嘩したのでは、軽四が負けるのは当たり前だった。
運転していた父親と助手席の母親は即死、ベンツはフロントが少し痛んだ程度で、ベンツの後部シートに乗っていた男は、世界のトップ・バンカーの一人、当時は前田銀行の頭取、現在は会長として「前田グループ」に君臨している“前田利長”その人だ。
死亡した二人を荼毘に付したのは、木下成信の従兄妹の高山美子で、近在にはこの女性以外に親戚はなかった。引き取り手のない幼児が、孤児院に送られると聞いた前田利長は、不憫に思い秀信を引き取った。
幼い時のことだから、秀信は余り覚えていない。

前田利長は一人息子の利雄に、銀行の頭取を任せていた。前田利雄の性格は、新規のものは好まず、慎重居士のタイプで、無理をしない銀行経営を実践していた。
他の銀行が証券や不動産投機に奔っていた時、前田利雄はそれらに融資することを禁じた。
臆病なバンカーと貶されたが、バブルが崩壊し、多くの金融機関が不良債権の処理に苦しむ中、前田銀行のみが健全な財務体質を誇っている。
不動産や株価が大幅に低落し、投げ売り状態となっていた当時、系列の不動産会社、証券会社などを通じて、それらを買い叩いていた。
愚図、と陰口を叩かれても、儲ける時はしっかり儲けている。
その利雄の妻・秀子は、十八才の時、前田家に京極家から嫁ぎ、二男一女を出産した。
長男は利一、現在は東京大学三回生。

長女は優子、県立濃津高校の三年生で、優子の家庭教師が秀信の養母だ。

それに次男の利成、芳春学院中等部三年生。
養母は生駒通子、一度結婚したが、長男が三才で夭逝し、それが原因で夫婦仲が悪くなり、離婚した。
実家に帰りづらい通子を見かねた秀子は、それならば優子の家庭教師にと、前田家に招いた。
その頃、秀信が前田家に養われることになり、秀信を見た生駒通子は我が子を思い出したのか、どうか判らないが、屋敷内に家を建てることを申し出て、秀信との同居を希望した。
何はともあれ、両親を亡くし、天涯孤独の秀信に母親ができた。
この母親、規格外れの翔んでいる女性だ。神戸女学院大学仏文科を卒業した才媛、茶道・華道・日本舞踊の師範免状、自動車の運転が大好きで「国際A級ライセンス」を持っている。
こんな規格外れの女性に養育されると、孤児の秀信の屈折した気持ちがどこかに消え去っていく。
それに、スタイルが抜群だ。身長172p、体重55s、スリーサイズは886390、突き出た胸、引き締まった下腹部、バーンと張り出た腰、ミニスカートからスラリと伸びた脚、映画俳優やタレントが逃げだしそうな彫りの深い美貌、いつもは結い上げている長い亜麻色の髪、髪を解いて腰まで垂らした姿は、まるでアマゾネスの戦士だ。
養母の生駒通子は、優子には学業から行儀作法まで教えるが、秀信には一切教えず、完全に放任主義だ。
この人たちが、秀信を取り巻いている。そうして、秀信は幼い時からの役目、そう、優子の側を護るボディガードを勤めている。
今日は、秀信が護るべき優子は、生駒通子とともにクラシックの演奏会に出掛け、秀信は独り教室の掃除を押し付けられていた。

県立濃津高校は、毎年、東大や京大という超難関大学に100名を超す現役合格者を出す、この地方では名の通った進学高校だ。
その中でも三年一組は、秀才の中の超エリート揃い。

何故、秀信がこのクラスにいるか、それは、優子と同じクラスでないとボディガードが勤まらない。
クラスメートは、全員、そのように信じているから、あからさまに嫌な仕事を秀信に押し付ける。
入学以来、優子は全校トップという図抜けた成績だが、秀信も10位を下回ったことはない。
優子より高い成績を取ると、あらぬ疑いを掛けられるから、秀信は易しい問題をわざと間違える。
「能ある鷹は爪隠す」らしい。
幼い時からの習性で、秀信は雑用や掃除は嫌がらず、養母・通子から躾けられたお蔭で調理の腕は引けを取らない。
公にはされていないが、秀信と優子は前田利長を始めとして前田家が認めた許婚同士だ。

校舎のスピーカーからは、ビリーヴォーンの“真珠貝の歌”が流れ、校内に残る生徒たちに帰宅を促している。
桧材張りの廊下を秀信が曲がると、数メートル先の階段から英語教師の鳴海恭子が、両手にゴミ籠を持って降りてきた。
秀信も大きな廃棄物を抱えていたから、衝突しそうになった。
「先生、恭子先生、危ないよー」
他の生徒は『鳴海先生』と呼ぶが、秀信はいつも『恭子先生』と呼ぶ。
「はい、はい、あなたこそ、気をつけてね」
「恭子先生、どうしたの?」
「新学期になるとね、色々と書類が多くて。いらないものを捨てに行くところよ」
「そんなことなら、俺がやってやるのに」
「ありがとう、でも、あなたにお願いすると、何か厭らしいこと、要求されそうね。
それはそうと、大きなゴミね!」
「そうだろう、でも、結構軽いから」
取り留めのない教師と生徒の会話だが、教師・鳴海恭子は秀信のことを「あなた」と呼ぶことが習慣となっていた。
この英語教師、そう、鳴海恭子は、世界的自動車メーカーの創業者の曾々孫で、御茶ノ水女子大学英文科をトップで卒業した才媛である。
彼女は小さい時から教師になることを志し、卒業して直ぐ濃津高校に赴任してきた。
筋肉質のスレンダーな体躯ながらも、豊かな母性を示す漲った胸、張り出した腰、健康的な弾力のある大腿、脹脛、脚頚はキューと引き締まっている。
背丈が172p、5pのヒールを履き、結構、ボリューム感に溢れ、身長180pの秀信と歩くと違和感はなく、二人を後ろから眺めれば、仲の良い若夫婦と見間違える。
少しウェーブさせ肩まで掛かるブラウンの髪、卵型の容貌、大きな黒い瞳、はにかんだ微笑みが素敵な女性だ。
今日はホワイトのシルクのブラウス、淡いピンクのツーピース、スカートは教師らしく膝を少し隠している。
スカートから見えている脚は、黒色のストッキングで、容の良い脹脛を魅力的に見せている。廊下の向こう側から来た人たちには「美女と野獣」としか見えない。背丈180p、贅肉のない筋肉質の体型だが、秀信の容貌は醜魁だ。
廊下を突き抜け、秀信と教師・鳴海恭子はゴミ捨て場に到着し、当り前のようにゴミを捨てた。
ゴミ捨て場にある大きな桜は散り始め、秀信と女教師の肩に花びらが舞い落ちた。


「今日は、優子君はいないの」
「そうだよ、お嬢さまは、養母と一緒に出かけたもの」
「あなたね、私の前で『お嬢さま』と呼ばない約束よ」
この英語教師は、秀信の言動には何かとうるさい。
「それは、それとして、あなた、もう進路を決めたの。
あなたのクラスで、進路が決まっていないのは、あなただけよ。
しっかりしなさい!これから、先生の研究室にいらっしゃい。じっくり、聞いて上げます」
葱が、ではなく、鴨が葱を背負ってきた。
鳴海恭子の方から、秀信を誘った。
「はーい、これから俺の悩みを、恭子先生に打ち明けます」
「もう、あなたって云う子は」
「それじゃ、恭子先生、腕を組んで、研究室まで戻ろうよ」
「ばーか、ここは神聖な学校よ。ただ、一緒に歩くだけです」
「学校じゃなければ、腕を組んでくれるの?」
「そうね、あなたが私の恋人ならばね。だけど、残念ね」
「どうして、俺は立派な大人だよ」
「そういうことじゃないの」
「あっ、そうか、先生には立派な婚約者がいたんだよね。男前で、金持ちで、体格が良くて」
「あ、あなた」
「だけどね、先生、あいつはね、あいつの親父と似て、サメの脳みそ、蚤の心臓、それにあっちも小さそうだよ。
それに比べて、俺は不細工で、貧乏で・・・、あいつに勝っているのは、ここだけかな」
秀信は鳴海恭子の掌を握って、秀信の股間に持ってきた。
「もう、すけべー、そんなことばかりしているから、女子生徒に嫌われるのよ」
「それは間違い、俺、恭子先生だけだよ。触るのは」
秀信が少々エッチなことをしても、何故か、教師・鳴海恭子は余り叱らない。
互いの磁力が引き合い、鳴海恭子と生駒秀信は身体に触れ合うような位置を歩く。

「さあ、入って。あなたの下半身の悩みを聞く暇はないからね。
あなたの進路について、キチンと話を聞かせて頂戴。判った」
鳴海恭子は自分の椅子に座り、秀信をソファーに座るように指をさす。
「ねえ、ねえ、恭子先生、恭子先生はどうして椅子に座ると、脚を組むの。
脚を組む女性は、欲求不満だ、って、週刊誌に書いてあったけど」
「それはね、癖だから」
「ねえ、先生、あんな男と別れて、俺の恋人になってよ」
「どうして、私があなたの恋人にならないといけないの?」
「それはね」
秀信はソファーから立ち上がり、いきなり鳴海恭子の肩を抑え、教師である恭子の可憐な唇を奪った。
いきなり教え子に唇を奪われた恭子は、脳漿の奥深い記憶が蘇ったのか、艶やかな瞳の煌きがゆらぎ、オズオズと秀信の背中に腕が回され、豊満な胸を秀信に預けた。
突き出た恭子の胸が秀信の身体に押しつぶされ、秀信の熱い想いが鳴海恭子に伝導していく。
その瞬間、秀信の目から火花が散った。
恭子の右掌が、秀信の左頬を思いっきりぶっていた。
しかし、秀信は痛みを耐え、怒りに燃えた恭子の瞳を、ずっと見詰め続けた。
余りにも真剣な眼差しに、恭子の瞳は怒りが静まってきた。
「ねえ、恭子先生、思い出した?」
思い切って秀信は、恭子に問いかけた。
「もう、知らない。今日のことは、私の胸に仕舞っておくから、もう、帰りなさい」
「なんでも胸に仕舞うから、そんなに大きくなったんだね」
「し、知りません。早く、出て行きなさい!」
秀信の試みは、見事に失敗してしまった。
彼を追い出した後、鳴海恭子は大きなため息を洩らし、あの双虹の瞳を思い出していた。

どうして、彼からあんなことをされても、本気で怒れないの。
それに、彼の抱擁に応えてしまうなんて。
あの唇の感触、どこか以前に・・・・

 

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「神様は不公平だな」と自らの境遇に、政次の口からグチがこぼれた。

それを耳にした純子は、床に落ちた消しゴムを拾う仕草をしながら

“何が不公平なの?”

と走り書きしたメモを政次に渡してきた。

 

昭和3848日(月)、県立植埜高校の入学式が午前10時より執り行われた。真新しい制服を装った初々しい男女500名が、体育館に集まった。歴史上経験したことのない人口爆発が大戦後の各国に生じ、日本においても昭和2225年の出生数は1,000万人を超過した。

植埜市の旧市街地は、盆地に浮かぶ台地に発展している。旧植埜城は台地の最北端の十数メートルの崖を活用し、絶壁とも言える石垣を築いている。

天正年間、羽柴秀吉が縄張りした城下町は、細長い短冊状の町割りが並び、南北に数筋の通りが貫き、その左右に魚町、紺屋町、鍛治町、大工町など職業別に区割りされている。植埜盆地の中央に浮かぶ楕円形の小高い台地は、自然の要害であり、町割りは防備より経済性を優先させている。

旧植埜城の二の丸、三の丸は、市役所、裁判所、警察、登記所などの官庁街へと変わり、藩校・馬場の跡には第三中学校が創立され、戦後、学制改革によって県立植埜高校となった。

植埜高校の通用口は大手道に設けられ、北に向かって進むと本丸の石垣に突き当たり、左に進むと植埜城の天守閣に至る。

四月になれば、公園に植えられた百数十本の桜が開花し、全体を桜色に染め上げる。

この地方に存立する21の中学校の成績が優秀な生徒の進学先となり、創立以来、文武両道の高校として幾多の人材を輩出してきた。

下ろし立ての学生服を着ている男子生徒の中で、ひとりだけどこかくすんだ詰襟の学生服を着ている生徒がいた。よく監察してみると、ピッカピッカに黒光りした革靴を履いた生徒のなかで、彼だけがズックの運動靴だ。

彼の名前は稲富政次、決して裕福とは言えない職人の次男坊だ。彼の着ている学生服は、昨春、工業高校を卒業して大阪に就職した兄のお下がりだった。成長盛りの15才、一年前に買ってもらったズック靴は既に小さくなり、高校入学にあわせて父親が買ってきたものだ。

ほとんどの新入生は左手首に腕時計をしているが、当然、彼はしていない。稲富家の収入では、高校に通学させるだけで窮々だから、腕時計なんかは贅沢の極まりだった。

彼の父親・忠興は、銅板を木槌で鍛造して食器や鍋を造る職人。朝から晩まで「コンコンコンコン」と銅板を木槌で叩き、鍋やフライパンなどの調理器具、コップ、花器を造り上げる。

手造りだが「同じ物を造るのが職人」が口癖の頑固な職人だ。

息子夫婦と同居するため東京に引っ越した老女の家を借り受け、旧街道に面した母屋を住居に、裏の納屋を改造して作業場としている。

鍛造の銅製品を扱う問屋から高い評価を受けているが、機械打ちの廉価な製品が出回るので、日々の糧に窮することも多かった。

貧乏な職人一家にとっては贅沢極まりない住宅だが、「空き家にすれば、家が傷む」という老女の計らいで、固定資産税に毛が生えた程度で借り受けすることができた。

母屋の間取りは、一階は旧街道に面して八畳和室が二室、玄関は一間半、通り庭にはオクドさんのある台所、食事を摂る八畳の板の間、そして書院造り八畳の和室がある。二階は八畳の和室が二室、それぞれを兄弟が使用していたが、現在は政次ひとりが占拠している。

注)傘酉地区の建屋の一間は六尺二寸の長さ、いわゆる「京間」

通り庭を突き抜けると、風呂場と便所の建屋がある。田舎なので旧式の汲み取り式便所だ。風呂は五右衛門。鋳鉄製の風呂釜を直火で暖める。風呂釜の底部に木製の底板の踏み板を湯桶に沈めて湯浴みする。

湯沸し用の薪の代用として、稲富家が懇意にしている製材所から無償で木っ端を貰う。月に1〜2回、政次はリヤカーを牽いて製材所に出向き、リヤカーの荷台に溢れるほど木っ端を載せる。持ち帰った木っ端は、釜戸口に合うように切断、鉈で四つ割にするのが、政次の仕事だった。

母屋や納屋の間には三十坪ほどの回遊式庭園があり、旧家の多い旧宿場町の中でも名高い庭園の一つだ。

稲富政次の学力だと、県立濃津高校に楽々と入学できたが、濃津高校に通学するにはバスと電車を乗り継いで約一時間、その通学定期代を支出できる収入は稲富家になかった。

同じような境遇の同級生の高田真治は、前田グループが設立している前田基金から奨学金を受け取り、県立濃津高校に入学を果たした。

しかし、流れ職人の稲富忠興と前田家との接点は薄く、両親からは政次に「自転車で通学できる植埜高校」と言い聞かされていた。

傘酉・旧宿場町から植埜高校までは、往復16km弱。入学当初は、精神的な疲れと肉体的な疲れの相乗効果で、帰宅するとそのまま寝てしまうことが多かった。

しかし、五月の連休明けぐらいから、肉体的な疲れはほとんどなくなり、骨格は固まり、しなやかで強靭な筋肉をまとう肉体へと変化していった。

県立植埜高校の建学精神は「質実剛健」、近在の生徒には自転車通学を認めているが、旧市街地の生徒は徒歩通学と定めていた。

そんな中、旧市街地に住んでいるにも関わらず、ほぼ毎日と言っていいほど自転車で通学する女生徒がいた。

男子生徒の自転車の速度は結構早く、その女生徒を追い抜いて行く。

 

「アイツ、車座町に住んでいるんだろ。自転車をどこに置いているんだろう?」

旧宿場町から自転車で通う同級生の土屋信秀に、稲富政次は質問した。

「何でも、学校近くの内藤医院、あそこと親類みたいだから、そこに置かしてもらっているそうだ」

「ふーん、秀才だと学校も注意しないのか」

女生徒の名前は、町野純子。入学式の一週間前に実施された実力テストでは、英語、数学、国語の三教科ともトップ、社会だけはトップを土屋信秀に奪われた。

政次と純子は、植埜高校一年生500名の生徒の中ではトップを競う間柄だが、妙なライバル心が働くのか、純子は政次を意識的に避けているようだ。

植埜高校の数学と英語の授業は、完全に能力順に編成される。数TB、英TB(当時、普通科は難易度が高いB=授業時間が多い、商業科や工業科などはA=授業時間が少なく、専門教科に時間を割く)は、月曜日から土曜日まで、毎日、授業があり、嫌でも政次は純子と顔を合わせなければならない。

英語教科はグラマー(文法)とリーダー(読本)に別れ、当時、まだリスニングはなかったが、傘酉山地の頂きに占領軍がレーダー基地を設置したため、傘酉地区では米兵との接触が多く、ブロークンイングリッシュで会話する人々も多かった。

町野純子、身長は160cm、スレンダーな肢体、脚が長く濃紺のセーラー服が良く似合う。小京都・植埜市は美人を輩出することで有名だが、それでもすれ違う人々は「アッ!美人」と、通り過ぎた純子の後ろ姿に視線を向けるほどだ。

胸まで届く黒髪は碧に輝き、三つ編みに纏めている。スタイルが良く、容姿端麗、頭脳明晰、それに父親は従業員数百人を擁する企業の経営者。

「神様は不公平だな」と自らの境遇に、ついグチがこぼれた。

それを耳にした純子は、床に落ちた消しゴムを拾う仕草をしながら

“何が不公平なの?”

と走り書きしたメモを政次に渡してきた。

政次と純子の席は、教室の窓側、それも一番後ろだった。板書している教師からは死角、がり勉ばかり集まったクラスだから、純子の動きに気づく級友もいない。

政次がチラッと横を見ると、ツンと澄ました表情の純子が居る。

くっきりとした二重瞼、やや高すぎるきらいはあるが整った鼻梁、魅惑的な唇、明眸皓歯の美少女だ。

“やっぱり不公平だ”

ノートの右端に鉛筆で書き、純子が見えるような位置にノートをずらした。

ベルが鳴り、数学の授業が終わり、それぞれが自分のクラスに戻る。純子は一年一組でそのまま教室に残るが、政次は二組だから教室を移動しなければならない。

『放課後、用事があるから図書室で待っていて』

純子は小声で政次に囁いた。

聞こえたような、聞こえないような、いつも通りに席を立ち、政次は教室を出て行った。

 

一学期の中間テスト前だから、閲覧室はいつもの半分ぐらいの生徒しか居ない。

午後四時前だが、日差しは高く、中庭の明るさが閲覧室の窓際に座る政次を逆光に映し出す。

純子は“彼ってアポロンみたい”と、ふと美術の教科書に掲載されていた古代ギリシャの彫刻を重ね合わせた。

なにやら古めかしい分厚い図書を、熱心に読んでいる。

「何を読んでいるの?」

近づいてきた純子は、政次の背中から声を掛けた。

「うん、吉川英治の三国志」

「ふーん、そんなのに興味があったの?」

「物心がついた時、お母さんに『古事記を読みたい』って言ったら、どこかのお家からマンガ日本史を貰ってきてくれ、その時、数人の男女が兵士に連れられていく場面と、死んだ武将の木像に怖れて逃げ出す軍勢の印象が強く、それが何だったのか判らなかったけど、ようやく三世紀の中国の話だったと理解できた。

だから当時のことを書いた小説が好きだよ」

「稲富くん、今日、これから時間ある?」

「何も予定はないけど・・・・どうして?」

「私の家に来て欲しいの」

「どうして?・・・・・・・おれ、町野さんとそんなに親しくないし」

「先週、水曜日の夜、稲富くんのお家に父がお邪魔したでしょう。ご馳走になったから、母がお礼をしたいから、稲富くんを“家まで案内して”と頼まれたの」

「そういえば、溶接組合の会合があった日、午後八時過ぎ、オヤジが数人の男の人を連れて帰宅し、一時間ほどお酒を呑んでいたなあ」

「父が言うには、稲富くんのお父さんは凄い技を持った人だって」

植埜溶接組合とは、戦後、溶接を取り扱う業者が集まり、アセチレンガスボンベと酸素ボンベを供給する組合を設立したことが始まりだった。

上は数百人の従業員を雇用する企業から、下は稲富忠興の一人親方の職人まで、仕事に溶接を必要とする業者の組合だ。

年一回開催される総会に稲富忠興は欠かさず出席、旧宿場町で鉄工所を営む安曇信雄や配管業の土屋直信らと一緒に出かけ、総会後に催される懇親会を楽しむ。

純子の父親・町野義一は、植埜溶接組合の懇親会で忠興とテーブルが一緒になり、意気投合して稲富家に繰り込んだ。

稲富家を辞した後、土屋直信から「うちのや稲富さんの次男坊が、お宅のお嬢さんと同級生だ」と聞かされ、帰宅後、町野義一は「稲富さんの息子さんにお礼を言っておいて欲しい」と、娘の純子に稲富家での二次会の模様を話した。

英語と数学の授業で隣席の町野純子の父親が、数百人の従業員を雇用する“町野伸銅”の社長に就いていることは、政次たちの一年生の中では周知だった。

町野家は旧市街地の東端の車座町にあり、ちょうど帰り道に当る。

「良いよ、町野さんのお母さんに挨拶して、それから帰るわ」

これがキッカケとなり、稲富政次と町野純子の二人は、放課後、図書室で時間を過ごし、日ごとに親密度を増していった。

六月下旬、ミス植埜高校と崇められる下山恵子、その彼女と下級生の土屋信秀が親しくすることに嫉妬した応援団長の高見京介は、信秀に集団リンチを加えるという事件が発生した。応援団顧問の山田教諭の隠蔽工作と信秀の両親が穏便に済ますことを望んだため、さほど大きな事件に発展しなかった。

ざわめきが沈静化した一学期の期末テストの最終日、「今日、うちに遊びに来ない?お母さんが稲富くんの誕生日祝いをしたいって」と、純子から政次に誘いがあった。

放課後、図書室で二人が親密に会話していることは周知の事実で、一組の純子が二組まで来て政次に話し掛けることは、さほど不自然なことではなかった。

「うん、良いけど・・・・でも・・・・」

口ごもった政次は『靴下に穴が開いているから家には上がらないよ』と、小さな声で純子の耳元にささやいた。

「そんなこと、だったら靴下を脱いでおけば良いでしょう」

いとも簡単に却下されてしまった。

旧市街地の生徒が自転車通学することを嫌がる政次の意を汲み、純子は自転車通学を自粛していた。

二の丸跡に建つ植埜高校から車座町までの約20分、政次は純子の歩く早さに合わせて自転車を押すことになる。

高校生が交際することは珍しくない時代になっていたが、七月上旬、梅雨の晴れ間は五月晴れ、昼過ぎに連れ立って歩くことは憚れた。

美少女の純子と連れ立って歩くことは嬉しくても、思春期特有のテレが政次の歩みを早くする。

歩くだけでも汗が噴き出すのに、政次は自転車を押しているから、なおさら暑さがジンジンと押し寄せて来る。

町野家には何度か訪れたことはあったが、いつも大扉前で用件を済ませていたから、屋敷の中に入るのは初めてのことになる。広大な敷地は武家屋敷のままの漆喰白壁塗りの塀に囲まれ、大扉の両脇には門番や使用人が住んでいた長屋棟があり、江戸時代、城代家老に就いていた町野家の格式を今に伝えている。

町野家は市街地の東端に位置し、東から攻め入る敵勢を食い止める砦の役目を果たすため、崖下から十数メートルの石垣が設けられ、その姿は天正時代の威容を残している。

大扉の両脇には潜戸があり、普段はこの小さな扉を利用して出入りする。

現在、長屋棟には運転手夫婦と雑用係の老夫婦が住んでいる。

いずれにしても流れ職人の息子風情が出入りできる家格ではなく、常に政次は一線を引いて純子の両親と接してきた。父・忠興が旧宿場町の生まれでないため、政次は郷社の祇園祭の山車に乗ることは許されず、「どうして?どうして?」と、母親を困らせたこともあった。

小さい頃から何かと「他所の子、他所の子」と同年輩の子らから侮蔑されることが多く、小学校、中学校とトップクラスの成績を修めても、「カンニングしたんやて」と陰口を叩かれることも多い。

だから、傷つく前に身を引いておく、という臆病な気質を持ち合わせていた。

純子との仲もそうだった。

いくら親密度が増しても、政次は純子の手すら握らない。

そんな政次の態度が、純子は物足りなさを覚える。

太陽族を描いた日活の青春映画の中では、大胆なシーンが出てくるが、それは映画の世界だけであり、実際、保守的な風土の植埜市界隈で若い男女が手を繋いで歩くだけで不良扱いされてしまう。

「政次くんは、将来、どこの大学に進むつもりなの?」

純子の母・聖恵は、何気なく質問してきた。

「はい、学資が要らず、逆に給与が支給される防衛大学校を第一志望にしています」

「そうなの、しっかりしているわね」

当時、鬼子扱いされていた自衛隊の幹部候補生を養成する大学に準じる学校だ。

悲惨な戦時経験者が多く保守的な植埜市近辺においても、自衛隊に入隊する青少年はほとんど存在しなかった。一年を通じて1〜2人が自衛隊に入るが、その入隊者は少々知恵が回りかね、いわゆる中小企業においても採用されない青年だった。

「そうしたら政次くんは、将来、自衛隊に入るの?」

「そこまで考えたことはありません」

防衛大学校を卒業した後、自衛隊への奉職を拒否するという「任官拒否」しても、在学中に支給された給与を返還する義務はない。

図書室で閲覧した「赤と黒」、ジュリアン・ソレルに似た境遇の稲富政次は、自らの向学心をかなえるために手段を選ばない。

困窮家庭の稲富家では味わえないサーロインステーキが用意され、初めて手にしたフォークとナイフの使い方を純子に教わり、ぎこちない手つきながらも200gの肉塊をペロリと平らげた。

「流石、若い男子ね。用意した甲斐があったわ」

純子の母・聖恵は、純子が見初めた政次の食欲に感心した。

傘酉牛の始まりは、江戸中期、前田家が但馬から基礎牝牛として三十頭を購入し、生まれた牡牛を農耕に使役するだけでなく糞尿を肥料とするためだった。

戦前、傘酉地区の自作農家は四町歩前後、小作農家は二町歩前後の田圃を耕筰していた。

だから、鋤を牽く役牛は農作業に必要不可欠な家畜で、傘酉地区の農家では、家屋の玄関横に牛小屋を設けて家族同様に育てていた。

昭和三十年代の後半、耕耘機の普及により牛は不要な家畜となり、傘酉地区だけで二千頭ほどいた牛は百数十頭まで激減した。この状態を危惧した前田利通(利長の父・先代当主)は、前田牧場で肥育していた牝牛の預託制度を始め、農家の肥育技術の継承と育成に尽力した。

植埜市の郊外、台地の南東部の崖下に川が合流する三角州があり、そこに牛の屠殺場と解体処理場がある。その近く荷車を牽いた牛が通ると、一歩も動かず立ち竦むという。

但馬から購入した牝子牛を一年間にわたり、近在の肥育農家に預け、その後、二年間ほど自然豊かな前田牧場で放牧肥育する。

起伏に富んだ牧場で育った牛は、黒毛和牛の旨味といえる脂肪の刺しがなく、健康的な赤身肉が進駐軍兵士たちから好評を得ていた。

純子の母・聖恵から誕生日祝いとして昼食をご馳走になり、恐縮しながら町野家を辞そうとした時、

「そうそう、稲富くん、ちょっと届け物を頼まれてくれないかしら?」

と、紫色の風呂敷に包まれた一尺四方のものを聖恵は出してきた。

「これは?」

「割れ物じゃないから、自転車の荷台にくくり付けても大丈夫よ」

「どこにお届けすれば?」

「前田本家の藍子さんに届けて欲しいの」

「でも・・・・僕のところはお屋敷とは一切関わり合いがないから」

「だから頼むのよ。前田本家と知り合いになっておけば、色々と都合の良いことがあるから」

「判りました、今日の帰りにお届けします」

「藍子さんに、『町野聖恵さんからのお届けものです』って、直接、手渡すのよ」

「でも取り次いでくれないかも?」

「大丈夫、藍子さんは私の従姉妹だから」

渡り職人の稲富忠興と前田本家に接点がなく、娘の交際相手の稲富政次が前田基金の奨学資金をできないことを知った聖恵は、前田利長の伴侶・藍子と姻戚関係であることを利用した。

政次が前田基金の奨学生になれば、娘・純子と同じ大学に進学することが可能となるはずだ。

 

七月二十四日、傘酉地区の宿場町では、郷社・須佐神社の祇園祭の宵宮に三基の山車に多くの提灯をぶら下げて巡行する。

よそ者の稲富家は祭りの役務は課されないが、山車の牽き手として参加しなければならない。

山車の二階には、小学生三人の鐘、中学生二人の太鼓、高校生三〜五名の笛、これらの囃し手が乗り込むが、流れ職人の息子・政次はお呼びじゃない。

宿場町以外の在所に住む友人らと夜店を冷やかしていたら、「アレッ!!あの子、町野純子じゃないの?」と、植埜高校に通う友人が政次に問い掛けてきた。

前田本家の一人息子・利雄、濃津高校に通う高田真治(政次と同級生)、夜目にも鮮やかな大輪の朝顔を染め抜いた浴衣着の町野純子が、屈強の牧夫たちに守られて須佐神社に向かっていた。

「そうだな、町野だな」

相槌を打った政次は、友人から背中を軽く突かれた。

「オマエと町野が付き合っていることは、高校中、知れ渡っているよ。遠慮せずに、あいつらと一緒に神社まで行ったら」

「イヤ、止めておくよ。あっちは気づいていないようだから」

宿場町の街道は狭く、民家の軒下を借りている夜店の売台が道まではみ出し、幅が一間半(2.7m)の山車が通るのが精一杯だ。

すれ違うと、イヤでも純子と視線が交差する。

ツンと澄ました純子は、軽く会釈しただけで通り過ぎた。

ワイワイ喋りながら歩いていると、祭り見物に帰省していた兄・忠利と出会い、「お袋が家に帰って接待しろって」と政次に命令口調で強制してきた。

「判りました」

植埜高校への進学に際しては、兄・忠利が父親を説得しただけでなく、毎月毎月、小額とはいえ学資を送金してきてくれるから、兄の言葉に政次は従う。

接待といっても、玄関の軒下に置いた床机に座っているだけで良い。宵宮、須佐神社に参拝する人たちが、ちょっと休憩できるように、床机を軒下に用意するのが、宿場町の慣わしだった。

休憩する人は知り合いばかりだから、寄ってくれた人には冷えたサイダーか麦茶を出す。それに稲作地帯のど真ん中だから、多くの蚊が集まってくるので、金鳥蚊取り線香を幾つも焚く。

街道に面した部屋の連子格子を外し、座敷を開放して接待する家々も多いが、新参者の稲富家ではそこまでしない。

父・忠興の鍛造した銅製品を愛用、若しくは修理に出してくれる家庭は多く、両親に代わり製品を届ける役目の政次は、「偉いなあ、勉強が出来るだけじゃなく、家の手伝いを嫌がらずに」と、本心はどうか判らないが褒められる政次だった。

小一時間経った頃、町野純子は裾が乱れるのを構わず、下駄をカタカタと鳴らしながら急ぎ足で近寄ってきた。

「政次くん、ちょっとお便所を貸してくれる」

「台所にお母さんがいるから、案内してもらって」

須佐神社の本殿で参拝を終えた頃、突然、尿意を覚えたそうだ。

「町野さんは、俺が送っていくよ。高田は利雄坊ちゃんと先に帰ったら」

政次は高田真治にそう伝え、町野純子を責任持って前田本家まで送り届けることを確約した。

二階の自分の部屋から山車の巡行を、どうしても純子に見せたい政次だった。

乱れた浴衣を政次の母・優衣に直してもらった純子は、「アレッ?利雄くんは?」と不思議そうな表情で尋ねてきた。

「うん、先に帰らせたよ。町野さんは俺が送り届けるから、安心してゆっくりしていったら良いよ」

居間の上がり框に腰掛けて、純子は政次の母・優衣と様々なことを会話していた。

その内、“コンチキチンコンチキチン”という音が届き、

「町野さん、二階から山車の巡行を見よう」

と、政次は純子の手を握り、二階への階段を上がるように促した。

自然な感じで手を握られ、急勾配の階段を上がり、政次の部屋に案内された純子は

「ワァー!!きれい」

と、開けられた窓から見える三基の山車を飾る駒提灯や見送り提灯に感嘆の声を上げた。

虫除け網戸の向こうを、狭い街道をギシギシときしませながら山車が巡行する。

囃し手たちが乗っている二階部分は、二人の視線のやや下になり、部屋から見ている二人の姿は山車の死角になる。

視覚効果を高めるため、部屋の電球は消している。

豊かな家庭には明るい蛍光灯が取り付けられていたが、貧困家庭の稲富家では夜なべ仕事に必要な作業場だけに蛍光灯がつけられ、住居部分の母屋は白熱電球のままだ。

政次の部屋は、使い古した座卓(縦三尺横四尺)が北向きの窓側に置かれ、西側の壁には手作りの本棚がある。

電柱に設置された防犯灯の光が、座卓に両手を置いて外を眺める純子の顔を浮かび上がらせる。

「本当にキレイだな」

政次のつぶやきを、純子は聞き逃さなかった。

「わたしが?」

純子の左掌の甲に政次の右掌がやさしく置かれ、「うん、町野さんのすべてがキレイ」と熱い想いが伝えられた。