戦後60年目のある法事

 去る(平成17年)8月、戦後間もなく亡くなった私の叔母(ミイ)の60回忌法要がありました。親戚の送別会を兼ねて行ったものでしたが、故人の他、昔の写真を最近の技術で焼き直したものや、夫が書き綴った妻(叔母)についての回想録が披露され、たいへんすばらしく感慨深い法要になりました。先祖の事やその時代のことをこんなに身近に感じたことはありませんでした。

その法要で朗読された回想録を以下に掲載します。  

この回想録は私のいとこ(頼子さん)が、幼少の頃死別して面影の記憶も定かでない母(旧姓中山ミイ:私の叔母にあたる)のことについて父(故人)に頼んで書いてもらったものです。

戦中、戦後の状況がたいへん身近に感じられます。

戦後60年節目の年でもあり今の平和を見つめなおす意味からも、是非皆さんからもご一読いただければと思います。尚、都合により登場人物は仮名、一部手を加えてあります。

昭和四十七年六月十三日 父より


亡 妻 記

私の原戸籍にはこう記載してある。(要約)


中山 三次郎

)長女

    ツマ

 

中山 ミイ
大正二年○○月○○日生

戸籍事項
西蒲原郡黒埼町大野○○番地戸主中山三次郎長女
昭和十四年(私と)婚姻届出同日入籍、昭和弐拾壱年五月拾日
新潟市○○町○○番地ニ於テ死亡、戸主届出、八月拾壱日受付


私が中山ミイと最初に出会ったのは、昭和十三年の五月の初め頃だったと思う。場所は今の日銀新潟支店の下手の田村さんという人の宅であった。知人の紹介で会ってみないかと言われ、その気になって会ってみた。いわゆる見合いと言うものだったわけだが、当時私は数え年で二十八才、ミイは二十六才ということになる。

うす紫のタテ縞の入った涼しげな着物を着ていた印象が残っている。伏目がちな、おとなしそうな人柄だと思った。何を話したか今はもう記憶にない。実家は新潟の郊外、大野の金物屋兼肥料、石油の販売店で近在の農家を顧客とする相当繁盛している店だと聞いた。両親は揃っていて、兄が一人、弟が二人、女の子は彼女一人で相当可愛がられて育ったらしい。

結婚することにして日取りを秋に決めた。結婚まで約半年あったわけだが、その婚約期間中、いっぺんも当人同士会っていない。今から考えるとまことにもどかしいような、ヘンな話だが、当時はそうした風潮であった。

結婚式は同年の十一月二十四日、市内の私の実家で挙げた。高島田、角隠しできたが、お互いかたくなっていたので、よう顔も見得なかった。

当時、私は県の岩舟港修築事務所という所へ勤めていて、岩船郡岩船町(現在村上市へ編入)という人口5千たらずの細長く磯くさい漁師町に下宿住まいをしていた。

新婚旅行などというものはなく、直ぐ二人で岩船町へ行った。「納め屋」という母娘二人暮らしの家の二階を借りて住んだ。小さな町なので、すぐ近所の評判になりミイが表に出ると、近所のおかみさん連中が袖引き合ってうなづき合い、うわさ話の種にしたらしく、当時表に出ることをいやがっていた。

ミイは大野の高等小学校を卒業後、新潟の仕立屋(和裁の塾)へ数年間通い、そこの師範格に達するまでになり、その技術は相当のものだったらしく、将来は自分も弟子をとって教えたいと言っていた。

丁度、下宿先の筋向いに呉服屋があって、お客に頼まれたからと言って和服仕立ての仕事をミイにやってくれないかと申し込んできた。日中ボンヤリとしていてもつまらないし、またお菜代くらいにはなるからとそれを引受け、その仕事振りが、岩船あたりでは群を抜いていたらしく、以後、委託の仕事がちょいちょい持ち込まれ、ちょっとした稼ぎになっていたらしい。天ぷら料理が得意で、事実上手で、よく食わされた。

岩船在住1年あまりで、その間、笹川流れへ二人でピクニックに行った事、瀬波温泉や高瀬温泉へ行ったことなどが思い出にあるが、田舎のこととて二人連れで歩くと、漁村の子供たちがもの珍しそうにぞろぞろ後をつけて歩いて来、追っ払うのがひと苦労だったものである。

翌十四年春頃に妊娠したらしく、その年の暮十二月出産をかねて実家の大野へ帰し、私は一人暮らしとなった。

翌十五年(一九四〇年)二月、大野で茂夫が生まれた。ところが三月、私が西頚城郡の糸魚川土木事務所へ転勤ということになり、このことが大野の実家の人たちをガッカリさせたらしい。何しろ新潟県の端から端へ移るようなものだから、出産直後の産婦に精神的ショックを与えてはと、ミイには当座は聞かせなかったと言う。

三月末、単身で私は糸魚川へ赴き、また下宿での一人暮らしを始めた。しかし六月頃、糸魚川の寺町に一軒の借家を見つけ、ミイと茂夫を呼びよせることにした。

当時、新潟から糸魚川まで汽車で約五時間半、北陸線での日本海沿いに走る汽車旅は、ミイにとっては初めての経験で、どこかひどく遠いところへ行くような気がしたらしく、たしか新潟の母が一緒についてきたのだったと記憶する。

糸魚川は県のはずれだが、街のうらはまっすぐ青い海で渚の白い小砂利が美しかった。近くに高名な相馬御風さんのお宅があり、正月に酒の勢いをかりて一ぺん訪問したこともあった。

中山家の次弟三郎君(後に戦死)、末弟修君(現中山家当主)が遠く訪ねてきた事もある。

翌昭和十六年十一月 頼子が生まれた。この時、産前産後の家事手伝いに中山さんの親戚の桜井さんという人の娘さん(今は何処かへ縁付いていると思うが審らかでない。)が来てくれて、二十日間位糸魚川に居たと思う。

間もなく、十二月八日には、日本は米英と戦端を開き、この糸魚川の町々にも戦時色が満ち満ちて来、物資も次第に窮迫をつげ始めた頃である。

茂夫は一歳半位で立って襖を伝い乍ら、歩き始めていた。

翌十七年五月、ミイの母が病没した。

九月、待望の新潟への転勤が実現して、十月新潟市へ移り住んだ。

新潟へ来てホッとしたせいもあってか、戦時下とはいえ比較的楽しい生活が続いたが、頼子が病気がちで、ミイには気が休まらなかった事もある。そして殆ど二階にばかり生活していたものだから、子供たちが階段から落ちないよう、絶えず神経を使っていた。

だんだん物資統制が厳しくなり、米や魚なども思うにようには買えず、この頃、ミイの沢山あった着物を田舎の農家へ運んで生活物資と換えた事も一度ならずあった。

十八年の暮近くミイは三回目の出産をしたが、真夜中で助産婦が間に合わず、新生児(男であった)は母胎から出るには出たが、直ぐ死亡した。茫然として涙も出なかった。ミイを激励したが、さすがに力落ちして、体が弱った。

私はミカン箱くらいの小さな粗末な木の棺に遺骸を入れて背中に負い、一人で小雪のちらつく砂浜の道を歩いて、下町の浜手にあった火葬場に運んだ。

十八年の秋、ミイの兄が大野で病没、中山家でも不幸が重なった。

戦争がひどくなって、次第に息づまるような世の中になり、食料はじめ、衣料、薪炭など入手が制限され、子供の養育にも困難な時代となったが、こうした中で昭和二十年一月、彰(あきら)が生まれたのである。

新潟の空にもアメリカのB29が現れるようになり、いわゆる疎開さわぎが市民の間にも始まった。

六月頃と思うが、ミイと子供たちを大野の実家中山さんへ疎開させることになり、家財道具をリヤカーに積んで大野まで約十二キロ日射しの漸く暑くなり始めた国道をミイと何回もリヤカーを曳いて往復したものだった。

こうした慣れない労働が、栄養不足のところへもってきて、疲労を高め、後日病気を誘発した遠因になっていたかも知れない。

新潟市の家は空家とし、(当時新潟市民は空襲を予期して、殆ど田舎へ逃れたものが多く、街々の家はガランドウの家が多かった)一家をあげて中山家の二階に移り住み、私は毎日、電車で大野から県庁へ通った。ちなみに(新潟市)東掘の本家も兄弟たちは皆招集され、老父母と兄嫁は割野へこれも家財もろ共疎開していた。

八月十五日終戦。

しかし、米兵が本土へ上陸してくれば、住民にどういう危害を加えるかも知れないという不安から、私一人だけ新潟市へ帰り、妻子は当分大野へ置いた。

十月頃、そろそろ状勢も落ちついたので大野からみんな引き上げて、また新潟市で親子水入らずの生活に入った。二十一年の正月は、物のない粗末な食膳だったが、灯火管制のない明るい光の下で心たのしいものだった。

だが二月頃からミイの身体に変調があらわれ始めた。

疲れやすく、台所の井戸のポンプを上げ下げする度に息づかいが苦しそうになってきた。医者は無理をせず、できるだけ休むようにと言ったが、小さな子たちが居ては、事実上そうもゆかず、はかばかしくなかった。

医者が毎日来て注射をして行ったが、今と違って特効薬はなく、単なる栄養注射だったのである。

そうして三月半ば頃よりバッタリ床に就くようになり、日中の看護と飯炊きを兼ねて、養老院より身寄りのない老婆をひとり頼んできてもらったが、やはり他人にて思うように行かないところもあった。

この病気(結核)には栄養補給が第一と、私はよく勤めを休んで、本町のヤミ市場に卵やリンゴをあさったが、これとても仲々手に入らなかった。一番手のかかる彰は大野へ預かってもらい、面倒をみてもらった。

この頃のことを回想してみると、実にやるせなく、痛恨きわまりない一日一日であったことが胸に沁みてくる。

五月十日、勤めから帰って牛乳をまぜたおかゆ状の食事をスプーンですくってミイの口へ入れてやりながら、いつものように励ましの言葉をかけてやった時、やつれた顔で、さびしく微笑んで、「いろいろすみません」と言った。

その夜、九時近く寝る前に枕辺へ寄って顔をのぞきこんだら既に息絶えていた。あわてて手を取り、ゆすぶって名を呼んでみたが反応はなかった。私はもう床に入っていた茂夫と頼子を起こし枕辺へ連れてきて顔をみせてやり、もうお母さんは死んでしまった、と言いきかせ、そしてしばらくは声を忍ばせて泣いた。雨が絶え間なく軒をたたいていた晩だった。享年三十三才であった。

五月十二日 青山の火葬場で焼いた。

法名は釋尼慈光という。

 

 

今の私たちからすると、一回あっただけで結婚というのは考えられない話です。今はある程度の交際期間があって、何回もデートしてからゴールインするわけですが、この二人は結婚してからデートした。順序が違うだけで今の恋愛と変わりない。「亡妻記」を読むとそんな感じがしてきます。

無用かもしれませんが、以下は私による注釈です。

 


私が西頚城郡の糸魚川土木事務所へ転勤ということになり・・・・・・・ミイには当座は聞かせなかった


岩船町から糸魚川市まで  約230KM   
新潟市から糸魚川市まで  約175KM 
交通機関の発達していない当時では現在以上に遠く感じられたでしょう。
 


二人連れで歩くと、漁村の子供たちがもの珍しそうにぞろぞろ後をつけて歩いて来、


今の若い人には考えられないかもしれませんが、私(昭和37年生)の少年時代もこんな子供たちが居ました。
 


真夜中で助産婦が間に合わず、


昭和18年当時(第2次大戦中)、自動車はもちろん普及していませんし、助産婦さんの足は主に徒歩。妊婦さんが産気づくと多くの場合、若い衆を頼んでリヤカーを曳いて助産婦さんを迎えに行くなどしていたそうです。
 


本町のヤミ市場


新潟市本町は今も毎日市が立っている場所です。新潟市民には身近です。
 

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