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タイトル頭の中だけが土ではない。
記事No1558
投稿日: 2012/06/28(Thu) 09:55:22
投稿者桃青
「宗教は、個人に癒しをあたえるが社会を変える力はない。」
と、某M教のあるひとが言った。

某M教は新会員を勧誘する惹句に
「人生の本当の目的を知りたいと思いませんか?」
を使う。
確かにねー。
自分の人生ばかり見つめたり、自分の頭の中ばかりを見つめたり、
つまりは「自分がどうなりたいか。」を考えるヒントにとどまる宗教なら、そうかもしれない。
眼が向いているのは、「自分」だけだもの。

でもね。
宗教の中にはね、どういう社会なら人間が暮らしやすいのか。
を考えるヒントを与えてくれるものもあるのですよ。

「浄土と云い穢土と云うも土に二の隔てなし 」一生成仏抄

土はね。個人の身体や頭の中ばかりを指すのではないのです。
頭の中ばかりを覗くに留まるのなら、心理学や精神医学である。
身体健全、六根清浄だけにとどまるのなら、医学である。

浄土は広い。個人の身体を超えて。

タイトル『未完のファシズム』
記事No1559
投稿日: 2012/06/30(Sat) 18:08:46
投稿者桃青
 日本にファシズム的なものがあったとすれば、田中智学と石原寛治の法華経信仰団体国柱会だと、福田和也氏は『未完のファシズム』片山杜秀(新潮社)
の評論で言う。

涅槃静寂の浄土を願うと何故ファシズムと言われるのだ?
わからん。まったくわからん。
氏から見ると、『銀河鉄道の夜』でジョバンニが言う
「ぼくたちここで天上よりももっといいところをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
という言葉も、宮沢賢治がもつファシズム的傾向を示しているということになるらしい。(@_@;)

ナチズムがユートピアを目指していたからといって、法華経信仰の浄土への願いをファシズムと直結させて考えるのはいかがなものか?

タイトルRe: 『未完のファシズム』
記事No1560
投稿日: 2012/07/01(Sun) 06:57:22
投稿者しんのすけ
>  日本にファシズム的なものがあったとすれば、田中智学と石原寛治の法華経信仰団体国柱会だと、福田和也氏は『未完のファシズム』片山杜秀(新潮社)
> の評論で言う。
福田和也氏は『未完のファシズム』を読んでいないので、なんともいえませんがファシズム=右翼と捕らえると全然違うけれども、指導者のカリスマ性でいけば、頷く点もある。
ただ、戦前の日蓮系諸団体の活動を全て「国柱会」になすりつけて語る傾向が世間にあるけれども、実際は所属宗派もばらばらでナチスのような一つの組織による統一性はない。
それと石原寛治は国柱会の会員ではあるが、実際、会を率いての活動はない。もっと組織を逸脱している。
戦後、拡大した某宗教団体とは違い、自己の宗派や団体の拡大には両者とも無頓着で、己の理想を具現化しようとしたに過ぎない、もし、それをファシズムと呼ぶなら、それはそれで良いし、その場合のファシズムの何処が悪いのだろうか?

タイトルRe^2: 『未完のファシズム』
記事No1561
投稿日: 2012/07/01(Sun) 07:12:23
投稿者しんのすけ
「ファシズム的」とはなんだ?
定義はずれるかもしれないけど、某M教やS会などは自己組織以外を排除する傾向が非常に強い。
その主張する教えを信じることより組織に入会する事を優先する。
最近流行のボランティアやそれに類似した交流組織も、本来の設立目的よりもその組織の維持拡大が優先され本来の活動意図が見失われているように思える。
人は群れて集団を作る、一番危険なのは指導者のカリスマ性や自己の理想へ邁進なのではなくて、組織への依存性、組織そのものへの礼賛だと思う。

【 投稿者により修正されました。】

タイトルRe^3: 『未完のファシズム』
記事No1563
投稿日: 2012/07/02(Mon) 12:12:37
投稿者桃青
> 「ファシズム的」とはなんだ?
> 定義はずれるかもしれないけど、某M教やS会などは自己組織以外を排除する傾向が非常に強い。
> その主張する教えを信じることより組織に入会する事を優先する。

ファシズムといえば、一般にはナチズムと同義的に理解されていますが、
本来は、ナチズムはファシズムの一つなのだそうですね

ナチズムは、ゲルマン民族の理想社会実現を目指したものですから、
自らをイスラエルの部族民と位置付け、イスラエルの部族民の理想社会の実現を目指す某M教は、思想面ではナチズムに似ていると言えなくもない。
ファシズムは日本語では「国家社会主義」と訳されますが、
某M教の創始者が提唱した「奉献の律法」は、原始的な共産主義ですから、神という絶対者からの啓示をもとに奉献の律法でいったん幹部のもとへ教団の富を全部集め、ひとつの財布で会員全部の生活の面倒をみようとした創始者の発想はシンプルな国家社会主義といえるかも?
です。

組織だけの繁栄を具現化しようという組織の中に入っていると「自分達だけの理想社会を目指すどこが悪い。」と、しか思えないみたいなのですよね。
でも、そういう志向は、少なくとも仏教的ではない。

> 最近流行のボランティアやそれに類似した交流組織も、本来の設立目的よりもその組織の維持拡大が優先され本来の活動意図が見失われているように思える。

組織が大きくなると、たとえボランティア活動と言えども、利権が生じるのです。
その利権の旨味を知ってしまうと、その旨味が大切になって、初期の純粋な思いが薄れて行ってしまうのですね。
どこでも似たような様相になるのかなあ、と見ていますが。。

> 人は群れて集団を作る、一番危険なのは指導者のカリスマ性や自己の理想へ邁進なのではなくて、組織への依存性、組織そのものへの礼賛だと思う。

組織とアイディンティティーが一体化して、組織抜きに自分を保てないひは、そこに組織があれば必ず出て来る。
また組織というものは、そういうひとがいなくては存続できないということもあるのでしょうね。

日本を救うものは「愛国心」だ。
と言われ、私も全くそうだと思います。
ただ私の「愛国心」は、ナチズム的、某M教的に「民族だけの繁栄」を願うのではなく、世界の人々から尊敬される国になって欲しいという願いへ向かうのですけれど・・・。
某M教などは「私たちは、世に称賛されるひとになりましょう。」と、言ってますけれどね、そもそも「自分だけが良くなることばかり願っているひと」を世のひとは称賛すると思ってるの?
って、いつも思うのですけどね。

「しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は自身の得道猶かなひがたし」(開目抄)

世の中には日蓮聖人のこの言葉を「我田引水」「我が仏尊し」と同義だとしか捉えて、論じるひともおられますが、日蓮門下であっても、この言葉で己のプライドを満足させるに留まっているかたもおられる。
せっかく法、法華経、日蓮聖人の言葉に出逢いながら、もったいないなあ。

タイトルRe^2: 『未完のファシズム』
記事No1562
投稿日: 2012/07/02(Mon) 11:32:08
投稿者桃青
> 福田和也氏は『未完のファシズム』を読んでいないので、なんともいえませんがファシズム=右翼と捕らえると全然違うけれども、指導者のカリスマ性でいけば、頷く点もある。

ファシズムと、指導者のカリスマ性は切り離せない関係なのですか?

> ただ、戦前の日蓮系諸団体の活動を全て「国柱会」になすりつけて語る傾向が世間にあるけれども、実際は所属宗派もばらばらでナチスのような一つの組織による統一性はない。

話は、ずれますが・・・。
上海事変の端緒は、布教活動中の日蓮宗の僧侶が殺されたことでしたが、
どの宗派だったのか、中国での布教活動がどのようなものだったのか、語られることはありませんね。
日本の中国侵略を語るときには、毎度「日本軍の謀略により日蓮宗の僧侶が殺された。」とだけ説明される。
当時の中国には大勢の有名無名の日本人がいたでしょうに、何故日蓮宗の僧侶が謀略の対象となったのでしょうね?

> それと石原莞爾は国柱会の会員ではあるが、実際、会を率いての活動はない。もっと組織を逸脱している。

そうですね。

> 戦後、拡大した某宗教団体とは違い、自己の宗派や団体の拡大には両者とも無頓着で、己の理想を具現化しようとしたに過ぎない、

理想を具現化したいという願いを、利用する者もいたし、
おのれを利用する者を利用して、理想を具現化したいと願う者もいた。
ということなのかな?

>もし、それをファシズムと呼ぶなら、それはそれで良いし、その場合のファシズムの何処が悪いのだろうか?

いや、やっぱり良くない。
宮沢賢治や田中智学をファシズムで読むのは、どうみてもお門違いでしょう。
浄土を願う=ファシズムだと言われたら、浄土を願えなくなるではありませんか!(笑)

タイトルRe^3: 『未完のファシズム』
記事No1564
投稿日: 2012/07/02(Mon) 23:58:38
投稿者しんのすけ
> ファシズムと、指導者のカリスマ性は切り離せない関係なのですか?
ファシズムは、単一集団による政治的独裁ですから、指導者は必須です。
現実の能力は別として、政治的、軍事的に雄弁で行動力がある指導者、ムッソリーニ、ヒットラー 日本の戦前にはそんあ指導者はいなかったと思う。今もそうだが日本では大衆が直接支持持ち上げられるする政治家やそのシステムは無いと思う。だからm人気のあった田中智学や石原莞爾に白羽の矢があたたった?

> 話は、ずれますが・・・。
> 上海事変の端緒は、布教活動中の日蓮宗の僧侶が殺されたことでしたが、
> どの宗派だったのか、中国での布教活動がどのようなものだったのか、語られることはありませんね。
 日本山妙法寺の僧侶ですね、既成の伝統宗派の僧侶は、「阿練若に 納衣にして空閑に在って」ですから危険なところへは行きません。

タイトルRe^4: 『未完のファシズム』
記事No1565
投稿日: 2012/07/03(Tue) 11:27:44
投稿者桃青
> > ファシズムと、指導者のカリスマ性は切り離せない関係なのですか?
> ファシズムは、単一集団による政治的独裁ですから、指導者は必須です。

なるほど。
福田氏によれば、一党独裁だけではファシズムとは言えないのだそうです。
福田氏は
日本で一般にファシズムだと言われる大政翼賛会は、為政者によって組織されたのでファシズムではない、と言っています。
で、ファシズムと言えるのは大衆から出た国柱会だったと。

どうも福田氏がファシズムとするには、
理想社会実現への希求があること。
大衆から起きた。
この二つの要件は外せないようですね。

今の時期にこういう本が出るのは、「ファシズムを目指す。」と、言った橋下氏の人気が高まっているので、出版社が「売れる」と見たからなのかなぁ?

「ファシズムの根底には理想社会を作りたいという願いがある。」
と、論じる氏の狙いは、橋下氏へのエールなのか??
御自身の「民衆から生まれた真の指導者」に率いられて理想社会を作りたいという、「真の指導者」への憧れなのか??

> 現実の能力は別として、政治的、軍事的に雄弁で行動力がある指導者、ムッソリーニ、ヒットラー 日本の戦前にはそんあ指導者はいなかったと思う。

天皇を持ちだせば全てOKのシステムがありましたからね。

>今もそうだが日本では大衆が直接支持持ち上げられるする政治家やそのシステムは無いと思う。

大統領制を、という声も聞きますが、直接に選んでもなー、
南米でもアメリカでも、大したことないでしょう?

>  日本山妙法寺の僧侶ですね、既成の伝統宗派の僧侶は、「阿練若に 納衣にして空閑に在って」ですから危険なところへは行きません。

当時の上海の日本租界には、各宗派宗門の寺院が建設されて、中国への布教にも意欲的だったことが、当時の記録から伺えますが、
租界地の外へ出ることはなかったのかな?
と、思いました。

タイトルRe^5: 『未完のファシズム』
記事No1566
投稿日: 2012/07/04(Wed) 11:00:50
投稿者桃青
福田和也氏は、
ファシズムの根底には理想社会実現への希求がある。
理想社会実現への希求を持った大衆から起きたのではなくては
真のファシズムではない。
と、いうようなことを書いているが・・・。

理想社会の実現を目指しているといえば、聞こえがいいですが、
理想社会もひとそれぞれ、ですね。
それこそ、冷蔵庫の裏は、の世界です。
理想社会を目指している。と、言っても、その理想社会の中身や実現に至る手法は、よくよく吟味されなければならない。


某M教のひとは、よく
「某M教をただの宗教団体だと思うのは、大間違いだ。
 某M教はねー、そこらの宗教団体とは違うんだから!」
って、言われます。
私からみれば、どこから見てもどこにでもあるような「ただの宗教団体」としか見えないので、「ただの宗教団体でしょ?」て、言うと
「何も解っちゃいない!」て、怒るんです。
「他の宗教団体とどこがどう違うんですか?」て尋ねても
決して「他の普通の宗教団体との相違点」を、話してくださらないんです。

私、「お前には解らない。」と、言われると
「解りたい!」て、思ってしまう性分なんですね。
こうか、ああか、と答えを常にどこかで求めていて、
何年もたって、「あ!こういうことか。」と解ることもあるし、
解ったと思っていたことが、何年もたってから、そうではない、と解ることもある。

で、「自分達は、そこらにあるようなただの宗教団体ではない。」
と言われる根拠はなんだろう?
て、疑問はずーっと持っています。

で、「日本にファシズムがあったとすれば、国柱会だ」と言う福田氏の解説を読んで、もしかしたら・・・と。思った。
ある某M教のかたが、
「宗教は個人に癒しを与えても、社会を変える力がない。」
と、断じられるのは、若き日「某M教によって理想社会が実現する」
「少なくとも某M教会の中には、理想社会がある。」
と、希望をもって信じた裏返しではないか。と。
「他の普通の宗教団体とは違う。」というのは
福田氏言うところの「ファシズム」、つまり大衆から起きた、理想社会実現運動だと言いたかったのかな?

某M教で理想社会を実現する、ねー。
某M教の「自分達だけが至高の高みへ。」という教義に従ってつくられる社会が、理想社会とは、私には思えないけど。

タイトル『自由からの逃走』
記事No1568
投稿日: 2012/07/06(Fri) 10:49:01
投稿者桃青
ファシズムへの考察としては、有名な『自由からの逃走』がありまして、某M教会員の中には、『自由からの逃走』を某M教の擁護に使うかたもおられます。
「人間には、束縛されたい、支配されたい。という欲求がある。某M教は、そういういう人間の本質から生まれた本当の宗教である。
仏教は論を説くばかりで、そうした人間の束縛されたい、支配されたいという願いに応えようとしないから広まらない。」と。
もっとも人間の普遍的な本質に応える宗教と、おっしゃる割には、日本では広まってないようですが・・・。

福田氏は「理想社会の実現への希求」をファシズムを考察するキーワードとしているようですが、
確かに「人間、あまりに自由だと戸惑う」「束縛されたい。支配されたい。」だけでは、人間がファシズムへ参加して行く説明とはならないところもありますものね。

自分よりも優れて大いなるひとについて行きたい。
理想社会をつくりたい。
経済的に安定し、物心共に豊かになりたい。
そんな願いを一挙に叶えてくれそうだから、「その」集まりに参加して行く?