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タイトル反省懺悔、ごめんなさい。は難しい。
記事No1527
投稿日: 2012/05/20(Sun) 22:30:52
投稿者桃青
「反省懺悔して・・・」
法話の中によく出て来る言葉です。
仏教には「慚愧」という言葉もあります。

反省懺悔、難しいですね。
慚愧のほうがまだ出来そうです。
「あー、自分はなんてことをしたのだぁ〜。しているのだぁ〜。」バカバカバカ!

なぜ、こんなことを書いたかといいますと、
やっぱり、母関連です。
母は私の口から言うのも何ですが、とても「良い人」です。
ただ表現方法が拙いので、認知症に成る前の母は、「並」のひとからは敬遠されるところがありました。
なので母の「良いひと」を理解してくださるかたは、これまた良いかたばかりでした。

そんな「良い人」の母でも、やっぱりひとに「ごめんなさい。」を言うのは苦手でした。
母の口からは、「有難う。」「感謝しています。」という言葉は、折に触れて出て来るのですが、
ついぞ「ごめんなさい。」「あれは私が悪かった。」と言う言葉を自分から言うのを聞いたことがありません。
(母の心の中までは解りませんので、心の中で思っていたかどうかまでは解りませんが。)

母は「ごめんなさい。」は言わないけれど、ちょっとしたことでも
「ありがとう」「ありがとう」を気前よく誰かれに言っていました。

他人にも「ごめんなさい。」を言わないのですから、子供の私にはなおさら言えないのでしょうね。
母が認知症になり、シモの世話を私がしています。
粗相を始末している私に「すまないね。世話かけるね。」とでも言ってくれたら、少しは気持ちが救われるのに。
子供だからするのが当然、と言わんばかりに「ぐい!」と、汚れたお尻を私に向かって突き出します。
(く、くさい!)

思いました。
やっぱりこう言う場面では、どちらかと言えば「ありがとう。」より「(面倒かけて)ごめんね。」だろうな。と。
覚えて置きましょう。
介護のブログにも、「すまないね。」「迷惑かけるね。」と言われると、一気に心が和む。と書かておられるかたがいる。
解るなあ。その気持ち。

タイトル功徳
記事No1528
投稿日: 2012/05/21(Mon) 19:01:49
投稿者桃青
などと書いていたら、今日は御住職と雑談の機会があった。

最近、檀信徒さんの中にも、親を介護するかたがチラホラ増えてきたらしい。
「実の親子でも汚い場面では辟易しますから、御嫁さんならなおさら辛いでしょうね。」
と申し上げると
「あまりに苦しいので、つい、早く死んで欲しい。と思ってしまうこともある。と言われますよ。」
と。

その後、自利利他の話に移ったので、
「確かに、法華経は利他の教えですが、母などみてますと、
 自分では、どんなに利他を願っても、利他どころか周囲の世話にならなければ・・・周囲に迷惑をかけなければ、生を保てなくなる。ということもあるのだな、と思います。
そういう場合に利他とはどういう姿なのでしょう?」
と、お尋ねした。

住職「功徳とは、自利ではなく利他できる自分を作って行けることです。」
私「ですから、その利他できない自分をどう捉えたらよいのかと・・・。母の現在は周囲にただ世話をかけるばかりで、利他などできないわけです。
そういう姿を見ますと、自分がどんなに利他でありたい。と願ってもできることは、周囲に迷惑をかけることしかない。ということもあるのだな、と。
そういう場合、どう捉えたらいいんでしょう?」
住職「いやー、桃青さんは、ぼけないから大丈夫ですよ。」
うーん・・・どうも話が噛みあわない。
私の問いかけの仕方が拙いのか?

住職「ぼけること、寝たきりになることによって、子供に親孝行させる機会を与えることができます。」
私「そんなこと!私は周囲に迷惑をかけながら到底思えません。
  ただ、ただ、申し訳ないばかりです。
  迷惑かけてごめんなさい。と、いう気持ちをボケることで失ってしまうことが恐ろしいです。」
住職「そういう気持ちで生きたら、ボケないって!」

あ・か・ん。
最後まで噛みあわなかった。


子供に親孝行の機会を与えることが出来るって、ね。
子供の側が、オムツを替えながら「ああ!親孝行の機会を与えてくださったのだ。」
と、思うのはよいでしょうが、親のほうが
「親孝行の機会を与えてやっているんだぞ。」
とか
「親孝行しないのはケシカラン。」
と、言うようなものではない。と、思う。

タイトルRe: 功徳
記事No1529
投稿日: 2012/05/24(Thu) 10:05:58
投稿者桃青
> 住職「功徳とは、自利ではなく利他できる自分を作って行けることです。」

これは、別の言葉で言えば、

世間のひとは、信仰したらカネが儲かっただの、病気が治っただのを功徳と言いますが、
仏教で言っている本来の功徳とは、菩薩行が出来るようになること。
 そして即身成仏に至ることなのですよ。
 」
と、なります。

私は、ハッキリとそう言ったほうが良いのではないかと思います。
「利他に生きる。」だけでは、自分を犠牲にして他を利することのように受け取られかねない。
究極、それは、イエスキリストの贖罪の姿となり、キリスト教の「愛するもののために死ぬ。」ことへの讃美につながって行く。

「愛する者のために死ぬ。」が至高の愛の姿だという思想は危険だ。
仏教は「愛する者のために死ぬ。」ことを推奨してはいない。
仏教は、自分が愛する者も自分も生きること・・あなたも私も生きて仏道修行する方策を探せという教えなのだ。