記事No | : 2329 |
タイトル | : 此縁性 |
投稿日 | : 2014/03/26(Wed) 16:22:40 |
投稿者 | : 桃青 |
日蓮宗では十二因縁を逆縁で説くのが伝統のようです。
私が身延で聞いた十二因縁の講義も、「こちら(無明)から、観ずるのを順観、こちら(老死)から観ずるのを逆観と言います。どちらから観じてもよいのですが、」
という前振りの後、逆観の説明は念入りであったが、順観については、殆ど説明が無かった、と記憶している。
これは、御遺文の
「先、臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(「妙法尼御前御返事」)
由来で、十二因縁の老死から逆に縁起を観ずることに重きを置いているのかな、と思う。
が、これも此縁性とか、縁起について何も知らないままに聴きますと、単に「死にざまをみれば、そのひとの生涯がわかる。」
という理解になってしまいがちです。
言っちゃなんですが、説く御上人の中にも、そのような単純な因果律での理解を助長するようなことばかり説かれるかたもおられます。
そのほうが、とかく選民意識を抱きがちである人間の賛同も得られやすく、日蓮宗の差別化も計れるからじゃないかと、私は、ひそかに思っていますが。
でもなー。
そんな単純な因果律ばかり、「解りやすく、受け入れられやすいから。」と、説いていると、十二因縁の命題でもあり、仏教の眼目でもある此縁性が伝わらないですよ。
某M教は、キリスト教がアメリカで卑俗化した姿だと評されますが、日蓮宗は仏教が日本で卑俗化した姿だと評される日もすぐそこなのだろうか。なんだか泣きたいような気持になって来る。