タイトル | : 死について |
記事No | : 1504 |
投稿日 | : 2012/05/10(Thu) 09:59:57 |
投稿者 | : 修業者 |
この歳になると訃報が多く届く。昨年は3件の葬儀に参列した。 今まで殆ど考えたことがない死について最近考えるようになった。 唯物論的傾向が強いようだ。
死とは、身体の機能が停止して土に帰り、魂(感情や感覚や知識)は虚空に消え去り無に帰す。 簡単にいえば、夢をみることのない永遠の眠りにつくことなのだ。 現世も死後の世界も来世もないし、今世での善行や悪行が裁かれることはない。 だから、過去世及び来世の因果応報などありえない。 龍樹は、部派仏教の因果性を厳しく批判し、相依性(無自性・空)を説いた。
では、人間はなぜ死を恐れるのか。 すべての生物は必ず死ぬので、死そのものが怖いのではなく、恐ろしいのは死に至るまでの苦しみなのだ。 死の瞬間を末魔が切れる即ち断末魔といい、断末魔の恐怖と苦しみを最も恐れるのだ。
仏教は、死後の世界のことや葬儀・供養などの儀式の教えではなく、現世をどのように生きるべきか、また苦や恐怖からどうしたら脱却できるかを説いた教えなのだ。 経典に書かれている極楽・地獄・輪廻などは方便だと思う。 キリスト教やイスラム教は全く信じる気にならない。
【参考 六師外道の一人、アジタの唯物論】 地・水・火・風の四元素のみが、真の存在であり、独立常住である。 さらに、これらの元素が活動する場所として虚空の存在をも認めていた。 アジタによると、人間が死ぬと、人間を構成していた地は外界の地に帰り、水は水の集合に、火は火の集合に、風は風の集合に帰り、魂といわれる感情や感覚は虚空に帰入して消滅する。 人間そのものは死とともに無となるものであって、身体のほかに死後にも独立に存在する霊魂なるものはありえない。 愚者も賢者も身体が破壊されると消滅し、死後には何も残らない。 したがって現世も来世も存在せず善行あるいは悪行をなしたからとて、その果報を受けることもない。 施しも祭祀も供養も無意義なものである。
[原始仏教][中村元][日本放送出版協会]からの抜粋
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