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タイトル秩序への憧れ
記事No1449
投稿日: 2012/03/31(Sat) 11:27:15
投稿者桃青
スレッドを変えてみます。

私は、ファシズムを支配者のサディズムと支配者に支配される者の隷属の悦びで説明するのは、どうも納得できないのですが、
フロムの「自由からの逃走」が名著とされ、今も多数の読者を魅了するのは、「ファシズムには、そのような構造は確かにある。」と納得するかたが多いということなのでしょう。

私もある部分を取り出してみれば、確かにそういうこともあるだろう。と、思う。
でも、それは、あくまで一部に見られる様相であって、それでファシズムに人間が集まる全てを説明できるかといえば、そんなことはないだろう。と、思うのです。
そう思う理由は簡単です。
私は、今まで支配に自ら進んで隷属するひとや、やむを得ず隷属するひとは見たことはあっても、そういうひとで隷属することを悦んでいるひとを見たことがないからです。
そもそも人間が普遍的に隷属に悦びを感じるものならば、ひとを支配するのに恐怖政治という手法など必要ないのじゃないでしょうか?

ファシズムがひとを惹きつける要素の一つとして
私は「秩序立って整然と行使される権力」を挙げたい。
ファシズムが呈示する「秩序正しく整然と行使される力」に「美」や「真」を見て、魅了されるのではないか。
秩序だって行使される「権力」に魅了されるひとは、無秩序な権力には魅力を感じない。

現在でも、森羅万象に何かしら整然とした秩序を見出して
「このような完全な秩序をつくれるのは神しかいない。(だから、神は存在するのだ!)」
と、感激するクリスチャンは多数おられます。
私は、
「好きなんだろうなー。システムが整然と進行する様を見るのが」と、思うわけですが、
「システムが整然と進行する様を見るのが快感」なのは、別に彼らばかりでなく、工場で機械が次々と商品を作り出して行くのを思わず見とれてしまったり、時間どおりにきっちりと定位置に車両を止めないと気がすまない、とか、日常「システムが整然と進行するのが快感」な例は、たくさん見ることができますので、人間にはそういう傾向は大なり、小なりあるのだろうな。と思う。

完全なる秩序への強い憧れがファシズムや権威主義を生み、支えて行く。
そんな気がしてならない。

タイトルRe: 秩序への憧れ
記事No1450
投稿日: 2012/04/01(Sun) 16:38:01
投稿者ぽん州

> フロムの「自由からの逃走」が名著とされ、今も多数の読者を魅了するのは、「ファシズムには、そのような構造は確かにある。」と納得するかたが多いということなのでしょう。
>
> 私もある部分を取り出してみれば、確かにそういうこともあるだろう。と、思う。

やっぱり桃青さんも、そうゆう部分もあると納得されるのですね。

> でも、それは、あくまで一部に見られる様相であって、それでファシズムに人間が集まる全てを説明できるかといえば、そんなことはないだろう。と、思うのです。

フロムの分析に対する有力な批判の一つだと思います。少なくとも私は、「すべてを説明できる」とは思っていません。

> そう思う理由は簡単です。
> 私は、今まで支配に自ら進んで隷属するひとや、やむを得ず隷属するひとは見たことはあっても、そういうひとで隷属することを悦んでいるひとを見たことがないからです。

「支配に自ら進んで隷属するひと」の心理分析は、複合的な要因があり、その中で「サディズムとマゾヒズムとの類似性」は有意な因子であるということでしょう。ですから「やむを得ず隷属するひと」とは分析対象が違うと思います。具体的に申しますと、ドメスティックヴァイオレンスや犯罪による拘禁の被害者に対して、「サド・マゾの類似性」を云々してはいないのです。DVの被害者は、止むに止まれない事情、庇護すべき家族(子供とか親とか)を捨てることができないとか、レイプ被害者のように身体的・生理的にいわば金縛り状態に陥って、逃げ出せないことはあるのです。

> そもそも人間が普遍的に隷属に悦びを感じるものならば、ひとを支配するのに恐怖政治という手法など必要ないのじゃないでしょうか?
>

国家を覆う空気のような恐怖というものはあったでしょう。ヒットラーユーゲントのような組織による暴力もあったでしょう。しかし、曲がりなりにもワイマール憲法を持つ民主的な国家が、民主的な方法で国民を隷属させたのは、恐怖政治という手法だけでは考えられないということです。そこには隷属させられた国民=被害者が、他者には加害者となるという「権威主義的パーソナリティー」があったのではないか。ローマンカトリックからの解放は、自由を手にした民衆の戸惑いが自由からの逃走という心理を招き、更なる神の絶対的な権威・神の恩寵という絶対的な隷従を求める宗教的思潮を招いたように、民主的な自由を手にした民衆が、それに戸惑いそして維持に疲れ個の不安の中に、全体に隷属することに安心し、自己のアイデンティティーを見出していった部分もあるのではないかということですね。

タイトルRe^2: 秩序への憧れ
記事No1451
投稿日: 2012/04/02(Mon) 13:14:25
投稿者桃青
> > 私もある部分を取り出してみれば、確かにそういうこともあるだろう。と、思う。
>
> やっぱり桃青さんも、そうゆう部分もあると納得されるのですね。
>

ファシストの集団の中に隷属する悦びを持つ者が複数いても不思議はない。
という意味です。

>
> フロムの分析に対する有力な批判の一つだと思います。少なくとも私は、「すべてを説明できる」とは思っていません。
>

そうでしょう。そうでしょう。
ファシズム、ファシストを全てサドマゾで説明しようとしたら辻褄が合わないこともあります。

>
> 「支配に自ら進んで隷属するひと」の心理分析は、複合的な要因があり、その中で「サディズムとマゾヒズムとの類似性」は有意な因子であるということでしょう。ですから「やむを得ず隷属するひと」とは分析対象が違うと思います。

そこなんですよ。私が納得できないのは。

ファシスト集団を「隷属」で分析しようとする場合ですが、
ファシスト集団には
(自ら進んで隷属するひと)(やむを得ず隷属するひと)(隷属しないひと)が、実際にいるわけです。

すると自ら進んで隷属するひとは、ファシスト集団の一部。
そのまた一部が隷属を悦ぶひと、ということになります。

構成要素の一部のそのまた構成要素の一部を取り上げて全体を論じてもあまり意味がないのではないか。
と、思うのですね。

上のそれぞれのひとの全体にしめる割合は、どのくらいなものかは解りませんが、私の知るところでは人間は隷属する悦びを感じるひとより、支配欲を満足させようとするひとのほうが多い。

全体主義的な集団でも、隷属を悦ぶひとより、全体を統一する価値観を武器として他を支配するひと(支配者、あるいは、支配者の下請け人、あるいは下請け人になったつもりのひと。)のほうが多いだろう。
人々は、全体を統一する価値観を認めるがゆえに、統一価値観を振り回しての支配に不満があっても従わざるを得ない。
そんな構図のほうが、支配による隷属を悦ぶひとより、はるかにはるかに多い、と、私は見ています。


> > そもそも人間が普遍的に隷属に悦びを感じるものならば、ひとを支配するのに恐怖政治という手法など必要ないのじゃないでしょうか?
> >
>
> 国家を覆う空気のような恐怖というものはあったでしょう。
>ヒットラーユーゲントのような組織による暴力もあったでしょう。

そういうことではなくて、
人が普遍的に隷属したがっていて隷属に悦びを感じるのなら、一端隷属させてしまえば、あとは悦んで隷属していてくれるので、
恐怖政治という手法が歴史に生まれることはないだろう。という意味です。
隷属に悦びを感じる者は少数派、大多数の者は隷属したがってもいないし、隷属に悦びなど感じない。
と、言いたかったのですが・・・。


>しかし、曲がりなりにもワイマール憲法を持つ民主的な国家が、民主的な方法で国民を隷属させたのは、恐怖政治という手法だけでは考えられないということです。そこには隷属させられた国民=被害者が、他者には加害者となるという「権威主義的パーソナリティー」があったのではないか。

あれ?
隷属は被虐的悦びじゃなかったの?
「隷属させられた国民=被害者」が加害者となって、他を支配するのは、支配するほうが気持ちよいからでしょう。

某M教でも世間では支配する側になれそうもないかたでも、教会内で神権者となれば教会内のみに通用する秩序、価値観をもって他を支配することができるし、教会内に通用する秩序、価値観にのっとって行われるかぎり、他の者はその支配をおおぴらかには拒否できない。
そういうのって支配するほうは、気持ち良いと思うよ。
人間、支配欲のほうが隷属への志向より、ずっと普遍的に存在するものだし、支配欲が満たされる満足感だって隷属する悦びに勝るとも劣らないだろうと思うな。

>ローマンカトリックからの解放は、自由を手にした民衆の戸惑いが自由からの逃走という心理を招き、更なる神の絶対的な権威・神の恩寵という絶対的な隷従を求める宗教的思潮を招いたように、民主的な自由を手にした民衆が、それに戸惑いそして維持に疲れ個の不安の中に、全体に隷属することに安心し、自己のアイデンティティーを見出していった部分もあるのではないかということですね。

ですから、頭を預けて楽になりたかったのでしょう。て。
先の見えない分かれ道が、何本かあって、
さて、どちらへ行こうか。と、迷う。
そんな時に力強く「この道の先には、素晴らしいところがある!自分が案内するから、行こう!」と言う者が現れたら、従ってしまう、ということでしょう。
おまけに皆がそっちへ行けば、なおさらついて行ってしまう。
と、いうだけじゃないのですか?

それを「隷属の悦び」で説明するのは、納得できないなあ。
行く途の先に素晴らしい世界がある、と思えばこそ先頭に従う。
先頭に従うのは、行く途の先にあるという素晴らしいモノが欲しいからです。
そこにあるのは先頭に「隷属」する悦びではなく、何か具体的な素晴らしいモノが欲しいという欲望だろうと思うのですが・・・。

タイトルRe^3: 秩序への憧れ
記事No1452
投稿日: 2012/04/02(Mon) 16:25:15
投稿者ぽん州

桃青さん こんばんは。

話がちょっとずれているような感覚がするけど、桃青さんのいうのは個々から帰納された全体は、確率的に真であり偽である だから、確率的に真であり偽である全体から演繹された結論は、真偽は断定されない ということかな。

タイトルRe^4: 秩序への憧れ
記事No1453
投稿日: 2012/04/02(Mon) 17:16:16
投稿者桃青
>
> 桃青さん こんばんは。
>
> 話がちょっとずれているような感覚がするけど、桃青さんのいうのは個々から帰納された全体は、確率的に真であり偽である だから、確率的に真であり偽である全体から演繹された結論は、真偽は断定されない ということかな。

そんな難しいことは・・・。

私がいいたいのは、
ファシストや全体主義者といえど隷属に悦びを感じるひとは少数派だろう。
なので、サディズムとマゾヒズムでファシズムや全体主義を解説するのは、どうも納得できない。
というだけです。


話はずれますが、ある事象を説明するのに、それまでなかった概念を呈示すると、その新鮮さを喜んでたいして検証もおこなわずに、ひとがパッと飛びつくということがあります。
フロムのこの説も、社会事象に人間の成育歴とかサド・マゾとかいう概念を結びつけたのが新鮮だったのじゃないですかね?
だって、ファシスト全体のうち何人が被虐的悦びを抱いているか、など調べてもいないのでしょう?
ましてや一人一人の成育歴を調査したのですか?
そういう調査自体信頼性があるかどうか疑問視されているのにね。

タイトルRe^5: 秩序への憧れ
記事No1454
投稿日: 2012/04/03(Tue) 00:30:20
投稿者ぽん州

桃青さん

サドとマゾは、きっちり分かれていますか。

タイトルRe^6: 秩序への憧れ
記事No1455
投稿日: 2012/04/03(Tue) 10:23:58
投稿者桃青
>
> サドとマゾは、きっちり分かれていますか。

サドとマゾの本質は同質というのがフロムの説だそうですが、
他害自傷は精神的疾患の症状ですから、サドマゾの本質は精神的疾患だというのは納得できます。

そこから一歩進んで、サド的傾向、マゾ的傾向は誰にでもある。
と話をすすめるのには注意が必要だと思います。

タイトルでは、これは
記事No1456
投稿日: 2012/04/03(Tue) 11:14:50
投稿者桃青
では、これはマゾの姿ですか?

『薬王菩薩品』
「即ち八万四千の塔の前に於いて、百福荘厳の臂を然すこと七万二千歳にして、以って供養す。」

『提婆達多品』
「即ち仙人に随って、所須を供給し、果を採り水を汲み、薪を拾い食を設け、乃至身を以って牀座と作せしに、身心倦きこと無かりき。」

タイトルRe: 自由
記事No1457
投稿日: 2012/04/03(Tue) 13:51:57
投稿者ぽん州

桃青さん

ですから ちょっとずれてきてるかな と思うんです。

じゃあ 仏陀はサドですか。

おかしいと思いませんか。こういう思考は。

タイトルRe^2: 自由
記事No1458
投稿日: 2012/04/03(Tue) 16:26:43
投稿者桃青
> じゃあ 仏陀はサドですか。
>
> おかしいと思いませんか。こういう思考は。

ですから、ね。
サドマゾで見ようとすれば、喜見菩薩の行動も、阿私仙に仕えた王の姿も、ひいては但行礼拝も不自借身命も見た眼はマゾの行動に似てますからマゾと言われ、菩薩行を熱心にする者は御釈迦様に隷属することを喜んでいるということにもされるのでしょう。

フロムが「ひとがファシズムへ能動的に参加して行くのは何故か?」
をサドマゾで説明しようとするのも、それに似てるかもしれない。
と、思うのですが・・・。
フロムは、ファシズムに能動的に引かれて行くひと全員とはいいませんが、統計的に信頼できる程度の人数のファシストを調べた上で考察をされたのですか?

以下はwikiからですが
「彼(フロム)によれば、人は自分の有機体としての成長と自己実現が阻まれるとき、一種の危機に陥る。この危機は人に対する攻撃性やサディズムやマゾヒズム、および権威への従属と自己の自由を否定する権威主義に向かうことになる。」
「彼(フロム)によれば神経症や権威主義やサディズム・マゾヒズムは人間性が開花されないときに起こるとし、これを倫理的な破綻だとした。」

上も納得できないけれど、特に下は全く駄目でしょう。
今日、神経症の原因を人間性や倫理性に求める心理学者や精神科医はいませんし・・・。
心理学が科学であるのならフロムの学説も仮説ですから、新しい知見が増えれば否定される部分も出て来るでしょうね。

タイトルRe: 自由
記事No1459
投稿日: 2012/04/03(Tue) 21:12:30
投稿者ぽん州
> 今日、神経症の原因を人間性や倫理性に求める心理学者や精神科医はいませんし・・・。
> 心理学が科学であるのならフロムの学説も仮説ですから、新しい知見が増えれば否定される部分も出て来るでしょうね。

桃青さん。

標本から母集団を判断するとき、抽出の無作為性が要求されますよね。だから桃青さんの科学的所見は、大変すばらしいと思います。
でも、喜見菩薩と日月浄明徳如来、久遠本仏釈尊とその愛子・桃青さんの関係も信ではなく、科学的事象なのですか。

桃青さん 喜見菩薩と如来の関係を、サドマゾだと感じているのですか、ちょっと話がずれてきてませんか と申し上げているのです。

【 投稿者により修正されました。】

タイトルRe^2: 自由
記事No1460
投稿日: 2012/04/04(Wed) 10:35:08
投稿者桃青
>
> 標本から母集団を判断するとき、抽出の無作為性が要求されますよね。だから桃青さんの科学的所見は、大変すばらしいと思います。

私のフロム批判は、ぽん州さんから本当にそう思っていただけているのでしょうか?(笑)

> でも、喜見菩薩と日月浄明徳如来、久遠本仏釈尊とその愛子・桃青さんの関係も信ではなく、科学的事象なのですか。
>
> 桃青さん 喜見菩薩と如来の関係を、サドマゾだと感じているのですか、ちょっと話がずれてきてませんか と申し上げているのです。

もちろん私は喜見菩薩と如来の関係をサドマゾだなどと思っていませんよ。
しかし、書かれていることの字面だけを取り上げて
「肱を焼いたり、人間椅子になったり、自分を罵る相手を礼拝したり、虎に身をさしだしたり、仏教はマゾヒズムだ。」という論をこねくりまわすことだって可能なわけです。
フロムも、もしかしたら、それと似ているようなことをしているのではないか?
観察をもとにして、「自由からの逃走」を書いたといわれますが、その観察の方法は批判に耐えうるものだったのでしょうか?
という疑問点を呈したかったのですが・・・。

ファシズムや権威主義に能動的に近づくひとは、私の知る限りマッチョな思考や志向の持ち主が多くて、隷属する悦びなどかけらも欲してないかたばかりで。。
そして、そういう方々は、自由(権利、特権)から逃走するというより、さらに大きな自由(権利、特権)を求めてファシズムや権威主義に近寄って行くように見えるのですよ。

タイトルRe^3: 自由
記事No1461
投稿日: 2012/04/04(Wed) 23:16:25
投稿者桃青
というように、私はフロムの考察には、あまり共感できないのですが・・・。

ぽん州さんはフロムの解説に共感されているようですが、
それはやはりご自身の観察に重なるところが多いからでしょうか?

タイトルRe: 自由
記事No1466
投稿日: 2012/04/08(Sun) 10:41:23
投稿者ぽん州
> というように、私はフロムの考察には、あまり共感できないのですが・・・。
>
> ぽん州さんはフロムの解説に共感されているようですが、
> それはやはりご自身の観察に重なるところが多いからでしょうか?

桃青さん こんにちは

年度替りで忙しく ちょっと猶予くださいね。

南無妙法蓮華経