タイトル | : 信じやすい。 |
記事No | : 1462 |
投稿日 | : 2012/04/05(Thu) 09:48:52 |
投稿者 | : 桃青 |
昨夜ふとテレビをつけたら、オウム真理教の土谷正美の件をドキュメンタリー風に報じていた。 内容的にはこれまで報道されてきたことと変わりはなかったが、 土谷正美というひとりの人生を通じてオウム事件を報じるものだった。 番組中何度か「彼は純粋で信じやすい。信じやすいひとはマインドコントロールにかかりやすい。」 と、いうコメントが出てきた。
純粋で信じやすい、ということはどういうことなのだろうか。 と、時々思う。 私も、(読者の皆さんは信じないかもしれないけれど)若いころから、色々な人から「あなたは純粋だ。」とか「心がきれいだ。」とか、しばしば言われた経験がある。 亡くなった師匠も私が身延へ研修へ出かけたとき、陰で 「彼女は純粋だから、身延で僧侶の世界の汚さに幻滅して法を捨ててしまわなければ良いが。」 と心配してくださっていたと後で聞いた。
私自身は、今も昔も自分が純粋だとも、心がきれいとも、思ったことがないので、 「あなたは純粋だ。」とか「心がきれい」とか言われるたびに、誰か別のひとのことを言われているような奇妙な感じがしたものだったが、ちょっとだけ嬉しくなったりもした。
某M教会でも会員が自他の教会員について語る場合 「純粋で良い人が多い。」「信じやすく騙されやすい。」だから某M教会にひっかかった。とか、 「純粋に某M教会を信じている(可哀そうな)教会員達を見捨てて脱会はできない。」 と、いう言葉が出てくるところは、オウム信者について語られるのとよく似ている。
純粋で信じやすい。とは、どういうことなのだろう? と、考える。 純粋で心がきれい。と言われて来た私が思うに、それは「バカ」と同義語であり、「このひとには、世間世情の話はできないね。」という意味であろう。 純粋で心がきれいなどと言われて、喜んでいる場合ではない。
土谷正美は専門分野での研鑽は優秀だったそうだが、性格は真面目で温和、学業優秀な彼が何故思うような就職ができなかったかと、思いを巡らすと、採用側が彼にこの「世間世情の話ができない。」という匂いをかぎつけたからではないか。と、思う。
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