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タイトル末法とは?
記事No1363
投稿日: 2012/01/06(Fri) 16:57:42
投稿者桃青
日蓮宗では、「末法の時代の行者」の自覚を強調します。
法座でも、講師が「末法の時代に生きる」ことに触れない回はありません。
御聖人の御遺文を聞きなれているものにとっては、
今が末法の時代なのは当然であり自明の理だと疑問を抱いたことなど無かったのですが、
他宗のかたや宗派にとらわれずに仏教を学んだかたからみると、
日蓮宗の者が「末法」「末法」と二言目には言い出すことが、奇異にうつるということを、先日の法座の雑談で初めて知りました。

こんな話題も自由に言いだせる場であることを嬉しく思いましたが、時間の関係で正法、像法、末法について、お互い思うところを
存分に話したとはならなかったことは残念でした。

タイトルRe: 末法とは?
記事No1364
投稿日: 2012/01/07(Sat) 10:22:39
投稿者 慎之輔
> 日蓮宗では、「末法の時代の行者」の自覚を強調します。
> 法座でも、講師が「末法の時代に生きる」ことに触れない回はありません。

確かに「やはり末法だなぁ〜」とかなんでも末法で帰結させる方は多いですね。

> 日蓮宗の者が「末法」「末法」と二言目には言い出すことが、奇異にうつるということを、先日の法座の雑談で初めて知りました。

私も他宗の人間ではないと思うのですが、ある意味不思議に思っていました。
一般的には 釈迦の入滅後、最初の1000年(500年とも)を正法、次の1000年を像法、その後の1万年を末法とする。
のが末法思想で、平安時代から鎌倉時代は中国の歴史書「周書異記」を年表として重んじていましたから末法のはじまりと解釈していたのですよね。
よくこの点を反日蓮の方は言われますが、僕は当時の人々が末法と解釈していた事が重要であり、周書異記が偽書であれ、年代のづれは関係ないと思っています。
ということよりも、そもそも人として生まれた釈尊ご存命の当時も世間は末法であったのではないか?と思います。
現在においても、釈尊と出会い、共に生きている者には正法時代であり、形ばかりの仏教に酔っているもには像法であり、せっかくの教えに出会いながら見失ってしまった者には末法の世界でしょう。
しかし、心に末法を経験して者こそ、ご聖人の教えがジンと来る!
末法の後にこそ、本当の正法が来ると思います。親が信仰熱心でも、この代になれば、形だけの、たとえば法要だけ営むとかの像法となり、やがて、法要もしなくなり、末法となる、末法となれば心の拠り所がなくなり、また、形ばかりの信仰は役にたたづ、心は荒れていく、真に求めた結果、日蓮と出会い、正法の世界となる。
ゆえに日蓮信仰は末法である必要があるのではないでしょうか?

タイトル縦でとらえる、横でとらえる
記事No1365
投稿日: 2012/01/07(Sat) 17:36:03
投稿者桃青
> 確かに「やはり末法だなぁ〜」とかなんでも末法で帰結させる方は多いですね。
>

多いのですよ。
「末法なんだから!末法に生きているのですから!!」
と、話しているうちにだんだんテンションが上がっていかれるかたもおられますし、
常套句や挨拶がわりに「末法ですから」
気恥ずかしげに「末法の世、ということでしょうね。」
末法への思いも温度も人様々のようですが、とにかく多いです。

私も当初違和感を感じていたのですが、馴れとは恐ろしいもので、今では異和感を全く感じなくなったばかりか、
「ああ、たしかに末法だよなぁ〜」
と、時にしみじみ慨嘆するようになりました。

先日の法座で疑問を呈してくださったかたや慎之輔さんのお考えをうかがい、末法の捉え方にも縦の捉え方、横の捉えかたがあるのだな、と、思いました。


> 一般的には 釈迦の入滅後、最初の1000年(500年とも)を正法、次の1000年を像法、その後の1万年を末法とする。
> のが末法思想で、平安時代から鎌倉時代は中国の歴史書「周書異記」を年表として重んじていましたから末法のはじまりと解釈していたのですよね。
> よくこの点を反日蓮の方は言われますが、僕は当時の人々が末法と解釈していた事が重要であり、周書異記が偽書であれ、年代のづれは関係ないと思っています。

これは縦の捉え方ですね。
私は、時間の区切りは問題でなく、縦で捉えます。

> ということよりも、そもそも人として生まれた釈尊ご存命の当時も世間は末法であったのではないか?と思います。
> 現在においても、釈尊と出会い、共に生きている者には正法時代であり、形ばかりの仏教に酔っているもには像法であり、せっかくの教えに出会いながら見失ってしまった者には末法の世界でしょう。

これは横の捉えかたですね。
疑問を呈してくださったかたも、この捉え方でした。

タイトルRe: 末法とは?
記事No1366
投稿日: 2012/01/08(Sun) 23:47:34
投稿者修業者
寒中お見舞い申し上げます
昨年義母と叔父が他界したため、掲示板に新年のご挨拶を控えさせて頂きました。
本年もよろしくお願い致します。

さて末法についてですが、どの宗派にも属さず師も持たず信仰心が全くない修業者には、あまりピンと来ません。(笑)

末法思想というと、浄土教が唱える「厭離穢土欣求浄土」という言葉が思い浮かびます。以前読んだ「往生要集」に書かれていたもので、この娑婆世界を穢土としそれを厭い離れて、阿弥陀如来が造られた西方極楽浄土への往生を切望するという意味です。
これは、末法思想に立脚していたのだと思います。
法然上人の浄土宗や親鸞聖人の浄土真宗などは、念仏により厭離穢土欣求浄土の実現を説いたのではないでしょうか。

> 日蓮宗では、「末法の時代の行者」の自覚を強調します。
末法と日蓮聖人の関係はよく解りませんが、日蓮聖人が唱えた法華一乗の教えが末法思想の影響を受けているように思われます。
ここらの話は、専門家の桃青さんや慎之輔さんにぜひ伺いたいと思います。

タイトルRe^2: 末法とは?
記事No1367
投稿日: 2012/01/09(Mon) 02:08:39
投稿者慎之輔
それはご愁傷さまでした。
本年もよろしくお願いします。

> 法然上人の浄土宗や親鸞聖人の浄土真宗などは、念仏により厭離穢土欣求浄土の実現を説いたのではないでしょうか。

その通りだと思います。鎌倉仏教は全て末法への対処法として説かれたものだと言って良いと思います。

> 末法と日蓮聖人の関係はよく解りませんが、日蓮聖人が唱えた法華一乗の教えが末法思想の影響を受けているように思われます。

そもそも法華経は末法の布教を前提に説かれていると思います。
法華経の安楽行品には「如来の滅後、末法の中においてこの経を説かんと欲せば」
分別功徳品には「悪世末法の時、能く是の経を持たん者は」とあります。
開目抄や立正安国論で引用されている大集経月蔵分には仏法隠没の具体的な様相が説かれており、
それが末法の時代相を示すものとされ、五堅固説=五箇の五百歳の第五白法隠没闘諍堅固の時が末法に相応するとされています。
観心本尊抄が「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」というのも5回目の500年目ということです。
だから末法は大前提なのですが、念仏や厭離穢土欣求浄土のスローガンが末法の混乱した世界からの逃避方法であるのに対して、日蓮聖人の題目や立正安国は末法という混乱から逃避するのではなく、心の持ち方を変える事により個も全体(国)も正法に転換していく教えであると思います。

タイトルRe^2: 末法とは?
記事No1371
投稿日: 2012/01/12(Thu) 10:13:10
投稿者桃青
修業者さん

本年もよろしくお願いいたします。

>
> さて末法についてですが、どの宗派にも属さず師も持たず信仰心が全くない修業者には、あまりピンと来ません。(笑)
>

私も仏教を身をいれて学ばなかったら、そうだったと思いますよ。
その証拠にキリスト教を学んでも、身を入れてないので、
「末日だ」の「ハルマゲドンだ、終末だ」言われても、身に迫っては捉えられませんもの。
(ついでですが、よくキリスト教の終末思想と仏教の末法思想を同じもののように捉えているかたがおられますがそういう捉えかたは間違っていますね。)

なので、身を入れて学ぶと、そういう世界が見えてくるということは、末法の世が見える、終末の世界が見える、ということも
やはり「観」であり「識」なのだろうな、と思います。
であるならば「空」の真理を説く仏教も結局、他の宗教と同じく共同幻想なのか、「空」そのものも共同幻想なのか、
と、迷った時期がありました。

しかし、そうならば、物理も数学も歴史、地理、・・・他の科学も人間同士が共有する共同幻想と言えなくもない。
全て、人間が関わって生まれた知識なのだ。
人間は、幻想を抱いて生きている。どんな幻想を共有して生きるか、によって、社会は生き易くも、生きにくくもなる。
とまあ、思い至って、「宗教は共同幻想に過ぎない。」という評価が怖くなくなりました。
で、よく見てみれば、仏教はちゃんとそのあたりのことも言及しているのですね。
日蓮聖人も解っていらっしゃったということも解った。
それで、仏と日蓮聖人への信頼が迷いのないものとなりました。

なので、私は末法をどうしても時間という縦軸で捉えてしまいます。
実際にお目にかかって教えをうけることができないお釈迦様と日蓮聖人への思慕が時間を意識させるのです。

> 末法と日蓮聖人の関係はよく解りませんが、日蓮聖人が唱えた法華一乗の教えが末法思想の影響を受けているように思われます。

法華経には、お釈迦様が亡くなられた後の世界が描かれています。
現実におられた釈尊への強い思慕を持って書かれたのが法華経だと理解しています。
なので、いつでも、どこでもおられる仏を求める思いが「今、此処」という横の末法思想となるのなら、現実におられた釈尊を求める思いが時間という縦軸の末法思想となるのもまた、有りだろうと思いますが・・・。