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タイトル「一遍上人」。。。だから何?
記事No1530
投稿日: 2012/05/25(Fri) 10:09:37
投稿者桃青
講話で「一遍上人伝」を聞く。

「十一不二」
 十劫という遠い昔に法蔵菩薩が正覚を得て阿弥陀仏となった瞬間と凡夫が今の一念の念仏とは不二である。

一遍上人は、
 往生の一瞬は世俗の善悪を超えている。
 念仏を数多唱えれば往生するとか修行を続ければ往生する。善行を積めば往生する。
 というようなものではない。
と、考えておられたようだ。
 

 確かに、「正覚を得る」とは、そういうものなんだろうな。と思う。
しかし、と、ここで私の中にムクムクと不穏な雲が湧きあがる。

確かに一遍上人は
相対を絶した不二の法。
である真理(空、無自性)を瞬時に覚られたのであろう。

「ただ南無阿弥陀仏なり。」

だから何?
真理をさとられたら、何か現実の問題が解決しましたか?

仏法を学び、正覚を得られたかたは数多おられましょう。
今現在も「正覚を得た!」という瞬間を迎えておられるかたがぞくぞくと出現されていることでしょう。
現実、正覚を得ることが仏教の示す到達点なのですか?
正覚がある。ということを示すだけでよいのですか?

違うだろう。違うだろう。違うだろう。
御釈迦様は、苦を滅する(コントロールする)ことができる。と、言われたではないか。
この世のあらゆる苦を滅する(コントロールする)道を示してこその仏教ではないのか。

もやもやもや。。。

タイトル「阿!」という瞬間。
記事No1531
投稿日: 2012/05/25(Fri) 11:22:47
投稿者桃青
「阿!」という瞬間は、当然のことだが仏教者にだけ起きる現象ではない。

そして「阿!」という瞬間に、何が見えるか、何がはじけるか、の「何」に関しては人様々である。
仏教者は仏教の真理に関して、ああである。こうである。という言葉を聞いているので「何」もまた仏教の真理に関したものとなるのであろう。

キリスト者でも某M教徒でも、当然「阿!」という現象は起きる。
そしてその「阿!」の話を聞くと、彼らの「阿!」を彩っているものは「聖書」であることがわかる。

「阿!」という現象に遭遇した者の中には、それが仏教徒なら仏教に特有の現象であると思いこんでいるかたや、キリスト教徒や某M教徒ならば、キリスト教、某M教に特有の現象である。
と、思いこんでおられるかたがいる。

「現象は普遍、現象を彩っているものが違う。」だけなのに、ね。

タイトル往生(正覚)の一瞬は、善悪を超えている。
記事No1532
投稿日: 2012/05/25(Fri) 18:57:12
投稿者桃青
往生の一瞬は世俗の善悪を超えている。
念仏を数多唱えれば往生するとか修行を続ければ往生する。善行を積めば往生する。
というようなものではない。

確かに、往生の一瞬、正覚を得る一瞬とは、そういうものだろうな。と、思う。
ひねくった見方をすれば、
美々しき衣をまとって、「なまぐさ坊主よ、坊主丸儲けよ。」
と指さされる坊主が、必ずしも不二の法を正覚しないということでもないのだ。
色褪せた衣をまとって、食うや食わずの貧乏坊主が、必ずしも不二の法を正覚しているとは限らないのだ。

タイトルRe: 「一遍上人」。。。だから何?
記事No1533
投稿日: 2012/05/26(Sat) 09:56:13
投稿者しんのすけ
参照先http://www.docu21.com/
> だから何?
> 真理をさとられたら、何か現実の問題が解決しましたか?
宗教哲学だけでなく、エネルギーや原子力の問題の専門家もそうです。
学識だけで何も役立てていない、被災された方々のことなど他人事。
学者や官僚達の発想の根底にこの南無阿弥陀仏の一遍上人が「いるのではないか?
はるか平安の昔から現代まで、日本の文化人共通の思想方法なのではないか?だから、社会が良くならない。

> 仏法を学び、正覚を得られたかたは数多おられましょう。
> 今現在も「正覚を得た!」という瞬間を迎えておられるかたがぞくぞくと出現されていることでしょう。
> 現実、正覚を得ることが仏教の示す到達点なのですか?
> 正覚がある。ということを示すだけでよいのですか?
その道で極めるということがすごく評価される、その道をもって他を導くことこそ本来の目的と思うのですけれど
導いていると本人は思っていても、関係の無い高台で指図している。

タイトルRe^2: 「一遍上人」。。。だから何?
記事No1534
投稿日: 2012/05/29(Tue) 12:33:00
投稿者桃青
しんのすけさん

コメントありがとうございます。

> 宗教哲学だけでなく、エネルギーや原子力の問題の専門家もそうです。
> 学識だけで何も役立てていない、被災された方々のことなど他人事。
> 学者や官僚達の発想の根底にこの南無阿弥陀仏の一遍上人が「いるのではないか?
> はるか平安の昔から現代まで、日本の文化人共通の思想方法なのではないか?だから、社会が良くならない。

そうなんです。
一遍上人もそうですが、他の名僧高僧伝を聴いていても、時々、すごくもどかしく思うところはそこ!なんですよ。

真理をさとれば、それで終わりなのか。

如来の原語は「タターガタ」です。
これには二つの読み方があり、
「タター・ガタ」(如にゆける者、真実に至れる者。)であり、
「タター・アーガタ」(如に来れる者、真如より来れる者)なのですよね。

大乗仏教では、「仏は衆生救済の為にこの世に姿を現して人々を救い(如来)、救い終わって去って行く(如去)」と説きます。

法華経は仏に成れる教えだ。と説くのなら、如へ行ったきりではダメなのです。
救わないとダメなのです。
真理を得たのなら、そこに留まってはダメなのです。

私はねー。前にも書きましたが、一遍上人のように真理(空、無自性)を得られかたは、世間のひとが思っている以上にそこここに沢山おられると見ています。
でも、意外に何もなさらない。

中国の簡体字の愛の字には、心がありません。
「ダカラ、中国人の愛には心ナイネー。」
と、中国人は半分真面目な冗談を言いますが、
真理を得ても、仏菩薩の心が無い!
いや、あるはずですね。一念三千ですから。
でも、見えないのですよ。

阿弥陀の本願と言いますが、衆生に真理を得させることだけが、往生させることだけが、本願なのですか?
如から衆生の元へ帰って来なくて良いのですか?
衆生を苦から救済したいと願って法を説かれた釈迦の本意は、どうなったのでしょう?

タイトル宮沢賢治花を売る。
記事No1535
投稿日: 2012/05/30(Wed) 11:59:23
投稿者桃青
> その道で極めるということがすごく評価される、その道をもって他を導くことこそ本来の目的と思うのですけれど
> 導いていると本人は思っていても、関係の無い高台で指図している。

賢治は、花を育てて売り現金収入を得ようとしたこともあったようです。
しかし、誰も買いに来ない。
近所の寺の住職(曹洞宗?)に
「そうやって花を買いに来るのを待っていては誰も買いに来なくて当然だ。
 花を買って欲しければ、自分から売りに行かなくてはいけない。」
と、諭され、自分の間違いに気が付き、
車をひいて花を売りに出かけた。
それでもなかなか売れない。村の農民には、花など買う余裕がないことも解った。
賢治は、毎日毎日、売れ残った花を「どうせ萎れてしまうのだから。」と、帰る道々、村の子供や大人たちに一本、一本配った。
そのうちに、村人たちも打ち解け、賢治の元を訪れるようになった。

=============================
子供のころに読んだ、子供向けの宮沢賢治の伝記に書かれていた話です。

実話なのでしょうか?
記憶を頼りに、こうして書いてみると、何か、例え話のようでもありますね。

タイトルRe: 宮沢賢治花を売る。
記事No1537
投稿日: 2012/06/01(Fri) 08:59:28
投稿者しんのすけ
参照先http://www.docu21.com/
> 実話なのでしょうか?

農業高校の教師を退職して羅須地人協会を立ち上げた大正15年から昭和2年花巻温泉に花壇を創った頃ではないですか?
「下の畑」では花も植えたでしょうから、花売りというより、農業の指導者として羅須地人協会を立ち上げたけど、農民が思ったように集まらないのでいろいろ勧誘方法を考えられた事の象徴的な話ではないですか?

>  花を買って欲しければ、自分から売りに行かなくてはいけない。」
賢治の心は「行ッテ」でありますから初めから、売りに行くことを考えたでしょうが、
同時に相手の事を気遣う人でもありますから、行動を控えていたけれど、そんな住職の話に背中を押されたかもしれませんね。

> 記憶を頼りに、こうして書いてみると、何か、例え話のようでもありますね。
うんうん、まったく確かに。

タイトルRe^2: 宮沢賢治花を売る。
記事No1538
投稿日: 2012/06/02(Sat) 11:18:43
投稿者桃青
しんのすけさん

コメントありがとうございます!
やっぱり、「宮沢賢治のことは、しんのすけさんに聞け!」ですね。

> 「下の畑」では花も植えたでしょうから、花売りというより、農業の指導者として羅須地人協会を立ち上げたけど、農民が思ったように集まらないのでいろいろ勧誘方法を考えられた事の象徴的な話ではないですか?
>

なるほど。
賢治は御洒落で、苦労を苦労としない優雅さを持ったひとですから、勧誘を試行する中で、花を売ることを思いついても不思議ではないですね。

朝は夜明けまえから夜は日が暮れるまで泥まみれで働き、
疲れて風呂にも入らずに、倒れるように寝てしまう。
そしてそのように働いても、十分に食べられないこともある。
それが賢治の生きた時代の東北の農民の姿でした。
賢治は、自分の知識や経験がそんな農民の暮らしが少しでも楽になる手助けになることを願ったのでしょうね。
そして「たまには花でも飾ってみようか、」という心の余裕も願ったのかな。
と思いました。

 
> 賢治の心は「行ッテ」でありますから初めから、売りに行くことを考えたでしょうが、
> 同時に相手の事を気遣う人でもありますから、行動を控えていたけれど、そんな住職の話に背中を押されたかもしれませんね。
>

村人の現実を知っていればこそ、花を売りには行けなかったのでしょうね。


> > 記憶を頼りに、こうして書いてみると、何か、例え話のようでもありますね。
> うんうん、まったく確かに。

ね!!

タイトル宗教は社会を変える力となるのか。
記事No1536
投稿日: 2012/05/31(Thu) 10:18:52
投稿者桃青
知人の掲示板で、某M教のあるかたが、
「宗教は個人に癒しを与える力はあるが、社会を変える力を持たない。」
と、書かれたのに対して、私は
「宗教には社会を変える力がある。」
と、反論しました。

S学会の決め台詞は、日蓮聖人の「心、土」の教えを踏まえて、
「あなたが変われば周りが変わる。」
「個人が変われば、社会が変わる。」
であるが、日蓮門下でなくても、仏教を基礎から学んだものなら、
個人の意識が社会を造っているのであるから、宗教が社会を変える力となることも確かにある、と思うだろう。

その方は、高校生のころに「某M教会こそ、良い社会をつくる教えだ。」と、情熱に燃えて入信されたということだったので、
某M教の実情に直面して宗教というものに失望されたのかもしれない。

が、その某M教会自体、某M教らしい意識を持った人々が集まって、某M教らしい独特の場、すなわち社会を作っているでしょう。
その某教教らしい独特の場を作っているものは、そこに集まる人々の意識を左右していう某M教という宗教なのではないですか?
と、指摘したが、
「いかにもバカが考えそうなことだ!」と罵倒された。
重ねて
「言いたいことがよく伝わらなかったのでしょうか?」
と、尋ねたら
「あなたがバカだということがよく伝わりました。」
と、返答が来た。

うーん・・・。
私に「あのかたは、私に似ている。仏教的な考えの持ち主だ。」と、告げたかたよ!
どこが仏教的な思考の持ち主?
身近な例をあげての「心、土」も伝わらないではないじゃあーりませんか。(笑)
マータイさんだって、「国を変えるのは国民の意識です。」と言ったのに。

そのかたは、その後もしばしば「宗教は、個人に癒しを与えるもの。社会を変える力はない。」
と、書かれたが、それを目にする度に、
「某M教はね。」
と、心の中でつぶやくことにした。

でも、某M教会という集団(社会)は、傍みればやっぱり某M教らしい匂いがする。
その匂いの元は、やっぱり、某M教の教えであろう。