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唐中宗皇后 趙氏(660?〜688年)new
趙氏は唐左大将軍趙壊(本当は玉編)と唐高祖李淵の娘である常楽公主の娘で、
京兆長安(現在の陜西省西安)の出身。中宗李cとははとこの関係に当たる。
677年、李cは英王に封され趙氏を英王妃に納めた。ときに李c22歳、趙氏は18歳であった。
688年、武后(後の武則天、李cの母親)は自ら「聖母神皇」の尊号を加え、政治的野心を
見せるようになっていった。その年の8月、これに危機感を募らせた趙壊夫婦と越王李貞が挙兵し
武后を除こうとしたが、結局兵は負け首謀者である趙壊夫婦と越王李貞は敗戦を受け自殺した。
趙氏はこの乱に連座させられ、妃の位を廃された上、内侍省に囚われてしまう。その後幾日が
経たないうちに亡くなった。そのとき29歳であったという。
705年、武后により一旦皇帝位を廃された李cが復位したとき「恭皇后」と追謚された。
唐玄宗妃 梅妃(715?〜756?年)new
江采苹は福建ホ(草かんむりに甫)田の出身で、730年頃玄宗の側近高力士が福建から美人を
選び出したときに、姿形が特に優れた女性(江采苹)がいたため、高力士は彼女を連れ玄宗と
会わせた。そのとき江采苹は16歳前後であった。
江采苹は美人であるだけでなく、思いやりがあり更に詩文を善くし、その文才は晋朝の才女
謝道蘊と比較されるほどであった。また梅の花を愛し自らの住居にも梅の木を植えていた。
玄宗はこれを愛し、彼女に「梅妃」と称するようになった。
その後玄宗は楊貴妃を寵愛するようになり、梅妃は住居を移された(寵愛を失った)が、
あるとき玄宗は梅妃との旧情を思いだし、外国から献上された珍珠の一つを密かに梅妃に与えたが、
梅妃は「謝賜珍珠※1」の詩を書き、珍珠と一緒に玄宗のもとに戻した。
「謝賜珍珠」は寵愛を失った妃の嘆きや苦悩を、漢武帝陳皇后が失寵し長門宮へ退去させられた故事に
なぞらえた上で、自分の心情を表したもので、この詩を読んだ玄宗は深く感動したという。
756年、安禄山が長安を陥としたときの混乱で、江采苹は死んだと言われている。ときに約42歳で
あった。玄宗は一旦成都へ落ち延びるがそこで楊貴妃を失い、失意のまま長安に戻ってきた際、
梅妃のことを思いだし百万銭の賞金をかけて彼女を探させたが、結局見つけることは出来なかった。
ある宦官が梅妃の描かれた一幅の掛け軸を玄宗に見せたとき、玄宗はその掛け軸に「題梅妃画真※2」の
詩を作ったという。
後年「玄宗に寵愛されていながら旧・新唐書両書内に梅妃伝がないこと」として梅妃の存在を怪しむ
歴史家がいるが、『全唐詩』『唐詩品匯』などには彼女の作品と小伝が収められており、また『辞源』と
『辞海』にも「梅妃」の項目が立てられている為、これらを見る限りだと彼女はいなかったとは
言いきれないのである。また、京劇にも「江采苹」「梅妃」などの演目がある。
ご参考までに※印のついた作品を掲載します。管理人の文才が無さ過ぎて訳せませんでした〈泣〉。
※1「謝賜珍珠」
桂葉双眉久不描 残妝和泪汚紅(糸肖)
長門尽日無梳洗 何必珍珠慰寂寥
※2「題梅妃画真」
憶昔嬌妃在紫宸 鉛華不御得天真
霜(糸肖)雖是当時態 争奈嬌波不轉