育てることの難しさを思う
人は、誰かを指導する立場にたったとき、
まるで自分が突然えらくなったかのような錯覚に
陥りやすいのではないだろうか。
わざわざ教えてやっているんだという傲慢な態度になったり
こんなこともできないの?こんなこともわからないの?と
相手を見下してみたり
なんでこんなことまで教えてやらなきゃいけないんだと
相手をなじってみたり。
じゃあ訊くが、あなたは今もてる知識や技能を
どうやって身に付けてきたというのか?
何も出来ない赤子のような状態から、同じように先達の指導を受けて
ようやく今のその状態まで成長させてもらってきたのではないのか?
「そんなことはない。私は自分ひとりの力で努力してここまできたのだ」
と、本気で思っている人がもしいるのなら
そいつはよほどおめでたい奴なのだなと思う。
自分がどれだけ周りの人に見守られ、支えられて
育てられてきたのかもわからないような恩知らずか、
さもなくば、自分が思うほど自分に能力があるわけではないことを
自覚できていないお山の大将か・・・。
そりゃあ、そこまで自負するだけの努力はあなたもしたのでしょうよ。
でもその努力を実りあるほうへと導き指導してくれた人が
ただの一人もいなかったというのか。
「こんなことは、一般常識レベルでしょう」
確かにそうかもしれない。でもそれを一般常識としてあなたが身に付けたのは
どういう環境の中で学んできたか、誰にどうやって教わってきたか、
振り返ってみてほしい。
礼儀作法も、他者とのコミュニケーションも、学問的な知識も、職業技術も
生れ落ちたときからすでに、すべてのことを備えていたというのだろうか?
小さいときは親に躾られて、学校で長い年月をかけて学んで
社会に出てからも多くの先輩達に注意や指導をうけて、
そうやって失敗を繰り返しながら学んできたことばかりではないのか?
そんなふうに自分が育ててもらったことを思い返して
今、目の前の相手を、慈愛の眼差しで教え導こうという意識にはたてないのか。
「丁寧な指導」というのは、ただやみくもに詳しくこと細かに説明を並べ立てて、
相手に覚えさせようとするものではなくって
相手に必要なもの、その中でも特に緊急に習得させるべき課題は何かを考えて、
的確に分かりやすくそれを示してあげること。
緊急でないこと、相手の許容量を超えていることには
あえてそれを要求しないで、機が熟すのを待ちながら
小さく小さく手順を踏んで確実に身につくように、見守り、教え、導くという
姿勢に立つこと。それが大事なんではないだろうか。
そういう姿勢になれないから、
「こんなに一生懸命教えてあげてるのに、なんでこんなこともできないの?」
という不満もでるし、「やる気がないんじゃないの?」と相手を責めてしまいたくもなる。
植物1本育てるのだって、適当な時期に適当な量の
水や肥料を与えなければ、過ぎても足りなくても
ちゃんと育たなくて、すぐにかれてしまったりするんだよ。
そういうことに気をつけていくら大事に育てていても、
時が来るまでは花は咲かないんだよ。
ましてや人間一人育てるのに、そんなにいとも簡単に
要求するすべてを身につけさせることができるわけはないのに
要求水準に達しないからといって、
お姑さんが嫁をいびるようなことばかり言って
愚痴をもらしつづけるのは、ちょっと大人気ないんじゃないのかな。
そういう相手をもっと高いレベルに導くことがあなたの役割なのだから
相手の出来の悪さを責める前に、その相手に対して自分の指導は
どれだけ能力に合わせて歩み寄った、きめ細かい指導だったかを
まず反省するべきではないの?
指導の相手がどれだけ成長するかということへの評価は、同時に
あなた自身にどれだけの指導能力があるかを試されているんだよ?
「そこまでして教えてあげなきゃいけないの?」
そう。だってそれが指導者であるあなたの役割でしょ。
そんな常識的なこともわからないの?
・・・同じ言葉であなたに言ってあげましょうか?
教育者としての自戒をこめて。