[リストへもどる]
一括表示
タイトル老後を看取られるということ。
記事No1484
投稿日: 2012/05/02(Wed) 17:18:23
投稿者桃青
最近の調査によりますと
介護を自宅で受けたいと希望するひと、約40%。
子供の家で受けたいと希望するひと、14%。
合わせて60%近くのひとが、介護施設ではなく自宅での介護を望んでいるということになる。

これを受けてか、介護保険の支出を抑えるためなのか、
政府は施設での介護から、在宅介護を主軸とする方針を打ち出した。

私の母は、私の家で介護保険サービスを受けて生活しているので、
「子供の家で老後を過ごしている。」在宅介護ということになる。

最近、あちこちで
「老後を家族に見てもらえるかどうかは、それまでに良好な親子関係を作って来たかどうかに拠る。
良好な親子関係を作って来なかった年寄りは、施設へやられたり、在宅でも充分に見てもらえない。」
というようなコメントをちょくちょく見かけるようになった。

法座でも住職の口から語られることがある。
私は、そういう意見を見聞するたびに

「やれやれ、
人生の最後を施設で暮らすのは、子供から捨てられた親である。
親を捨てるような子供に育てた自分が悪い。
親を捨てるような子供が悪い。
施設とは、子供が親を捨てるところだから、姥捨て山だ。
という認識が、介護保険のお陰で施設を利用することが当たり前になって、ずいぶん変わって来たと思っていたのだが、
これでは、結局、当分変わらないのだろうな。」
と思う。

在宅介護が出来るかどうかは、オカネと時間と労力を介護にどれくらいつぎ込めるか、で決まる。
政府が在宅型介護に主軸を移したのは、施設の設備、サービスの充実にカネがかかるということあるが、24時間目が離せない者を介護する介護従事者の確保が難しいということのほうが深刻な問題なのだ。

つまり、介護の問題の殆どは、カネ・時間・労力で解決できるという物理的な問題なのだ。

考えてみて欲しい。
例えば、親子関係が良好な親子でなかったとして、それは老後の何年かを劣悪な環境で、人間としての尊厳を考慮されることなく生かされなければならないほどの罪なのか。
劣悪な環境に老いさらばえて蠢く者を「あれには子供がいないから、子供がいても良い関係を保つ努力をして来なかったから、ああいう風なんだわな。」
と、軽蔑していれば済むというものなのか。

勧善懲悪因果応報、自己責任を宗旨とする某M教徒ならともかく、仏教の教えを説く場では、「子供との親子関係が良好でないものは、老後は安心ではない。」などという話は聞きたくないなあ。

人間関係はどちらか片一方の思いだけで良好に保たれるものでもない。
恋愛なら、その事実に殆どの者はすんなり頷くだろうが、親子関係もまたそうなのだ。
とならないのは何故だろう?

タイトル「岳」
記事No1485
投稿日: 2012/05/02(Wed) 17:38:57
投稿者桃青
「ビッグコミック」に「岳」という作品が連載されいる。

私は、七面山以上に高い山に登ったことはなく、登山というスポーツには全く興味がないので、作品の主題をよく理解しているとは言えない。
が、主人公が遭難者を救出する際に、生存者であっても、すでに亡くなっているかたであっても、必ずかける言葉に、作者の人間への思いを垣間見てるような気がしている。

「よく頑張ったね。」

主人公の三歩は、救出を待っていた遭難者に必ずこう声をかけるのだ。
ある人が遭難に至るまでの事情や行動はいろいろだろう。
しかし、「生きたい」と頑張ったのだ。

私は、仏も今世の世を終わる者に一様に
「よく頑張ったね。」
と、言われるような気がしている。

タイトル親不孝者
記事No1486
投稿日: 2012/05/03(Thu) 09:43:48
投稿者しんのすけ
> 仏教の教えを説く場では、「子供との親子関係が良好でないものは、老後は安心ではない。」などという話は聞きたくないなあ。

幸い80歳になる母はまだ介護を要するほど痴呆になってはいませんが、血圧や早朝の脚の痛みなどを考えると同居した方が良いのでしょう。
直接にはいわれませんが、世間の方はそのような事を言います。
しかし、同居しようと思うえば僕は今の家族と別居しないといけません。
年金にも加入していなかった母には年金すらありませんから、未だに仕事をしています。いや、受給があってもしていると思いますけど。
僕がもう少し甲斐性があったらとかいろいろ思いますが、母にとっても大切な孫を育てることが孝行かなと思っています。
他人にはほんとよく理解できないのが親子関係です。
たった一人の母親ですから愛情も感謝もありますが憎しみもありましたし、複雑なのです。

タイトルRe: 親不孝者
記事No1487
投稿日: 2012/05/05(Sat) 05:45:18
投稿者しんのすけ
ちょっと早かったけれど、もうすぐ母の日なのでカーネーションの鉢植えを昨日家族で届けて、一緒に鰻丼を食べました。花屋にいったらピンクのポインセチアがあったので嫁さんにはそちらをプレゼントしました。母はそちらも盛んに綺麗だねと気にしてほしそうだったけれど母親はカーネーションが定番さから(笑)今80歳、このまま元気でいて欲しい。

タイトルRe^2: 親不孝者
記事No1489
投稿日: 2012/05/05(Sat) 11:24:05
投稿者桃青
> ちょっと早かったけれど、もうすぐ母の日なのでカーネーションの鉢植えを昨日家族で届けて、一緒に鰻丼を食べました。花屋にいったらピンクのポインセチアがあったので嫁さんにはそちらをプレゼントしました。母はそちらも盛んに綺麗だねと気にしてほしそうだったけれど母親はカーネーションが定番さから(笑)今80歳、このまま元気でいて欲しい。

ポインセチアって、クリスマスのころにしか出て来ないかと思っていたのですが、今の時期も売っているのですね。

で、お母様にカーネーション、奥様にポインセチアですかー。
たぶんねー。
「私には地味な花。嫁には華やかな花なのっ!
 年寄りだと思って馬鹿にするなー。」
って、思われたんですよー。

以前、親戚の家を訪問したおりに99歳の老婦人(母の父方の何からしいが関係をよく知らない。)と、その長男の嫁さん(70歳以上?)にそれぞれセーターをプレゼントしたのですが、
その99歳の老婦人は、すばやい眼つきで、自分が貰ったセーターと御嫁さんが貰ったセーターを見比べ、自分のよりは明るい色合いの御嫁さんへのセーターを凄い目で睨んでましたものね。

母も認知症の始まりのころ、何枚か買ってきた上着を自由に選ばせると、赤い花模様など、少しでも明るい派手なのを選びましたから。
今は、もうどうでも良くなったのか、そういう選びもできなくなりましたが、御化粧をしてあげたり、何か新しいものを着せると嬉しそうな顔をするのですよ。
ぼけても、女なんですね。

タイトルRe^3: 親不孝者
記事No1491
投稿日: 2012/05/05(Sat) 13:04:28
投稿者しんのすけ
> ポインセチアって、クリスマスのころにしか出て来ないかと思っていたのですが、今の時期も売っているのですね。
 科学の力ですね、サントリーフラワーの生産だと思いました。
確か、プリンセチアとかいうネーミング。
> 「私には地味な花。嫁には華やかな花なのっ!
>  年寄りだと思って馬鹿にするなー。」
> って、思われたんですよー。

わぁ〜恐い〜(;O;)
一応、カーネーションもピンクにしたんですけどね
> ぼけても、女なんですね。
それはわかる気がします。
赤ちゃんも女って感じするから、生まれて灰になるまで女性なんですね。
男は、男に育って、やがて男らしさが消えていく気がします。

タイトルRe^4: 親不孝者
記事No1494
投稿日: 2012/05/05(Sat) 14:39:05
投稿者桃青
> 男は、男に育って、やがて男らしさが消えていく気がします。

そうでしょうか?
私は、年をとって男らしさが消えたかたはまだ知らないですが・・・。
そうなのかなあ。うーん。

タイトルRe^5: 親不孝者
記事No1503
投稿日: 2012/05/10(Thu) 09:16:01
投稿者しんのすけ
参照先http://www.docu21.com/
> 私は、年をとって男らしさが消えたかたはまだ知らないですが・・・。
ああ、たぶん男らしいをオスとしてとらえたら変わらないのかも
しれませんが、夫婦がお互い年をとると女性は男性的に男は女性的になって中性化していくような気がします。
生まれた時に女の子は女で、男の子は男になっていくというのは
勘違いかもしれません。男に対する形をかってに作っているのかも
しれませんね。

タイトルRe^6: 親不孝者
記事No1506
投稿日: 2012/05/11(Fri) 09:32:10
投稿者桃青
> ああ、たぶん男らしいをオスとしてとらえたら変わらないのかも
> しれませんが、夫婦がお互い年をとると女性は男性的に男は女性的になって中性化していくような気がします。

女性同志、女性がオジさん化して行くというのはなんとなくわかりますが、男性がオバさん化して行くというのは、イマイチ、ピンと来ません。

しんのすけさんは、具体的にどんな時に「女性的になったなぁ〜。」と思われのでしょうか?

タイトルRe: 親不孝者
記事No1488
投稿日: 2012/05/05(Sat) 11:01:54
投稿者桃青
> 幸い80歳になる母はまだ介護を要するほど痴呆になってはいませんが、血圧や早朝の脚の痛みなどを考えると同居した方が良いのでしょう。

「一緒に住もうと呼んでくれるのだけれど、
自分で身の周りのことができるうちは、独りのほうが気楽。」
と、言われるかたも結構いらっしゃいますよ。
それが本音なのか、強がりなのかは表面からは解りません。

落語の『紀州』と同じで、「独りのほうがいい。」と、口ではいいながら
「おいおい!ワシがそう言ったからといって、ああ、そうですか。
 は、無いだろう。
 ほんと気の利かないやつだ。」
と、思っておられるかもしれませんし、
本心から、「子供に負担をかけたくないし、気をつかいながら暮らすのは嫌。」
と、思っておられるのかもしれません。
こういうことも自分を基準には測れないことの一つでしょうね。

> 直接にはいわれませんが、世間の方はそのような事を言います。

本人の事情も、子供の事情もいろいろですから、
子供との同居だけが、老後を明るく過ごす方法でもないのですけれどね。

> 他人にはほんとよく理解できないのが親子関係です。
> たった一人の母親ですから愛情も感謝もありますが憎しみもありましたし、複雑なのです。

いろいろありますよー。
親の子供に対する気持ちも、子供の親に対する気持ちも、
ほんといろいろ。
一念三千世界ですからね。

タイトル早離と即離
記事No1490
投稿日: 2012/05/05(Sat) 11:47:39
投稿者桃青
『苦労したからこそ、他者の身の上を慮る人もあろう。
苦労したからこそ、他人を蹴落としてでも自分の安泰だけを
願う者もあろう。』

母の介護を通じて、ヘルパーさんと言葉を交わすことがある。

あるかたは
「こうして家で娘さんに見てもらえて、幸せだねー。
 なんだかんだ言っても、家で娘さんに見てもらえるのが一番ですよ。
 うちは男の子ばかりだから、私の面倒は誰が見てくれるのだろうか。と、思いますよ。
 男の子はダメだとつくづく思いました。だって男なんてオムツひとつ満足に始末できないんだから。」
と、来る度に「私の面倒はいったい誰が見てくれるのだろう?心配だ。」と繰り返され、

あるかたは
「どこの家でも子供への負担って、そりゃもう、ものすごく大変なんです。
 そういうのを見ていると、私の子供には、こんな負担をかけたくない。って、思うのですけれどね。
 介護保険って、この先どうなるんでしょうね。私が年寄りになったころにもあるんでしょうか?」
と、こちらも心底心配しておられる。


私は、できれば認知症になる前に死にたい。
しもの世話をしてくれるひとに「ごめんね。迷惑掛けて。」という思いがなくなる前に、死にたい。
そうは願っているのだが・・・。

タイトルRe: 早離と即離
記事No1493
投稿日: 2012/05/05(Sat) 14:02:37
投稿者桃青
母の父方の老婦人たちには長命なかたが多くて、
私には、よくわからない関係の方々のところへ母はよくお見舞いに行っていました。

私も、たまには一緒に行ったのですが、
どこでも老婦人たちは、それぞれ大切にされておられて、母は
自分の老後もそのようであるに違いないと思っていたようです。

母は同時に老人施設へ入居した知人たちのところへも、よくお見舞いに出かけていましたが、家族の元で大切にされている親戚の老婦人たちと比べて、施設の知人たちのことを哀れだ。といい、その子供たちのことを常に非難していました。
中でも、そのような施設の一つで、私の中学校時代の教師がいたのに驚いて、
「あのひとの子供は○大医学部を出た精神科医なのに、親を施設に入れている。」
と、何かあるごとに誰にでもそう言うのが、我が親ながら聞くに堪えなくて、
「お母さん!ひとにはそれぞれ事情というものがあるのだから、
 そんな風にいうもんじゃないでしょう。」
と、私が言っても聞かない。

そんな母ですから、私がデイサービスを利用しようとした時、ものすごく抵抗しました。
まさか、自分が「ああはなるまい。」と思っていた身分になるとは!
自分をそんなところへ行かせはしまい。と思っていた我が子が、自分を他人に委ねようとしている。
そんな驚愕と怒りに押し潰されそうであることは、私にもわかりました。

でもね。
実際、24時間母に付ききりでいるわけに行かないのですよ。
親戚の老婦人たちは、家族が多くて5人、6人の成人した大人が家におられるから、交代で自分の用も足せるし、勤めにも出かけられる。そして何より、お金持ち。
マンション経営などして別にシャカリキに働かなくても、食べるのには困らない。
って、ひとばかり。
我が家のように、私が働かなくては家の経済が回らないって家とは違う。
し、昼間の何時間かだけ行くだけだから。
と、言っても聞いては貰えなかったですよ。

最後は、騙すようにして行ってもらいました。
今でも私に対して怒っていると思います。
母は怒ると黙りこむのがクセなのですが、デイを利用し始めて以来私には一言も口を利きません。
認知症の症状としての暴言に苦しめられる方を思えば、黙って何も言ってもらえないほうが、まだましかもしれませんが・・・。

思い描いていた老後ではなく、自分が「ああはなりたくない。」と思っていた老後を過ごすことになって、落ち込み不満そうな母を見ていると、
(本来の意味はそうではないのでしょうが)なんとなく聖書の「裁くなかれ、汝が裁かれぬために。」という言葉が思い浮かんだりするのですね。

タイトル「自己責任」の嫌な使われ方
記事No1492
投稿日: 2012/05/05(Sat) 13:12:54
投稿者桃青
自己責任って、嫌な使われ方をされがちですね。

嫌な使われ方、その@
ヤクザの論理の「自己責任」
これは
誰かをぶん殴っている者が、ぶん殴っている相手に向かって
「お前がぶん殴られるのは、お前がぶん殴られるようなことをしたからだ。」
と、言うものです。
裏には、「俺にぶん殴られたくなければ、俺の言うことを聞け。」
がある。

こういう「自己責任」を使うのはヤクザばかりではありません。
神様も使います。
「救われたければ、○○せよ。○○するかしないかは、選ぶのは自由だ。救われるか、地獄へ落ちるか。結果は自己責任だ。」
こうなると脅しですね。
どことは言いませんが、契約宗教と言われるところの神様が言っていることを平たく言えば、そういうことです。

「俺がお前をぶん殴るのは、俺にぶん殴られるようなことをしたお前が悪い。」
と書けば、その他罰的思考ぶりがよくわかりますが、そこに変に「自己責任」を持ちだされると、殴られているほうも「そうかもしれない。」「このひとの言うとおりにしない私が悪いのだ。」と、なって行きがちです。

でもね、自己責任を言いたてるひとにかぎって、こういう他罰的な論法を使いたがるのですよ。
自己責任を言いたてるひとをじっと見ていてごらんなさい。
そのうち必ずもの言いが他罰的になって来ますから。

何事も自己責任で見ることになれてしまうと
「自分があいつを攻撃するのは、自分が攻撃したくなるような態度をあいつがしているからだ。自分のしたことの結果は自分で引き受けてもらわなくてはな!」
としか考えられなくなったり、
殴られている者がいれば
「さだめし殴られるだけのことをしたのだろう。」
としか思えなくなるようなんですね。
困ったものですね。

タイトル自己責任の嫌な使われ方A
記事No1497
投稿日: 2012/05/08(Tue) 12:47:08
投稿者桃青
自己責任の嫌な使われ方、そのA

これは、ね。
因縁の教えを聞く仏教徒でもふと嵌ってしまう嫌な「自己責任」があります。

*老後を家族に大切に看て貰えないのは、その人が看てもらえるような良い家族関係を作って来なかったからだ。

 人間の尊厳とは程遠い状況で老後を生きるのは、
 「そのひとの自己責任なのだ。」
 で、話をお終いにしてしまう。
 
 そもそも人間関係は関係者の中の誰かひとりの思いだけで成り立っているものではない。
誰かひとりの思いだけで、良好な人間関係が構築されるのなら、世の中に人間関係の葛藤など起きようがないでしょうに。

タイトルリア王の娘たち
記事No1499
投稿日: 2012/05/09(Wed) 10:56:24
投稿者桃青
周りを見ると、親がその優秀さに期待し、子供もその期待を裏切らずに育ち、その社会的成功を親が自慢してやまない子供からは看て貰うことなく、出来の悪さゆえにどちらかといえば軽んじていたような子供がせっせと親の介護をしている。
という例は珍しくない。

介護ブログを見ても、子供時代、兄弟の中で親から一番疎んじられた体験をこぼしながら、「そうやって大切にされた兄弟たちは誰も見ようとしないので」と、認知症の親を引き取って介護している、というかたも何人かおられる。

また一人っ子で、どうのこうの考える余地なく親を介護しておられるかたも何人もおられる。

そういう方々は、「良好な関係」があるなし、に関わらず、親の世話をされているわけで、介護の大変さを嘆きながらも、「親(or舅姑)からああいう仕打ちを受けた、こういう仕打ちを受けた私が何故、こんな苦しい思いをしながら介護しなくてはならないのだ。」とこぼしながらも、決して親(舅姑)を粗末に扱ってはおられない。
それは、おそらくそれぞれが「このひとを酷い状態のままにはしておけない。」という思いで頑張っておられるのだろう。と拝見している。
こういう例では、良好な人間関係があった故に、親(舅姑)を見ておられるのではない。
介護者の人間的資質が、やむにやまれぬ思いで面倒を見させるのだろう。

ある介護老人が大切に世話されているからといって、それがすべてその老人が介護者との間に良好な人間関係を築いてきたからだ。
ある人が受ける結果はすべてそのひとの「自己責任」なのだ。
という単純な見方では何か大きな問題を見過ごしにしてしまうのではないだろうか?

タイトルすべては「自己責任」という単純思考
記事No1500
投稿日: 2012/05/09(Wed) 11:42:42
投稿者桃青
「結果は自己責任だ。」

これは、実に単純な因果律だ。
すこし現実を見てみれば、そうとは言えないことが多々あることを知る。
少なくとも、仏教を学ぶものはそんな単純な因果律で世の中を捉えることに加担してはいけないと思う。
仏教は、もっと細やかに世間の出来事を捉えているではないか。

大雑把な法則を世の中の出来事に当てはめて問題を解決しようとすると、その大雑把さゆえに当てはまらない事どもが必ず出て来る。
すると、大雑把な法則の信奉者は、それらの事どもを無いもののように扱って辻褄を合せようとする。
しかし、いくら無いもののように扱っても、それらは現実に有るのであるから、大雑把な法則をもとに拵えた社会システムは、社会に歪みを生みだして来る。
すると大雑把な法則の信奉者たちは、その大雑把な法則やそれを元に拵えた社会システムを見直すというのではなく、大雑把な法則に当てはまらない者たちを社会から抹殺して、辻褄を合せようとしてくるのだ。

少なくとも仏教の教えを聞く者は、そんな大雑把な法則の信奉者になってはいけない。
せっかくの「因縁の教え」を単純な「自己責任の教え」に読みかえて、広めるようなことはしてはいけない。
と、思うのだが・・・。

タイトル「自己責任」と「自由競争」
記事No1501
投稿日: 2012/05/09(Wed) 12:00:41
投稿者桃青
「自己責任」という考え方は、自由競争主義と両輪の関係にある。

野田総理は社会保障制度改革に関連して、「日本がアメリカのような自己責任の国になることは必ずしも良いとは思わない。」と、言ったが、自由競争主義を規制無く受容するならば、「自己責任」もまた規制無く受容しなければならない。

しかし、どうだろう?
アメリカは自由競争主義の社会であり、それゆえ全ては自己責任が問われる社会である。
とは言うが、本当にそこでは競争が自由に行われているのであろうか。
様様な報道やレポートを見ると、自由の国アメリカと言えども、
本当に自由な競争が行われたことは、有る時、ある地域を限定すればどうかわからないが、建国以来、今日まで無かったし、これからも無いだろう。
そこにあるのは、「自由競争している。」という幻想だけなのだ。

タイトル彼の地、此の地の人の一生
記事No1502
投稿日: 2012/05/09(Wed) 17:16:01
投稿者桃青
徳川家康は「人の一生は重き荷物を負うて
遠き道をゆくがごとし」と言ったらしい。

私の見たチベットの修行僧の論戦では、「人の一生とは?」と、問い掛けられた若い修行僧が、「重い荷を背負って長い道を行くがごとし。」と徳川家康のように答えたのに対して、
問い掛けた兄弟子は手を打ち鳴らして
「短いぞ、短いぞ。長くはないぞ短いぞ。さあ!さあ!」と、返答を迫っていた。

物心ついたころから、少し前までは「人生とは重い荷物を背負って・・・」という言葉を当たり前のように、見聞きしたものであったが、ふと気がつくと、最近はまったく目にしなくなった。

最近の日本人はアメリカナイズされている。という声も聞くが、
アメリカ生まれの基督教、某M教の最高指導者者は、
「人生とはレースである。レースに参加するからには勝たねばならぬ。」
と、説教する。
さすがに、「自由競争、自己責任」の国の宗教らしい人生の捉え方だと首振り頷くが、日本人の中にも人生をこの最高指導者のように捉えているひとも珍しくはなさそうだ。

前にも書いたが、自由競争と言い自己責任と言うが、本当の意味で公平公正な競争が行われていないのに、あたかも公平公正な競争の結果のように自己責任を言いたてるのは、どうなのかと思う。
公平、公正な自由競争とはなっていない理由として、個人に関してすぐ気が付くのは、人間生まれた時からスタートラインが既に違う。ということだ。
そんなことは当のアメリカ人でも気付くのだろう。
某M教はそれに対して答えを用意している。それは「前世のそのひとの行いによって」生まれる姿と場所が違うというものである。
つまり前世からレースは始まっていると言うのだ。

そういうモノの見方では、「自分たちは公平公正な自由競争をしている。」という幻想から、覚めることは難しそうだ。


私は「人の一生は重い荷物を背負って遠くへ行くようなものだ。」とも「人生はレースだ。」とも思っていない。
ひとは、「人の一生は重い荷物を背負って遠くへ行くようなものだ」と思えば、そのように見えて来るのだろうし、「人生はレースだ。」と思えば、そのように見えて来るのだろう。
「人生とは」の答えも、また愛アラヤなのだ。