タイトル | : 予定説 |
記事No | : 1379 |
投稿日 | : 2012/01/20(Fri) 00:27:53 |
投稿者 | : 三森至樹 |
「五姓格別説」のスレッドが立て込んでいて見難いので、桃青さんへのレスですが、新規投稿として投稿します。
> 新約には毒麦の喩えというのがありまして、予定説のようにも読めますが、どうなんでしょう? 最近では、毒麦であっても努力次第で毒麦ではなくなる。と説教される牧師さんもおられるようですが、キリスト教界では、そういう解釈もありということになったのでしょうか? 私は、「努力すれば毒麦であっても毒麦ではなくなる。」 としてしまっては教えとしては、かえって深みがなくなるように思われるのですが??<
いや、これは予定説とは言えないと思います。マタイによる福音書の中に、その毒麦の話が出てきます。 「天の国は次のようにたとえられる。ある人が好い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお巻きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』」(マタイによる福音書13章)
滅ぼされるべき「毒麦」は、別に主人(神)が蒔いたものではなく、毒麦は「敵」(つまりサタン)が蒔いたものとされています。ということは、神はある人々を滅びるべき毒麦として創造されたわけではなく、毒麦の滅びは「予定」されたことではないということです。 しかしそうは言っても、ここには二つの問題があります。一つはサタンというような、神の全知全能を裏切るような存在が現れていること。神があたかも、敵の出現を予想できない、間抜けな存在であるかのように表現されていること。カルバンは、このような神の全知全能を汚すような考え方に反論しようと、サタンの存在もあらかじめ計算のうちに入れているような神を要求したために、滅びにつながる悪の起源も神自身に求めるような、二重予定説を主張したのです。 もう一つは、人間の相対的な見方では、どれが絶対的な善で、どれが絶対的な悪であるか、毒麦と良い麦の区別はできないということです。それができるとするのは、自ら神の立場に立てるとする傲慢でしょう。だからこのたとえをしたイエスの真意は、「毒麦を抜き集めておきましょうか」と聞いた僕たちに対して、「いや、お前たちは毒麦と良い麦との見分けはできないのだから、お前たちの仲間で毒麦と思われる人たちも退けずに、忍耐して一緒にいるようにしなさい」ということだったのではないかと思われます。 しかしマタイは、今は毒麦も良い麦も一緒にいて、その区別は当面行われないが、そのうち毒麦は仲間から追放されて滅ぼされるときが来るというふうに、イエスの言葉に解釈を加えたので、イエスの本来の意図とは少しずれてきてしまっていると言うことができます。
>以下、勝手な感想ですが、 神の意志は人間に測り難いのであれば、全員が救われるということもあるだろうし、全員が救われないということもあるだろう。 とは、考えないのかな?<
神の意志によって、結局は全員が救われるというのは、カルバンに反対したアルミニウスという人の説だと思います。しかし人間には、自分に不利になることが分かっていても、神に逆らうという、天邪鬼な自由というものがあるので、全員が救われるというわけにはいかないかもしれません。 あるいは全員が救われないとしたら? そのときには、神を神と認める人間がいなくなるということだから、神にとってそれは自殺行為というべきでしょう。人間なしに神はないから。だからノアの洪水のときでも、人間は滅ぼしつくされることはなかったわけです。
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