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タイトル五姓格別説
記事No1326
投稿日: 2011/12/07(Wed) 17:10:12
投稿者桃青
唯識には五姓格別説というものがある。
一般人には、唯識は大変人気があるが、僧侶に唯識の話を振ると、
あまり感心しないように言葉を濁されるか「唯識の全てが仏教界で受け入れられているわけではありません。」と、言われることがしばしばあった。
何故だろう?
と、訝しく思っていたが五姓格別説を知って、なるほど、このあたりのことを言っていたのかと疑問が解けた。

タイトルRe: 五姓格別説
記事No1327
投稿日: 2011/12/08(Thu) 12:37:36
投稿者修業者
唯識には、「五姓各別」と言う考え方があり、衆生を5段階に区別し、仏性を持たない衆生があると言う考え方をしています。

五姓とは、
・菩薩定姓
・独覚定姓
・声聞定姓
・三乗不定姓
・無性有情姓
ですが、これらは人間の素質的な違いを分類したもののようです。

「無性有情姓」とは、成仏できない人のことで、今の民主党の政治家のように、出世、地位、権力、及び財産の亡者に成り果て、その獲得に一生かけてしまう無仏性の人間なのです。
成仏できないといえば、一闡提が上げられます。
しかし、涅槃経の前半部では成仏できない者とされていますが、後半部で一闡提でも仏性が有るので成仏できる可能性はあると説いています。
だけど、唯識の「無性有情姓」は仏性が無いので、どんなにあがいても仏にはなれないのです。

修業者の感覚ですが、現在の日本には、「無性有情姓」の人間が二割近くいるような気がしてなりません。私もその一人ですが。(笑)
唯識が、どうして「無性有情姓」の存在を認めたのか、非常に興味のあるところです。

タイトルRe^2: 五姓格別説
記事No1328
投稿日: 2011/12/09(Fri) 00:06:56
投稿者慎之輔
確かに声聞にしかなれないとか、仏にはなれないとかあるのかもしれませんね。プロ野球の選手なんかみると、この人はピッチャーになるために生まれてきた人とか、バッティングセンスは天性のもの。という人がいます。今生での努力、本人の努力だけでは限界が確かにある。
でもその環境や遺伝や全てのつながりを考えると、やはり縁で人はできている。両親、家庭環境、学校、すべての環境を整えたらやはり人は別の人格になると思う。人の一生を今生限りで考えるなら、五姓格別説も正しいのでしょうが、久遠の命と捉えるならいつか仏になる可能性は否定できないでしょう。
仏種は縁によっておこる。とはやはり正しいと思います。

タイトルRe^3: 五姓格別説
記事No1329
投稿日: 2011/12/11(Sun) 14:56:23
投稿者修業者
仏教用語に「劫」という言葉があります。
「劫」とは、四十里四方の岩山に100年に一度天女が舞い降り、透き通るような薄い羽衣で岩をサラッとなでて飛び去ります。
それで、岩山が磨耗してなくなってしまうのにかかる時間なのです。

唯識は、悟る(仏になる)のに三大阿僧祇劫(3劫)の時間がかかると説いてます。
確か、阿弥陀様も宝蔵比丘として3劫の修行をしたと仏教書に書いてあったと思います。
> 五姓格別説も正しいのでしょうが、久遠の命と捉えるならいつか仏になる可能性は否定できないでしょう。

慎之輔さん、甘い甘い、「どんなに善行を積み、仏道の修行しても悟れない人がいる」、というのが唯識仏教の立場なのです。
「無性有情姓」の人は、悟りにいたらしめる無漏種子を本来的に持っていない、すなわち仏性がZeroなので、Zeroにどんな年月をかけて乗算(×)しても、Zeroなのです。
この思想は、キリスト教やイスラム教の予定説に似ていますね。

> 僧侶に唯識の話を振ると、あまり感心しないように言葉を濁されるか・・・

日本仏教を修行されたご僧侶は、ここらへんが、唯識が劣った教えだとされる所以なのではないでしょうか。
唯識では、誰が無性有情姓なのか仏にしか分からない、としています。

タイトルRe^4: 五姓格別説
記事No1330
投稿日: 2011/12/12(Mon) 10:07:34
投稿者 慎之輔
> 慎之輔さん、甘い甘い、「どんなに善行を積み、仏道の修行しても悟れない人がいる」、というのが唯識仏教の立場なのです。
> 「無性有情姓」の人は、悟りにいたらしめる無漏種子を本来的に持っていない、すなわち仏性がZeroなので、Zeroにどんな年月をかけて乗算(×)しても、Zeroなのです。
> この思想は、キリスト教やイスラム教の予定説に似ていますね。

僕は唯識仏教は方便の教えであると思っています。
難しい理屈を聞くと人はなんでも、正しいのかな?と思ってしまいます。
難しいこと知っているから正しいとは限らない、理論的だから正しいとは限らないですね。

タイトルRe^4: 五姓格別説
記事No1331
投稿日: 2011/12/13(Tue) 00:42:50
投稿者桃青
>
> 慎之輔さん、甘い甘い、「どんなに善行を積み、仏道の修行しても悟れない人がいる」、というのが唯識仏教の立場なのです。

いや、実はそうでもなさそうです。
現代唯識の大家、太田久紀先生は「無性有情のひと」を現代でいう「俗物」と解説され、
俗物も何かの機縁で俗物の境地から抜け出すこともある。と解説されています。

法相唯識では種子には二つあるというのですね。
本有種子:先天的に備わる種子
新薫種子:後天的に印象づけられる種子
     大乗仏教でいう種子はこちらです。

先天的に有する種子の違いによって、実現できる境地が違う
というのが、法相唯識の教説ですが、
先天的種子だけで、全てが決まるわけでもない。
<三乗不定姓>は、素質が固定していないってされてますし。

タイトルRe^5: 五姓格別説
記事No1332
投稿日: 2011/12/13(Tue) 12:58:57
投稿者修業者
>「無性有情のひと」を現代でいう「俗物」と解説され、・・・

唯識思想の大家の太田先生が、なぜ「俗物」に結びつけたのかよく解かりません。
「俗物」は、煩悩と自我にまみれた俗人を指します。
無性有情姓≠俗物
なのに、俗物の解説をして無性有情姓(仏になれない者)にも仏性があるとするのは、詭弁のように思われてなりません。

唯識の教義は、人の五姓格別は決定的であって、それを変えることはできないと説いています。
そして、無性有情姓(仏になれない者)を立てている点で、全ての人が成仏できる可能性があるとする天台宗と対立しました。
最近では、唯識の解説をNetなどで覗いて見ると、八識や三性を前面に出し、五姓格別説は影を潜めてしまったように思えます。

唯識は、仏教ファンや哲学好きの人に人気がありますが、日本仏教の歴史の中では影が薄く、現在、唯識を教義にしている有名なお寺は、興福寺、薬師寺、法隆寺、清水寺、位しかありません。
これは、五姓格別説の考え方が、修行僧(鎌倉仏教の教祖は、みんな比叡山で天台宗に学んだ)に受け入れられなかったためではないのでしょうか。

【 投稿者により修正されました。】

タイトルRe^5: 五姓格別説
記事No1335
投稿日: 2011/12/13(Tue) 22:11:25
投稿者大悲山
> 俗物も何かの機縁で俗物の境地から抜け出すこともある。と解説されています。

そうではなく、修業者さんの解説のほうが正しいです。

桃青さんが引用された太田先生の文章を、前後を含めて引いてみます。

『 言葉はよくないが「俗物」というのがぴったりだと思う。社会的には地位が高くても、俗物がいる。目立たぬ仕事をしていても超俗の人もいる。人格者といわれる人に、思いがけず俗物がいたり、お坊さんの中にさえ俗習ぷんぷんとした人物があったりするものである。中には、何かの機縁で、そんな境域を抜け出していく人もむろんあるが、仏教の勉強をしても修行をしても、根底的にスカッとふっきれぬ人がいる」(太田久紀著『唯識の読み方』)

無性有情は菩薩乗でも縁覚乗でも声聞乗でも導けないが、人天乗で導ける可能性がある、ということから太田先生は俗物と捉えたのかもしれません。
プラヴリッティ・マールガだけにしか価値を置かないようなことなのかもしれませんね。


> 先天的種子だけで、全てが決まるわけでもない。


いえ、これも↓に引用する修業者さんによる解説のほうが正しいです。
「「無性有情姓」の人は、悟りにいたらしめる無漏種子を本来的に持っていない、すなわち仏性がZeroなので、Zeroにどんな年月をかけて乗算(×)しても、Zeroなのです」

唯識は人の過去や未来を決め付けるようなところがあるような気がします。そういうところがなじめないですねえ。
私は唯識でも陳那とか法称といった人々の説のほうに関心が向きつつあります。
でもよくわかってないのでドコがどう好きなのか自分でも上手に説明できませんけど・・・。
修業者さんなら、上手く解説されるような気がするので、いつか後期唯識を学ぶことがあればご解説願います(^_^;)

追記:PCが故障したので、他所から書き込ませてもらいましたが、エンターキーが壊れてて、文章を書いてる途中で投稿されてしまいましたので削除しておいてください。

タイトルRe^5: 五姓格別説
記事No1336
投稿日: 2011/12/13(Tue) 23:45:41
投稿者桃青
皆様の御解説が正しいとは、思うのですが、
すると、太田先生の御解説には矛盾があるよで、すっきりしないのですが?

タイトルRe^6: 五姓格別説
記事No1337
投稿日: 2011/12/14(Wed) 00:40:21
投稿者大悲山
> 皆様の御解説が正しいとは、思うのですが、
> すると、太田先生の御解説には矛盾があるよで、すっきりしないのですが?

私の引用の仕方がまずかったのかなあ?
何が矛盾なのか理解できません。

太田氏は俗物が無性有情だと決め付けてるわけではありません。
無性有情のひとつとして、ある種の俗物を類推しているのでしょうね。そして俗物がすべて無性有情に属すると言っているわけでもありません。
(余計かもしれませんが、「俗物だから悪い!」と言ってるのでもありません)

タイトル太田久紀先生解説:無性有情
記事No1338
投稿日: 2011/12/14(Wed) 11:07:31
投稿者桃青
> 私の引用の仕方がまずかったのかなあ?
> 何が矛盾なのか理解できません。
>

大悲山さん引用の前段にはこうあります。

「さて、この四種の人たちは、機根・器量・到達点の違いはあるとしても、仏を崇拝し、仏の行を修していくという点で、みな同じように行仏性をもっている。
ところが最後の無性有情は、仏の教えが全くわからぬのである。
おそらく、興味も関心もないのであろうし、修行することもないだろう。
で、この無性有情を極悪人をする見方もあるようだが、現代の感覚からすると、仏教がわからぬ人という程度に考えるほうがぴったりするように思う。
注釈の中で「無性有情は、世間の善」、つまり道徳や倫理で導くといわれているので、道徳的には立派な人もありうるのであろう。

では、仏教がわからぬとはどういうことかというと、それは世間を超越した永遠なるものに、腰の坐ったももの見方が身に付かないことだと思う。
世間的な出世だとか地位だとか、やれ財産だ、やれ権力だとか、ただそれのみに一生をかけてしまう人といってよいだろう。
仏教がわかるということは、そういう世間の価値を超えた永遠の真理に行動の基準がおかれることである。地位や財産が不要だというのではない。ただそれのみを人生のすべてとせぬことだ。
もっと高い、もっと悠久な、もっと動かない世界に心底眼を開くことだ。
無性有情は、それがわからぬのである。
言葉はよくないが「俗物」というのがぴったりだと思う。
社会的に地位が高くても、俗物がいる。目立たぬ仕事をしていても超俗の人もいる。人格者といわれる人に、思いがけず俗物がいたり、お坊さんの中にさえ俗臭ぷんぷんとした人物があったりするものである。
中には、何かの機縁で、そんな境域を抜け出していく人もむろんあるが、仏教の勉強をしても修行をしても、根底的にスカッとふっきれぬ人がいる。
境地が低いのだ。俗物なのだ。みな無性有情だと思う。」


> (余計かもしれませんが、「俗物だから悪い!」と言ってるのでもありません)

解ってますよ〜。(⌒0⌒)/~~~

タイトル太田久紀先生解説:仏性
記事No1339
投稿日: 2011/12/14(Wed) 16:40:08
投稿者桃青
> 「「無性有情姓」の人は、悟りにいたらしめる無漏種子を本来的に持っていない、すなわち仏性がZeroなので、Zeroにどんな年月をかけて乗算(×)しても、Zeroなのです」
>

ここで言われている「仏性」は、唯識の話ですから、唯識の「行仏性」を指しておられるのかな?
と、思うのですが、すると、太田先生の解説とはつじつまが合わないように思われます。

理仏性:
行仏性:

理仏性、行仏性についての太田先生の解説です。

「理仏性は永遠・清浄の真理そのもをさす。
 永遠の不滅の真理であるから、何ものにも汚されることはない。この永遠不滅のものを、真如ともいい、また無為法とも呼ぶ。
 無為とは人為的でないこと、つまり作り物でないことである。
 人間の作為を離れた不変の真理である。宗教的には、仏とか如来と呼ぶ。

 この理仏性と私達の関係は二つある。
 一つは、永遠不変の真理は、有限な私達の存在とは、全く次元を異にするという関係である。
 真理を無為法と呼ぶのに対して、生滅変化する現実の事実としての私達の存在は有為法と呼び、無為法と有為法とは、根源的に異なるものとするのである。
 真理を性、現実を相と呼び、性と相とは永久に一つになることはない。性相永別であるというのが『成唯識論』の基本的立場である。
 言葉を換えれば、凡夫は仏ではない、凡夫と仏の間には、深い断層があるとするのである。

第二の理仏性と人間の関係は、一体であるという関係である。
 第一の全く別だとする関係と矛盾するようであるけれど、そうではない。
 それは、永遠不変の真理は、具体的な現実を離れて、どこか青空の彼方に存在しているのではないからである。

 たとえば「すべてのものはうつりゆく」諸行無常という真理は、具体的には、花が散ったり葉が落ちたりする自然の変化としてあるのであり、人が生まれ死んでいくという個々の人間を貫通しているのであって、それ以外にない。
 「他との関わりを離れた存在は一つもない」諸法無我という真理も、そこに一輪の花が咲き、ここに私が生きているという現実とは別に、どこかにあるのではない。

 この面からとらえると、真理そのものである理仏性と私たちは一体不二である。
 つまりこの面から言えば、一切衆生悉有仏性であり、生仏一如(衆生と仏は一体)である。あらゆる存在は仏に抱かれた存在である。
凡夫は自分で気づこうがつくまいが、永遠の過去から、すでにとっくに仏に抱かれているのである。
 唯識が、悉有仏性というのは、この理仏性の関係においてである。
 唯識の側から見れば、大乗仏教の悉有仏性は、すべて、この面をいうものであるということになる。
 そして、一切衆生悉有仏性のみを主張するのは、この一面のみを強調したものと考えるのである。」

「唯識は、永遠の真理と人間との関係を、二面で捉えなければならないとする。
それを〈非一非異〉という。
〈非一〉は、現実の存在はイコール真理ではないということ、〈非異〉は、真理は現実の中にあるということをさす。
中にあるが一体ではない。性として存在する。つまり〈非一〉の関係が決して消えないのである。

唯識が〈無性有情〉があるといい、他の大乗仏教の学派と一風変った説を出すのは、この〈非一〉の面をより詳細にみるからであるといってよい。それが〈行仏性〉の説となるのである。

〈行仏性〉とは、人の〈こころ〉の中にある清らかな一面をいう。永遠なるもの、清浄なるものを求める〈こころ〉である。仏の教えを聞いたり、深く省察したり実行したりする人の〈こころ〉である。人の〈こころ〉の中のことであるから〈無為法〉ではない。

人の〈こころ〉のことであるから、これは十人十色であって、一律に悉有仏性とはいえない。仏の教えを、強く求め、深く豊かな境地に生きる人もあれば、坐禅は熱心だけれども、人の世話など手も出そうとせぬ人もある。仏教だとか、お釈迦さまだとかいうと、馬鹿にして見むきもせぬ人たちも決して少なくない。

そうした、人間の現実の違いに着眼するのが〈行仏性〉であり、その面からいうと〈仏性〉のあるものもあり、ないものもあるというのである。

この見方は〈理仏性〉の第一の関係、すなわち、永遠の理法と現実とは次元が違ういう立場に基づくことは、もう推察される通りである。

凡夫は汚れており、仏は清らかである。そのあざむくことのできぬ厳粛な事実に絶対眼をつぶってはならぬと唯識はいうのである。
有限・汚辱の自己は、すでに無限。清浄の真理の中にあることは間違いないが、だが、その深奥の哲理によって、避けられぬ自己の死や現実の底深くよどむ汚辱の事実を忘れてはならぬ、としてきしたのが〈行仏性〉説なのである。」

タイトル太田久紀先生解説:五姓格別説
記事No1340
投稿日: 2011/12/15(Thu) 09:12:50
投稿者桃青
「凡夫は汚れており、仏は清らかである。
そのあざむくことのできぬ厳粛な事実に絶対眼をつぶってはならぬと唯識はいうのである。有限・汚辱の自己は、すでに無限。清浄の真理の中にあることは間違いないが、だが、その深奥の哲理によって、避けられぬ自己の死や現実の底深くよどむ汚辱の事実を忘れてはならぬ、としてきたのが〈行仏性〉説なのである。

さて、この立場が具体化されたのが、法相唯識の最も大きい特徴の一つであである五姓各別説である。


五姓とは、
 1,菩薩定姓
 2,独覚定姓
 3,声聞定姓
 4,三乗不定定姓
 5,無性有情
であり、〈有為法〉としての人間の五つの素質的は違いの分類である。
一切衆生悉有仏性という見方は、人間の共通性や普遍性を重視したものと考えるのに対して、五姓各別説は、人間の機根や器量の違いに着眼したものということができよう。

〈菩薩定姓〉は最初から、まっすぐ自利利他の菩薩行を行じる人で、最も勝れた人たちである。そんなところから直往の菩薩と呼ばれる。
〈独覚定姓〉は、独りで悟りを開いていく人たちで、その意味では勝れた素質をもってはいるが、残念なことに、人の世話ができない。自利行のみである。独覚の捨非障という言葉があり、あるいは一向趣寂などといわれるのは、人の世話をせぬ欠点をついたものである。
〈声聞定姓〉は、仏の教えを聞いて一生懸命修行する真摯な人たちで、この人たちも立派な境地に到達しはするが、独覚と同じく、自利行のみである。
〈三性不定姓〉は、三乗とは菩薩・独覚・声聞のことで、不定姓とはその素質が固定していないことを意味する。初めは、独覚や声聞と同じく自利の修行をしていくが、途中で自利自他の菩薩行のすばらしさに気づき、そっちに転向するのである。独覚野道から菩薩の道へ、声聞の道から菩薩の道へと変っていくので、廻心向大の菩薩と呼ばれる。

さて、この四種の人たちは、機根・器量・到達点の違いはあるとしても、仏を崇拝し、仏の行を修していくという点で、みな同じように〈行仏性〉をもっている。ところが最後の〈無性有情〉は、仏の教えが、全くわからぬのである。」

(中略、前掲しました無性有情の解説となります。
 前掲しましたので省きます。)


「五姓をまとめると、五姓はすべて有限な〈有為法〉であり、絶対に永遠無限の真理そのものではないという点で共通である。
その中、菩薩・独覚・声聞・不定の四種の人は〈行仏性〉を持っているが、無性有情は〈行仏性〉を持たない、すなわち無仏性であるということになる。人間の多様性の現実の把握が五姓各別説である。

〈行仏性〉は、このように、人間の機根や器量によってそれぞれ違い、また〈有為法〉であるところから〈無漏種子〉と呼ばれることが多い。〈漏〉とは煩悩のことであるから、〈無漏〉とは煩悩がないということであり、〈種子〉は「生果の功能」で、過去の経験の痕跡であり、現在と未来の自分を作り出す力ということになる。そしてここで、仏性と阿頼耶識とが出会うのである。

阿頼耶識の中に、無漏種子を持つか持たぬかということである。
持っているのが、菩薩・独覚・声聞・不定の人たちであり、持たないのが無性有情である。

ややこしい言葉が並んで、煩わしく思われるかもしれないが、〈有為〉〈無為〉、〈有漏〉〈無漏〉お語を組み合わせて次のようにいう。

(1)真理・真如は、永遠不滅で清らかであるから〈無為無漏〉
(2)仏道を志す清らかな生き方を〈有為無漏〉
(3)煩悩のとりこになっている凡夫を〈有為有漏〉

〈有為〉か〈無為〉かという点からいうと(1)と(2)(3)は切断されており、〈有漏〉か〈無漏〉かを基準にしてみると、(1)(2)と(3)とが区分されることになる。

私たちは、無限の存在になることはできないが、有限の存在の真中で、永遠・清浄の真理に触れることはできる。
〈無為無漏〉にはなり得ないが、〈有為無漏〉にはなりうる。
〈有為有漏〉の私たちが〈有為無漏〉にならねばならぬのである。」

タイトルRe^6: そんなに言い切れるものでしょうか?
記事No1341
投稿日: 2011/12/15(Thu) 10:02:00
投稿者桃青
> いえ、これも↓に引用する修業者さんによる解説のほうが正しいです。
> 「「無性有情姓」の人は、悟りにいたらしめる無漏種子を本来的に持っていない、すなわち仏性がZeroなので、Zeroにどんな年月をかけて乗算(×)しても、Zeroなのです」
>

一般にはこのように解説されていますので、解説としては、これで正しいのだろうな。
とは、思うのですが、太田先生の解説を読みますと、このように言い切ってよいのだろうか、というためらいが生まれ、すっぱりと割り切れないのです。

ここで言われている仏性は唯識でいう行仏性ですが、

別掲しましたように、太田先生は
*〈行仏性〉は、人間の機根や器量によってそれぞれ違う。
*〈有為法〉であるところから、(行仏性は)無漏種子と呼ばれることが多い。
 #〈漏〉とは煩悩のことであるから、〈無漏〉とは煩悩がないということである。
 #〈種子〉は「生果の功能」で、過去の経験の痕跡であり、現在と未来の自分を作り出す力ということになる。そしてここで、仏性と阿頼耶識とが出会うのである。

*(行仏性を持つか持たないかとは)
 阿頼耶識の中に、無漏種子を持つか持たぬかということである。
持っているのが、菩薩・独覚・声聞・不定の人たちであり、持たないのが無性有情である。

*〈有為〉〈無為〉、〈有漏〉〈無漏〉の関係
(1)真理・真如は、永遠不滅で清らかであるから〈無為無漏〉
(2)仏道を志す清らかな生き方を〈有為無漏〉
(3)煩悩のとりこになっている凡夫を〈有為有漏〉

〈有為〉か〈無為〉かという点からいうと(1)と(2)(3)は切断されており、〈有漏〉か〈無漏〉かを基準にしてみると、(1)(2)と(3)とが区分されることになる。

「私たちは、無限の存在になることはできないが、有限の存在の真中で、永遠・清浄の真理に触れることはできる。
〈無為無漏〉にはなり得ないが、〈有為無漏〉にはなりうる。」

と、太田先生は解説されています。
無性有情のひとと言いますが、人である以上、有為であり有漏であろうと、私は思うのですよ。
そして、無漏種子がある、ないというのは阿頼耶識にある、ないの話です。
種子は過去の痕跡、現在がたちまち過去になるのですから、これも無いものは永遠に無いということにはならないのではないか。
太田先生も「〈無為無漏〉にはなり得ないが、〈有為無漏〉にはなりうる。」と、言われてるし・・・。
まあ、そんなことをもやもやと思って、皆さんのように、すっぱり
「仏性が無いものは、どんなに年月をかけてもzeroだ。」
と、私は、割りきれないのです。

タイトル種子
記事No1342
投稿日: 2011/12/15(Thu) 10:27:11
投稿者桃青
ネットでは、唯識の「本有種子」を(個人が)「先天的にもっているもの」と、解説していることが多い。
これも、「仏性との出会いは、阿頼耶識で起きる。」という太田先生の解説とは微妙に違うような気がしてならないのですが・・・。

タイトルRe: 種子
記事No1343
投稿日: 2011/12/15(Thu) 12:54:28
投稿者 慎之輔
> ネットでは、唯識の「本有種子」を(個人が)「先天的にもっているもの」と、解説していることが多い。

「仏種は縁によって起こる」という法華経と相反すると思う。
唯識は好かん。(笑)

タイトルRe^2: 種子
記事No1346
投稿日: 2011/12/16(Fri) 10:27:59
投稿者桃青
> 「仏種は縁によって起こる」という法華経と相反すると思う。
> 唯識は好かん。(笑)

私には、仏種が「先天的に無い」と想定して導きだされた論が、どうも現実現象と辻褄が合わないように見えてしかたないのですよ。

やっぱり法華経のほうが、現実現象の説明に遺漏がなくていいです。

タイトルRe^3: 種子
記事No1347
投稿日: 2011/12/17(Sat) 09:35:15
投稿者 慎之輔
> 私には、仏種が「先天的に無い」と想定して導きだされた論が、どうも現実現象と辻褄が合わないように見えてしかたないのですよ。
>
色即是空の空思想が法華経の根底にはあると思います。
したがって良い縁に恵まれれば成仏の道を歩んでいけると思います。
絶対仏になれないなどということはありえない。
99.99%なれなくとも、0.01%は可能性があると思います。
縁というのは必ずしも、本人への直接的な縁でなくても、両親や先祖に受けた縁であるとか社会的な縁もある。
その縁の原因を探り解決していったなら不可能はないと思う。
唯識というのは、かなり高度な用語を使い、いかにも論理的な雰囲気を装っているが、全ての衆生を救わんというお釈迦様の教えではない。

タイトルRe^4: 種子
記事No1348
投稿日: 2011/12/17(Sat) 23:16:34
投稿者桃青
> 色即是空の空思想が法華経の根底にはあると思います。

唯識にも当然あるのでしょうが、私には、あまり伝わって来ないのですよ。
見る人は見るのでしょうが・・・。

> 唯識というのは、かなり高度な用語を使い、いかにも論理的な雰囲気を装っているが、

種子の論も、
ある現象が起きるのは、ある現象を起こすものがあるからだ。
と、割と単純なことしか言っていないように見えるのです。
それも結局「無漏種子があるかないかは、仏にしかわからない。」
では、ずっこけてしまいます。
言いだしておいてそれはないでしょう。と。

>全ての衆生を救わんというお釈迦様の教えではない。

そ!それが全く伝わって来ないのです。
だからつまらないです。とても。

タイトルRe^4: 種子
記事No1350
投稿日: 2011/12/18(Sun) 21:11:40
投稿者大悲山
> 色即是空の空思想が法華経の根底にはあると思います。

きっと、これに尽きると思うんです。
中観の流れを汲んでいる天台〜日蓮系の教えと、唯識系の、性と相とを別物と捉える「性相永別」の思想の、一見どうでもよさそうな議論が、人間観に大きな違いを生じているように思います。

タイトルRe^7: そんなに言い切れるものでしょうか?
記事No1344
投稿日: 2011/12/15(Thu) 22:05:09
投稿者修業者
唯識は、孫悟空に出てくる三蔵法師のモデルである玄奘三蔵が、天竺(インド)で学び、膨大な資料を持ち帰って、その後の20年弱の人生の殆どをこの翻訳作業に捧ました。

この唯識を教義にした法相宗に対し、天台宗が五姓格別論を非難し、法相宗は、法華経が説く一乗思想は方便だといって激しい論争をしました(三一権実論争)。
天台宗の教義は一乗成仏ですから、その根拠として涅槃経を多用するのは当然ですが、興味深いことに法相宗も涅槃経の前半部にある一闡提不成仏などを根拠として引用したそうです(一闡提の成仏を認める涅槃経の後半部の引用はなし)。
中国でも唐の時代に、法相宗と天台宗との間で論争があったそうで、それが日本に引継がれたのでしょう。

唯識3年倶舎8年というフレーズがありますが、これは倶舎を8年間学び、その上で唯識を3年間学ばなければ、唯識の教理が理解できないということです。
太田先生が何年間唯識を学ばれたか知りませんが、名の知れた仏教の専門家で、唯識関連の本を多く出版されています。
その専門家の書かれた解説の抜粋記事に、ど素人の単なる仏教ファンにすぎない修業者が反論する知識を持ち合わせていません。
ただ、唯識の教義が無性有情姓にも仏性があるというのなら、上記の論争は起らなかったと思います。

閑があったら、太田先生の本を読んで見たいと思います。

タイトルRe^8: そんなに言い切れるものでしょうか?
記事No1345
投稿日: 2011/12/16(Fri) 09:31:30
投稿者桃青
> ただ、唯識の教義が無性有情姓にも仏性があるというのなら、上記の論争は起らなかったと思います。
>

そうですね。
私も、そう思います。

私のもやもやですが、
太田先生の解説を読んでいるうちに、
「先天的に行仏性(無漏種子)が無いものはずっと無い。」と、想定すると、現実の現象とどうも辻褄が合わないのではないか。
と、いう疑問が生じて来て、今は、もやもやしているのです。

それと、唯識では、理仏性に関しては「一切衆生悉有仏性」ですから、初心者も読むであろう(というか、初心者向けの)解説で
「仏性が無いものは、どんなに年月を経ようがが仏性が無い。」
と、解説されることへの「だいじょうぶなのか?」というもやもやと・・・。
特に「仏性とは大いなる愛です。」などと解説されているサイトで、この
「無性有情には仏性が無い」という解説を見かけると、「だいじょうぶなのか?」というもやもや感が・・・。

タイトル皆、無性有情なのではないか?親鸞聖人
記事No1349
投稿日: 2011/12/18(Sun) 14:06:55
投稿者桃青
> 「「無性有情姓」の人は、悟りにいたらしめる無漏種子を本来的
>に持っていない、すなわち仏性がZeroなので、Zeroにどんな年月を>かけて乗算(×)しても、Zeroなのです」

最高位の行仏性を持つ菩薩でも仏ではない。
それは人間には測り知れない「何か」が足りないからであろう。
ならば菩薩もまた何らかの無漏種子を持たないということであろう。
では、仏ではない有限なる存在は全て無漏種子を持っていない。
ということになるのではないか?
皆、無性有情なのではないか?
誰も、行仏性では仏になれない身なのだと、唯識の論理ではそうなるのではないでしょうか?

私も、あなたも皆無性有情なのです。

唯識で言っていることとは、つまりは、そういうことではないのでしょうか?

タイトルRe: 皆、無性有情なのではないか?予定説
記事No1351
投稿日: 2011/12/18(Sun) 23:23:27
投稿者修業者
> 誰も、行仏性では仏になれない身なのだと、唯識の論理ではそうなるのではないでしょうか?

行仏性と理仏性を辞典で引いてみると、
・行仏性: 修行によって仏の本性を得ること
・理仏性: 本来衆生がもっている仏となりうる仏性
とあります。

理仏性があれば、誰でも修行することによって成仏できます(行仏性)。
しかし、無性有情姓の人は先天的に理仏性がないので、どんなに修行しても成仏できないのです。

ここら辺の考え方は、キリスト教の根底にある予定説という思想に似てますよね。
ヴァスバンドゥ(世親)は、西暦400年位に生まれています。
この頃のインドは、ローマ帝国との交易も盛んで、キリスト教の宣教師たちが入りはじめているので、キリスト教思想が唯識にある程度の影響を与えたのではないでしょうか。

【予定説】
人が天国に召されるか地獄に墜ちるのかは、予め神によって決定されており、この世でどんなにじたばたしてもそれを変えることはできないのです。
天国に召されると予定された人は、どんな罪を犯しても神に救済されるが、地獄に墜ちると予定された人は、この世でどんな善行を積んても、地獄に墜ちてしまうという説です。

【 投稿者により修正されました。】

タイトルRe^2: 皆、無性有情なのではないか?予定説
記事No1352
投稿日: 2011/12/20(Tue) 12:17:33
投稿者桃青
>
> 行仏性と理仏性を辞典で引いてみると、
> ・行仏性: 修行によって仏の本性を得ること
> ・理仏性: 本来衆生がもっている仏となりうる仏性
> とあります。
>

この辞典の説明は、少々おかしいのではないかと思われますがどうでしょう?

詳しくは、このスレッドに掲げました太田久紀先生解説の「仏性」を読んでいただければ、と思います。
太田先生は唯識研究の第一人者として、各方面から評価の高いかたです。

理仏性は真理そのものですから、「仏となりうる仏性」という表現は
ちょっとおかしいのではないかと思います。

> 理仏性があれば、誰でも修行することによって成仏できます(行仏性)。

唯識では、「非一非異」「性相永別」ですから、
「誰も仏にはなれない」し「なれるのは菩薩まで」なのですよ。
「行仏性」を、解説しているサイトに、これをきちんを説明していないサイトが多いのが気になります。

> しかし、無性有情姓の人は先天的に理仏性がないので、どんなに修行しても成仏できないのです。
>

先天的に理仏性がないひとはいません。
唯識では、我々という現象を貫く永遠不変の真理(←空のことですよ。唯識の解説で、はっきり言ってるところは少ないですけれどね。)
が理仏性ですから。
唯識で「仏性がない」と言ってる仏性は、「行仏性」のことです。

> ここら辺の考え方は、キリスト教の根底にある予定説という思想に似てますよね。

似てないと思いますが・・・。
行仏性があろうがなかろうが、全員、仏にはなれないし、
行仏性そのものが、現実の人間の行動を観察して、
「あのひとはああするのに、このひとはそうしないのは、何故か?」
に対しての答えを得ようとしたようなところがあります。

> ヴァスバンドゥ(世親)は、西暦400年位に生まれています。
> この頃のインドは、ローマ帝国との交易も盛んで、キリスト教の宣教師たちが入りはじめているので、キリスト教思想が唯識にある程度の影響を与えたのではないでしょうか。
>

違うのではないでしょうか。
キリスト教には、「こころ」を現象と捉えて観察対象にするというところはないし、(キリスト教には内省的なところがない、という意味ではありません、念のため。)
「予定説」は、16世紀カルヴァンが唱えたものです。
 
修業者さんは、私が書いたようなことなど、知り過ぎるほど御存知なのに、真面目な顔して、冗談言わないでください。
真にうけるひとがいたら、こまる。(笑)

タイトルRe^2: 予定説
記事No1374
投稿日: 2012/01/17(Tue) 00:23:32
投稿者三森至樹

> ここら辺の考え方は、キリスト教の根底にある予定説という思想に似てますよね。
> ヴァスバンドゥ(世親)は、西暦400年位に生まれています。
> この頃のインドは、ローマ帝国との交易も盛んで、キリスト教の宣教師たちが入りはじめているので、キリスト教思想が唯識にある程度の影響を与えたのではないでしょうか。
>
> 【予定説】
> 人が天国に召されるか地獄に墜ちるのかは、予め神によって決定されており、この世でどんなにじたばたしてもそれを変えることはできないのです。
> 天国に召されると予定された人は、どんな罪を犯しても神に救済されるが、地獄に墜ちると予定された人は、この世でどんな善行を積んても、地獄に墜ちてしまうという説です。

 たいへん遅くなって恐縮です。予定説について一言。
 修業者さんの言われるような予定説は、確かにカルバンの言っている「二重予定説」です。これは16世紀の神学者カルバンの説なので、予定説が唯識仏教に影響なんてことはありません。
 しかし予定説そのものは、旧約聖書と同じくらい古くからあり、ヨブ記などは神の予定に対する異議を申し立てているとも取れます。人間の善悪と、人間の禍福が釣り合っていないということに対する抗議ですね。
 
 それに唯識の五姓格別説と、予定説とは、どうやっても悟れないという衆生がいるというのと、どうしても救われない人がいるという点で似ているだけで、あまり接点はないようにも思います。
 唯識のほうは素質の問題でしょう。予定論は、神の測りがたい意志の問題です。予定説のほうは、救いは人間の素質云々には全く関わりなく、神の勝手な定めによって、ある人を救いに、ある人を永遠の滅びに定めるというもので、人間のすくわれる素質の民代ではありません。

タイトルRe^3: 予定説
記事No1375
投稿日: 2012/01/17(Tue) 00:44:18
投稿者三森至樹
>
> > ここら辺の考え方は、キリスト教の根底にある予定説という思想に似てますよね。
> > ヴァスバンドゥ(世親)は、西暦400年位に生まれています。
> > この頃のインドは、ローマ帝国との交易も盛んで、キリスト教の宣教師たちが入りはじめているので、キリスト教思想が唯識にある程度の影響を与えたのではないでしょうか。
> >
> > 【予定説】
> > 人が天国に召されるか地獄に墜ちるのかは、予め神によって決定されており、この世でどんなにじたばたしてもそれを変えることはできないのです。
> > 天国に召されると予定された人は、どんな罪を犯しても神に救済されるが、地獄に墜ちると予定された人は、この世でどんな善行を積んても、地獄に墜ちてしまうという説です。
>
>  たいへん遅くなって恐縮です。予定説について一言。
>  修業者さんの言われるような予定説は、確かにカルバンの言っている「二重予定説」です。これは16世紀の神学者カルバンの説なので、予定説が唯識仏教に影響なんてことはありません。
>  しかし予定説そのものは、旧約聖書と同じくらい古くからあり、ヨブ記などは神の予定に対する異議を申し立てているとも取れます。人間の善悪と、人間の禍福が釣り合っていないということに対する抗議ですね。
>  
>  それに唯識の五姓格別説と、予定説とは、どうやっても悟れないという衆生がいるというのと、どうしても救われない人がいるという点で似ているだけで、あまり接点はないようにも思います。
>  唯識のほうは素質の問題でしょう。予定論は、神の測りがたい意志の問題です。予定説のほうは、救いは人間の素質云々には全く関わりなく、神の勝手な定めによって、ある人を救いに、ある人を永遠の滅びに定めるというもので、人間のすくわれる素質の民代ではありません。

 失礼。投稿途中で、キーを押してしまい、最後まで書くことができませんでした。
 神の予定は、人間の救われる素質の問題ではないというところまででした。

 カルバンの予定説の特異なところは、それが「堕罪前予定説」だというところにあります。パウロやアウグスティヌス、ルターの言う予定説は、「堕罪後予定説」というもので、アダムの原罪以後人間は、滅びの運命へと予定されるようになったので、神の意志によってそれは変更可能であり、滅びへと予定された者もキリストを信ずることによって救われるというものらしいです。
 カルバンの予定説はそれとは違い、全知全能の神により、この世の始まる前から救いに予定された者と滅びに予定された者は決定されており、滅びに予定された者は、その滅びにより神の栄光と尊厳を顕すのだということらしいです。とても恐い、恐ろしい説です。
 というわけでカルバンの二重予定説は、キリスト教界全体で支持されているわけではなく、改革派の中でも、反対があるくらいです。わたしももちろん、こういう「暴君的な神」は大嫌いです。 

タイトルRe^4: 予定説:毒麦の喩え
記事No1376
投稿日: 2012/01/17(Tue) 19:04:06
投稿者桃青
三森さん

本年もよろしくお願いいたします。

>  カルバンの予定説の特異なところは、それが「堕罪前予定説」だというところにあります。パウロやアウグスティヌス、ルターの言う予定説は、「堕罪後予定説」というもので、アダムの原罪以後人間は、滅びの運命へと予定されるようになったので、神の意志によってそれは変更可能であり、滅びへと予定された者もキリストを信ずることによって救われるというものらしいです。
>  カルバンの予定説はそれとは違い、全知全能の神により、この世の始まる前から救いに予定された者と滅びに予定された者は決定されており、滅びに予定された者は、その滅びにより神の栄光と尊厳を顕すのだということらしいです。とても恐い、恐ろしい説です。

新約には毒麦の喩えというのがありまして、予定説のようにも読めますが、どうなんでしょう?
最近では、毒麦であっても努力次第で毒麦ではなくなる。と説教される牧師さんもおられるようですが、キリスト教界では、そういう解釈もありということになったのでしょうか?
私は、「努力すれば毒麦であっても毒麦ではなくなる。」
としてしまっては教えとしては、かえって深みがなくなるように思われるのですが??

タイトルRe^3: 予定説
記事No1378
投稿日: 2012/01/18(Wed) 09:40:11
投稿者桃青
>  それに唯識の五姓格別説と、予定説とは、どうやっても悟れないという衆生がいるというのと、どうしても救われない人がいるという点で似ているだけで、あまり接点はないようにも思います。
>  唯識のほうは素質の問題でしょう。予定論は、神の測りがたい意志の問題です。予定説のほうは、救いは人間の素質云々には全く関わりなく、神の勝手な定めによって、ある人を救いに、ある人を永遠の滅びに定めるというもので、人間のすくわれる素質の民代ではありません。

(民代→問題かな?)
以下、勝手な感想ですが、
神の意志は人間に測り難いのであれば、全員が救われるということもあるだろうし、全員が救われないということもあるだろう。
とは、考えないのかな?

タイトルRe: 皆、無性有情なのではないか?親鸞聖人
記事No1357
投稿日: 2011/12/26(Mon) 09:02:23
投稿者桃青
以前、池田小学校事件の被告人は救われるのか、
という論議が起きたことがあった。
当時、山折氏は「救われない。」と、断じておられたが、
ギブソンさん(真宗僧侶)は、
「それは余人がどうこう言う問題ではない。
 あのお人が救われたいと願っているかどうか、やわな。
 救われたいと願うのなら、必ず救われる。」
と、言われていた。

今、ギブソンさんの言葉を振りかえってみれば、
「行仏性」もまた、「救われたい」から始まるのではないか、
「救われたい」から始まる「行仏性」もあるのではないか、
と思う。

タイトルRe^2: 皆、無性有情なのではないか?親鸞聖人
記事No1358
投稿日: 2011/12/26(Mon) 22:56:31
投稿者修業者
「行仏性」がいまいちよく解からないので、閑な時に調べてみようと思います。
親鸞聖人は、若き日に比叡山であらゆる経典を学んだそうなので、唯識も熱心に学んだと思います。

親鸞聖人は、唯識が説く「五姓各別説」に大きなショックを受け、無性有情姓に自らの落ち着きどころを見い出されたのではないでしょうか。
無性有情姓を煩悩具足の凡夫、罪悪深重の凡夫と言い換えて自分の事を慙愧されたのだと思います。

そして、難行を捨て法然上人を慕って易行に自らの仏道生命を賭けたのだと思います。
仏性を持たない無性有情姓でも、弥陀の本願(四十八願)、この中で最も重視されている第十八願(南無阿弥陀仏と唱えれば、極楽浄土に往ける)によって救われると心から信じたのだと思います。

ただ、第十八願にあるただし書きが、気になります。
「ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。」
これは、無性有情姓を指しているのではないのでしょうか?