タイトル | : 老人と若者 |
記事No | : 1602 |
投稿日 | : 2012/08/03(Fri) 09:23:15 |
投稿者 | : 桃青 |
老人は老人であるゆえに、若者を嘆く。 若者は若者であるゆえに、老人を厭う。
私には、どちらも全く同じに見えてしかたがない。
この若者は、自分が厭っている老人になるのであろう。 この老人は、自分が嘆いている若者であったのであろう。 と。
厭うには厭う根拠があり、 嘆くには嘆く根拠がある。 各々自分の嘆きや厭いに対応する根拠は正しいと思うがゆえに、 相手の嘆きや厭いにも、自分と同じくらい確かな根拠があるとは 思えないのだ。
各々が自分の根拠にしがみついている。 仏教ではこのような現象を愛アラヤで説明しているが、 仏教の教えを特に聞いた者でなくても、世間にはこの現象をよく理解している者は多く居る。 が、 「自らに降りる聖霊(御霊)のささやきを頼りに生きよ。」を根本教理とする、すなわち「自らが得たもの」を正しい根拠として生きよ。と教える某M教会員で、「それぞれが、それぞれの根拠をもって生きている。」という話が通じるひとに出逢ったことがない。 たまに「確かに、それぞれそう思う根拠はあるだろう。」という者がいるので、通じたかと思えば、 「確かにいろんな根拠があるけれど、私の根拠は確かに正しい。 私の根拠が確かに正しいということは、私の根拠とは違う他の者の根拠はいい加減で間違っているのだ。」と言う。 そう思っているうちは、他の者もまた自分と同じような確かさの根拠を持って、嘆いたり厭ったりしているのだ。 という事実を事実として認識することは、難しい。
某教のようなモノの見方考え方では、立場の違う者同士は争って、相手を打ちのめして傘下にいれるか、相手に打ちのめされて相手の傘下に入るしかないということになる。 どちらかに結着しないと不安でたまらないのだ。
そのような某M教徒同士で老人と若者の立場を語る場合、若者が老人を厭うのに加担する者、老人が若者を嘆くのに加担するものが互いに相手を叩きのめそうと争う様子は、 まるでゴヤが描いた「足を地面に埋めて互いに相手を棍棒で打ちのめそうと争う二人の男」にそっくりだ。
某M教ばかりではない。 昨今は、どうも「正しいか正しくないか。」の二元論でモノを見たり考えたりする風潮が高まってきているようだ。 まだ、今の日本には「二元論的世界観」に警鐘を鳴らす者が数多くいるが、そのうちに足を地面に埋めて棍棒で叩きあう者の声ばかりが声高になって行くのだろうか。
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