記事No | : 2152 |
タイトル | : Re: なんでも良いようにとらえて |
投稿日 | : 2013/07/11(Thu) 10:30:58 |
投稿者 | : 桃青 |
仏教では、仏になって物事を仏眼でみることに少しでも近づくことできるよう修行するわけですが、中には「仏眼でみる=物事を良いようにとらえる」だと思っておられるのではないか、というかたがおられる。
それも一人や二人では無い。
法の集いに来られるかたほとんど全てと言ってもよいかもしれない。
皆さん先輩なので、面と向かって「もしかしてちがうのじゃないの?」と聞けないところが辛い。
正見。
私は、正見のベースは仏教では「空観」とか「無性法忍」だ言われるものだと理解している。
なので、仏眼で見るベースもまた、「空観」を離れては有り得ないと理解している。
が、よく「八正道の正見とは、物事をありのままに正しく見るということです。」
などと説明されるが、何をもってものごとを正しく見るというのか、物事を正しく見たら、そこに何が見えてくるのか、というと、これが悩ましい。
真宗では物事をありのままに正しく見ると「阿弥陀様がおられることに気付きました。」
キリスト教(某M教)では、物事をありのままに正しく見ると「神は存在することに気付きました。」「全ては神の御業であることに気付きました。」
と、なる。
「だって、どうみても阿弥陀様はおられる。」「ありのままに見たら、神様がいないというほうがおかしい。」
両者とも口をそろえて「あなた、まだありのままに見てませんね。」
キリスト教の方々(牧師、神父といわれるかたも含めて)で、禅寺で座禅をして「世界をありのままに見る」という修行を自分に課しておられるかたも珍しくないですが、「座禅を通じて、神の存在を今まで以上に強く感じました。」と言われる。
私は私で、そのような話しをうかがいながら、
「まさに、人間とは空だなあ。無自性だなあ。」と。