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タイトルコストパフォーマンス
記事No1551
投稿日: 2012/06/22(Fri) 16:36:39
投稿者桃青
最近、コストパフォーマンスでモノを見るひとが増えた。
というより、自由競争社会では競争の結果はカネの単位で計測されるので、勝負に勝つ工夫をするに当たってコストパフォーマンスを考えることは当然なのであろう。

昨日、御住職と雑談する中に、
介護する家族が、介護の経済的負担が続くのが耐えられないので
「早く死んで欲しい。いったいいつまで生きるのか。」
と言われる。
という話を聞いた。
老親の介護ゆえに家族揃って文字通り生活できないというレベルの経済的困窮ならば福祉の出番であろうが、経済的に追い詰められるほどではなくても、老親の介護負担が介護人の生活レベルを下げるということはある。
「親の年金をあてにして、生きていた方がよい、ということもないわけじゃないけれど、
 年金を超えての負担が大変だと言う家族のほうが多いですよ。
 そうなると、自然に早く死んで欲しいとも思いますわね。」
と、御住職は話された。
確かに、介護保険を利用し、どんなに経費を削っても、最低10万円前後の負担はかかる。
国民年金は5万円である。

老親の介護をコストパフォーマンスで考えたら、これほど割に合わないものはない。
介護に家族がどれだけ時間とカネをかけても、戻って来るものは何もないのだから。
要介護者に対して心から「どんな姿でも生きて息をしていてくれるだけでよい。」というくらいの執着でもあればともかく、それが無ければ、介護は苦痛そのものとなって家族にのしかかって来るだろう。

タイトルRe: コストパフォーマンス
記事No1552
投稿日: 2012/06/22(Fri) 19:02:07
投稿者桃青
老親の介護を家族単位でみれば、コストパフォーマンスは最低である。
家族が投下した時間がカネが労力が、生み出すものはない。
家族へ返ってくるものは何もない。
生産性はゼロと言ってよい。
介護を支えているのは、コストパフォーマンスとは全く関わりのない使命感と義務感、そして情なのだ。

国家単位でみれば、どうなのだろう?
介護産業を成り立たせているから、要介護老人には生産性があると見るのだろうか?

タイトル身を任せる
記事No1553
投稿日: 2012/06/23(Sat) 12:02:20
投稿者桃青
御住職に「早く死んで欲しい。と思う」と言った介護者は、御住職を信頼しているからこそ本音を言われたのでしょう。

普通は、そこまでなかなか言えないものです。
「苦しい」と言ってしまえば楽になり、また荷物を背負いなおすことができるということもあるのでしょうね。

最近は「85歳以上の4人にひとりは認知症になる。」と言われていますね。
そのせいか、「認知症の予防」ということがメディア等に取り上げられることも多くなりました。

でも、どうなんでしょう。
認知症の予防になると言われているようなこと全部を母はしていましたが、認知症になりました。
伯父は、下手なモ○モンなら足元にも寄れないくらい道徳的な生活をして、会社を経営し晩年まで他人が経営や人事の助言を求めにくるほど冴えた頭脳の持ち主でしたが、認知症になりました。
私の周囲をみても、認知症になったひととなっていないひとと、その生活にさして違いはありません。

認知症はなる時には、なる。
実際に認知症の家族を介護するひとは、
「認知症の予防などできない。NHKも罪なことを放送する。」
と、言われます。

「自分は認知症にならないようにしよう。」という方向性でしかメディアは認知症をとりあげませんが、
「自分が認知症になったら、どのように生きよう。か、決めておこう。」と言う方向では話をしないのですね。

どんなになりたくない、と思っても、なる時にはなるんですよぉ〜。
4人に一人ですよぉ〜。
ガンは2人に一人だそうですが、認知症もかなりの確率の高さですよぉ〜。

イザ、自分が認知症になって慌てないように「認知症の自分は、どのように生きたいか。」という決意をだんだんに作って置いたほうが良いですよ。
と、説くのも宗教の役目のような気がします。

タイトルRe: 身を任せる
記事No1554
投稿日: 2012/06/23(Sat) 18:31:52
投稿者桃青
認知症になったら・・・法座では、仏に身を任せるとよい。と説かれます。

仏に身を任せるって、どういうことでしょうね。
仏に身を任せて生きているかたは、具体的に日常をどのような心持で生きておられるのでしょうね。

人間の儚さを知ってしまった私としては、人間の儚さがすっかり腑に落ちることも、仏に身を任せるの一種なのかもしれないね。
と、思っておりますが・・・。

タイトルRe^2: 身を任せる
記事No1556
投稿日: 2012/06/25(Mon) 10:23:18
投稿者桃青
法座で「仏に身を任せる」と話されると、どうも、気になってしかたない。

そ・れ・は
もしかして、講師はキリスト教の「神にすがるしかない。」や
真宗の「阿弥陀様にお任せするしかない。」的に、
「仏様にお任せして。」を、捉えているのではないか。
という懸念です。

「仏の知恵の中に生きる。」も、もしかしてキリスト教の
「人間の知恵を離れて、イエス様だったらどうするか。と考えて行動する。」的に、この講師は話しているんじゃないか。
という懸念です。

仏の知恵、も、仏に身を任せるも、キリスト教的に捉えては、
その理解は「人間が身につけるべき徳目を説いているのだな。」で止まってしまいそうで、心配でならない。
徳目を並べて、こうなりましょう。では、人間の問題は解決しない。
講師はわかっているのかな?
だいじょうぶかな?
「誰にもどんなものも使命を持って生まれた。
 たとえば人間に食べられている動物は人間に美味しく食べられる使命を持って生まれた。」
などと言い出す講師なので、心配でたまらない。
この講師、菩薩の特性を大いに備えたかたなので、余計な心配ならよいのですが・・・。
「仏の智慧」とは「空」のことなのだ、ということを全く言わないと、聞く方は絶対に誤解すると思うよ。