記事No | : 2294 |
タイトル | : Re: 仏教(他の宗教も)に求めるもの |
投稿日 | : 2013/11/04(Mon) 00:16:16 |
投稿者 | : 桃青 |
こんばんわ。
> 私たちの人生には様々な楽しいことや幸福があると同時に悩みと苦しみがあります。しかし、どんな幸福や苦悩を抱えていても、突然死に直面すると、それまで抱えていた幸福や苦悩も死の前には泡のように無くなってしまいます。
おっしゃるとおりですね。
何もかもが、「あ、これだけのことだったのか。」になるのでしょうか。
母の姿に接して、人間の一生とは儚いものだなあ。と、日々痛感しています。
あんまり儚さばかり痛感していると、生きる意欲がなくなりそうなので、考えないようにしています。
> 戦国時代に天下を取り、栄華を極めた豊臣秀吉の辞世の句が「「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」でしたから...。
>
天下までとれば、「あ、こんなものか」感もさぞ大きいことでしょうね。
> 死への不安は科学や哲学では解消されないと思います。私たちはなぜ生れて来たのかも分からないし、死んだらどうなるのかも分かりません。それを教えてくれる人は誰一人居ないのです。
そうですねー。
死んで帰って来られたかたはおられませんものね。
と、以前此処でそんな話をしていましたら、キリスト教のかたが、
「それが、ただ一人死んで帰って来たひとがいるのです。
それはイエス・キリストです。
イエス・キリストだけが死後の世界について知っているのです。」
と、書かれたので、それは、すごいて思ったものです。
しかし、実はイエス・キリストも「死後の世界へ行ってみたら、こうだった、ああだった」と、その様子を明確に語っていないようです。
> お釈迦様ですら、人間が死んだ後のことを「無記」と申されて、誰にも解からないことや証明出来ないことは論じても仕方が無いとおっしゃっていたそうです。
>
論じても仕方がないから論じるな。とは、
恐怖をえいやっ!とねじ伏せる感じですかね。
精神力の強いかたなら、それで充分かもしれませんが、そこまで強くないものは、それでは、心を安住させることができません。
> 金儲けに徹したカルト教団の教祖様や自称霊能者が死後の世界を得意げに語っていますが、まったくの出鱈目です。
>
たいていは、死後良いところへ行きたければ、カネを出さなくてはいけないように話が出来てますね。
(カルト教団ばかりでなく、伝統宗教でも似たようなことは行われていますけれども)
> 学問は日進月歩進歩していきますが、この生と死に関する事は永遠に未解決事項なのです。
> そうしますと、「生と死に関する答え」は人間の能力を超えたもので、人間の知識ではとて解決出来るものではないし、人間の言葉で教えたり教えられたりするものでも無いのです。
> だから、仏教にその解を求めたくなるのが、人間の本性なのでしょう。
仏教の場合、無記ですから、心が安らかになり、仏道修行に専心できれば、OKなのでしょうが、私は法華経の「久遠の命」が仏教の「空」に照らしても論理的に破綻のない美しい死生観を説いているのを好ましく思っています。
年をとり、そのうちに母のように、脳のインプット機能もアウトプット機能も壊れてしまったら、どうなるかわかりませんが、今のところは、死んだらどうなるという疑問もなく、心は満足しています。
言葉にできない。と言われるのは、例えば「久遠の命」にしても、
「あ!こういうことか。」というある種の感覚なんですよね。
その感覚を言葉で伝えようとしても、言葉にしてしまうと、なーんか違うんですよ。
言葉にできない。と言われる意味が私は解った。(笑)