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タイトル久遠のいのち
記事No1620
投稿日: 2012/08/22(Wed) 18:39:42
投稿者桃青
日蓮宗では「久遠のいのち」と申します。

もとは、寿量品ですが、仏教が人間の生死をどう捉えているか、
に関わる「久遠のいのち」です。

この「久遠のいのち」がねー。
せっかくの「久遠のいのち」がねー、もったいないないことに、一般信者向けにはお伽話のように説かれることが殆どなんですよー。

私ね、お伽話のように説かれる人間のいのちの話を聞くたびに、
心の中で「なんとかしてくれー」って、叫ぶのですよ。
こんなお伽話を聞いて、「如来の命と同じく、人間の命も久遠なのだ。」と知る法悦が解るのだろうか?
と、心配になってしまう・・・。

でも、たぶん、お寺へ来て、お説法を求めるかたというのは、お伽話が好きなのかなー。
だから、こういう説き方で寺へ引きつけるのもアリなのかな。
と、思い直すのですね。

だってね。
某M教の「死後また家族そろって暮らすことができる方法がある。」
というお伽話に惹かれて、信者になった。という方々もいるし・・・。
宗教をもとめるひとって、結局宗教にお伽話を求めているだけなのかなー。とがっかりしちゃう・・・。

ほいでもなー。
親鸞に傾倒する五木寛之氏は、鴨長明みたいに「川の流れ」に「人間の生死」を重ねて、これが結構世間では評判がいいじゃない?
久遠の命も川の流れも、言わんとするところは、一緒ですよー。
ともすれば老荘的になりやすい「川の流れ」よりは「久遠のいのち」のほうが、より仏教的だと思うけどなー。

タイトルお伽話と常見
記事No1621
投稿日: 2012/08/24(Fri) 10:15:05
投稿者桃青
「久遠のいのち」が、何故、説き手、聞き手によってお伽話にされてしまうかといえば、理由は簡単です。

それは、
説き手、聞き手が、「常見」をもって、久遠のいのちを理解しているからです。

口で諸法実相、を唱えながら、
現実の実相を見ないからです。
現実の生死の実相を見ないで、生まれてどこかで身に付いた「常見」を表象として、表象ばかり見ているからなのです。
 *表象:哲学・心理学で、直観的に心に思い浮かべられる外的対象像をいう。知覚的、具象的であり、抽象的な事象を表す概念や理念とは異なる。心像。

せっかく、現実の生死の実相(空相)を「久遠のいのち」と表現しているのに・・・・。

タイトルRe: お伽話と常見
記事No1622
投稿日: 2012/08/24(Fri) 17:10:50
投稿者桃青
常見で命の永遠を語るひとは本当に多い。
某M教もキリスト教も「永遠の命」を常見で教えるが、
「天国から見守ってください。」「天国で幸せに暮らしてください。」に類した会話は、ごく日常的に交わされていますね。

そいういう想いが悪いというのではない。
そういう想いもまた人間のやさしさの表れなのだろう。

ただ、仏教がみつめた生死の実相は常見も断見も超えて、大きく深い。
そう、あまりに大きく深い。

私は、常見のお伽話や断見のニヒルに出会うと、
ひっそりと唇の端をあげて、夢殿救世観音の頬笑みを真似てみる。

ああ、現実はもっと大きな世界なのに、ああ、もっとやさしい世界があるのに。と。。

タイトルRe^2: お伽話と常見
記事No1623
投稿日: 2012/08/25(Sat) 17:19:25
投稿者桃青
常見で語られる物語はウソ臭い。
かと言って、断見でも何か違う。

タイトル断見かと思ったら・・・。
記事No1625
投稿日: 2012/08/27(Mon) 10:37:41
投稿者桃青
以前、某M教のかたで
「自分が死んだら生ごみの日にでも出してくれたらいい。」
と、書かれたかたがいた。

常見を説く某M教の信者にも、断見を持たれるかたがおられるのだな。
常見のウソ臭さを見抜いておられるのか?
それにしては、「永遠の家族」という教義は、深く信仰されているようなところがあるし??

と、思っていたのだが、断見的達観からの言葉では無かったようだ。

これは、某M教が説く常見への信頼が、
「死んだら生ゴミ」という言葉になったのだった。

キリスト教、某M教共に、肉体とは関わりなく存在する個の霊魂を説く。
常見では、死とは、霊魂と肉体との分離を意味する。
某M教の死生観では、死んだら霊魂の溜まり場へ行き、復活の時に理想の肉体を与えられるというのであるから、現在の肉体は死んだら生ゴミだと言うのであろう。
日本人は遺体収集に熱心だが、キリスト教圏では、日本人ほど遺体に拘らないというのも、霊魂こそが個人そのものであり、肉体は現世を過ごすためのウェアだといういう感覚から来るものであろうか?
臓器移植に関しても、日本人は「誰かの身体の一部となって生き続ける。」という捉え方をするが、肉体とは関わりなく個の霊魂が存在するという感覚であれば、肉体は衣服と同様にいかようにもリサイクルできる素材という捉え方なのだろう。
この延長が、ナチスドイツが行ったようにユダヤ人の毛髪からブランケットを作ったり、肉体から油を採って石鹸にするところまで、行ってしまうのかもしれない。

それはともかく
常見を説く宗教の信仰者が、「人間死んだら生ゴミ。」と、言われるのを、断見だと見るのは誤解であった。
同じ言葉でも、それに込められた思いというか、その言葉のよってたつものが違う。
ということを今回もまた、知った。

うん!仏教の縁起の教えは正しい。

タイトル克美しげる
記事No1626
投稿日: 2012/08/27(Mon) 12:06:39
投稿者桃青
仏教がみつめた生死の実相は常見も断見も超えて、大きく深い。

常見はウソが臭いし、断見はニヒルが冷淡。

生死の実相は、ただ大きく深く清浄なだけです。


克美しげるの事件が起きたのは、私がまだ子供だったころです。
朝刊の一面に載った刑事たちに脇を固められて飛行機のタラップを降りる克美しげるの写真をうっすらと覚えている。
しばらくマスコミや大人達が騒いでいた記憶もある。
後年、様々に検証されたものを読んで、あれは、そういう事件だったのか。
と、知った。

そうした様々な検証のなかに、心に残っている記事がある。
移送の飛行機が、東京上空に来たとき、つきそった刑事さん(名物刑事とも称されるかただったようです。)が、眼下にひろがる街を見るよう克美しげるにうながして
「はるかに大きなものから見れば、君が女に苦しんだこと、そしてその女を君が殺してしまったことなど
 ちっぽけな、ほんとうにちっぽけなことなんだよ。」
と、諭した。
克美しげるはそれを聞いて、号泣した。
と、言う記事です。

初めて読んだときは、ひとりの女性を殺したことが、なぜちっぽけなんだ?!
と、わけがわかりませんでした。
なので、ずーっと、心に残っていましたが、
今は、その刑事さんが言わんとしたことがたぶんわかる。

言葉にしようとすると難しいのだが、
すべての克美しげるなるものに、全ての岡田裕子なるものに、懺悔し、供養するしかないのだ。
そんなところだろうか。

タイトル久遠のいのち、と先祖供養
記事No1624
投稿日: 2012/08/25(Sat) 17:27:33
投稿者桃青
常見ではない「久遠のいのち」から、説き起こされた先祖供養の話を、寺々で、当たり前のように聞く日がいつか来るのだろうか?



たぶん、来ないだろう。
ひとびとは、そんな先祖供養を求めて、寺へは来ない。という理由で。

またたとえ、語るほうは「久遠のいのち」の供養を語っても、
聞くほうは、常見で「いつも通りの話だ。」と受け止めるかもしれない。

タイトル後世がなければ
記事No1627
投稿日: 2012/08/28(Tue) 12:31:52
投稿者桃青
さて、皆さん!

後世が無ければ、悪いことをしようと思いますか?
後世が無ければ、したい放題しよう!と思いますか?

そう思うひともいるでしょうが、そう思わないひともいるのではないでしょうか?

例えば、乱開発で資源が枯渇してしまう。
と、警告されても、「じゃ、今のうちに獲れるだけとっておこう。」という方向へ行くひともいれば、
乱獲をやめる算段を考える方向へ行くひともいる。

死後の罰で脅されても、やりたいようにやるひともいれば、罰があろうがなかろうが、身を律するひともいる。
人間とはそういうものじゃないですか?

で、何が言いたいかというと、
「久遠のいのち」の前振りに
「もし、後世がなければ、善いことをしようとは思わないでしょう!」
と、言われると何だかがっかりするということです。
そういわれると、道徳を超えて善悪の彼岸をみつめている。といわれるせっかくの仏教が、とたんに、単なる道徳宗教になってしまうように感ずるからです。

それに、
「もし、後世がないとしたら」って、ね、、、
久遠の命ですからね!
久遠のいのちを理解していたら、
「もし、後世がないとしたら」という言葉は出て来ないと思うのですけれど。。。