記事No | : 2126 |
タイトル | : Re^2: 善知識 |
投稿日 | : 2013/06/28(Fri) 19:07:57 |
投稿者 | : 桃青 |
> ああ、ごめんなさい。どうも祖母が始まった時は痴呆症とよく言っていたので
> 認知症とかかなければ、いけませんでした。
主治医の先生が書いてくださった介護保険関係の書類には、「アルツハイマー型認知症」と、書いてあるのですが、ちら、と見えたカルテには「痴呆症」。痴呆の文字には思わず凹みましたよ。
まあ、そこそこ年輩の先生ですから、習った時代の言葉のほうが馴染んでおられるのでしょう。
家族もたぶん本人も「痴呆症です。」と言われるよりは、認知症と言ってもらったほうが、少しは心が穏やかでいられるかもしれません。
> ただ、認知症ではあの凄まじさはよく伝わらないような気がいつもしてます。
確かに。あまりこのように言いたくはないのですが
「経験したものでなくては解りません。」
激しい症状に悩まされている介護者からすれば
「わざと認知症になったくださった菩薩だ、仏だって?あなた経験したことないからそんな事が言えるのですよ。」
ではないでしょうか。
また、「せっかく介護保険があるから、そんなに大変なら使えばいいのにね。」
と、思われるかもしれませんが、介護保険がカバーしてくれる部分は、そんなに多くはありません。
また月5万円程度の国民年金しかないかたにすれば、介護保険を利用しても月10万円前後は掛る費用を払いきれるものではないのです。
正直、介護の大変さに直面しているかたで「わざと認知症になってくだっさった菩薩」と言う言葉が素直に耳に入るかたは、そんなに多くはないでしょうし、そればっかりでは、「認知症は誰もが、なりうる病気である。」という現実を皆皆に忘れさせてしまうことになりはしまいか、と心配になります。
認知症を「誰もがなり得る病気である。」ということを踏まえて、
認知症に関わる問題を我が事として観て行こうじゃないか。というほうが、仏教的な姿勢ではないかと、私は思います。
でも、介護で苦しんでいないような一般の方々には、こうしたほんわかした美しい話のほうが
「なるほど!仏教らしい有り難いお話でした。」と、喜ばれるのも現実です。
だからこそ、法を説く立場の方々には、「認知症は誰でもなりうる病気だ。」ということろから、お話をしていただきたいのですが・・・。
目連尊者の母の話を
「わざと餓鬼道へ落ちた、と捉えて行こう。」
と、相談しているかたがたの耳には届かないかもしれませんね。