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タイトル避難指定マンション
記事No1628
投稿日: 2012/08/30(Thu) 10:50:27
投稿者桃青
昨日、東南海地震が起きた場合の被害予想が発表された。
南海トラフ上で複合的に地震が発生すると、20mの津波に襲われる地域もあるという。
津波が到達すると予想される地域では、避難方法を模索している。

避難場所の絶対数の不足から、高層マンションを避難場所に指定する試みを紹介していた。
賃貸マンションの所有者は指定をおおむね受け入れるが、分譲マンションの住民は、ほぼ全員と受け入れを拒否している。
という報道がされていた。

賃貸マンションの住民の意見は、
「大家が受け入れるというのなら、店子の身としては、受けいれるしかない。」
分譲マンションの住民が、避難所指定を嫌がるのは
「避難してくるひとは善いひとばかりではないから、非常時に知らないひとが、自分のテリトリーに入って来るのは怖い。」「避難生活が長引けば、自分達マンションの住民の生活権が侵害される。」
というあたりに集約される。

様々なことを考えた。

タイトルRe: 避難指定マンション
記事No1632
投稿日: 2012/09/03(Mon) 11:58:04
投稿者桃青
報道によれば
 20mの津波が到達することを想定下場合、その地域では
安全高台は遠くなるので、高台への避難が間に合わないひとが出て来るとの予想される。
その場合地域にある高い建物を一時避難場所に活用しようという流れの中で、マンションの共用部分を一時避難場所にするという案が浮上したということだった。

と、いうことは、住民が避難場所になるのは嫌だといっているマンションも津波の際には、下層部分は津波に沈むということであろう。
迫りくる津波に追われて、高台へ行くにはもう間に合わない、と判断したひとが、高い建物に駆け上がろうとするかもしれないので、マンションの入り口は固くしめて、入れないようにしようと思うのだろうか。
外出していたマンションの住民が、高台へ行くより自分のマンションにいた方がまし、と判断してマンションへ戻って来ても、入口は固くしめられ、もう入れないということだろうか。

どのみち20Mの津波が押し寄せるような地震なら、マンションの戸口システムも無事でいられるかどうかわからない。
どんなに「此処へは来ないで!」と、思っていても、
結局否応なく必死の思いの人々が、マンションへ入って来てしまうのではないだろうか。
入って来て欲しくないからと、マンション住民は力で排除するのだろうか。

タイトルRe^2: 避難指定マンション
記事No1633
投稿日: 2012/09/03(Mon) 12:31:29
投稿者桃青
おそらくマンションの住民たちは、後ろに津波が迫っている者が、津波を避けるためだけにマンションに入って来るのは拒まないが、
津波が去ったあとも何日かをそこで寝起きされるのは困る。
というのであろう。

井戸に落ちようとしている子供の喩が、よく講話ではなされるが、
井戸に落ちようとしている子供を咄嗟に助けたら、「お前、助けたんだから、家に連れ帰って独り立ちするまで面倒見ろ」
といわれたら、さぞかし困るだろう。

タイトル大きな政府、小さな政府
記事No1634
投稿日: 2012/09/03(Mon) 19:08:27
投稿者桃青
某M教の本国では、以前より大きな政府、小さな政府が政策論争の主題のひとつとなっている。
日本でも、最近はアメリカ風に諸々の行政に関わる問題を大きな政府、小さな政府という括りで論じる者も出てきた。

大きな政府、小さな政府比較とは、どうも、大きい財布、小さい財布、とでも言いかて論じたほうが解りやすそうだ。
プラス、そこにどこまでが自己責任なのか、という問題が絡んでいる。

徹底した自己責任を説く某M教のひとびとは、当然小さな政府の支持者が多い。
某M教の幹部の説教が繰り返し言っているのは、振りかけられた宗教的なトッピングを取り去れば「自己責任」「行いの結果を受け取る」だけである。

マンションの避難所指定という問題にも、大きな政府、小さな政府、そして、どこまでが自己責任なのか、という問題は潜んでいる。

タイトルRe: 大きな政府、小さな政府
記事No1635
投稿日: 2012/09/04(Tue) 16:09:34
投稿者桃青
私の結論を先に言えば、
小さな政府を目指しても、結果的には支出先が変わるだけで、
財布を小さくすることはできないだろうと予測されるので、
小さな政府というスローガンに騙されてはいけない。
と、いうことです。

自己責任とか自由競争の結果とか彼らは言いたがりますが、
そもそも全員がその出発点が同じで、資質も、環境も同じところで競い合うのなら、確かに結果は自己責任でしょうが、
出発点から何から、全部違うものが競い合うのですからね。
本当の意味での自由競争など、これまでにも行われなかったし、これからも無いでしょう。
無いものを前提として論議をするのは無意味ではないでしょうかー。
競い合いたいのなら、無秩序な奪い合いと占有にならないように、ルールを決めて競い合うしかないって、思うのですが、
自己責任という思想に取りつかれたひとに言わせると、それがとても不自由な社会に見え、そのうち自分がビルゲイツのように天才を駆使して、あるいは某大統領候補のようにカネをカネで動かして大金持ちになるつもりなのか、それでは、嫌だという。
自由競争などあり得ないのに、自由競争と自己責任しか教えないのはとっても危険なことじゃないのかなー。
存在しないものを前提とした社会システムで、大富豪になる夢を見るより、
平凡な出自の平凡な者が平凡に安心して暮らせる社会システムを考えるほうが、はるかに自分や自分の家族のためになるって思うのですけれどね。

タイトルボランティア
記事No1636
投稿日: 2012/09/05(Wed) 11:07:46
投稿者桃青
私が、縷々某M教のことを書くのは、彼らのような志向をする者が日本に目立ってきて、それが、どうみてもそのような志向の先に、明るい未来があると思えないからである。
それは、日本社会が某M教化したというより、つまりはアメリカ化なのだろうが・・・。
いいのか、それでいいのか?!
そんな気持ちで書いている。
明治の知識人達が、西洋化して行く日本を憂慮したのと似たようなものかもしれない。
『たけくらべ』の樋口一葉も、日本の西洋化を激しく心配するひとりだったようだ。
(維新の会だって!今は幕末かつーの?ははは。)

日本の小さな政府構想では、福祉に関わる経費の削減にボランティアの活用をあげている。
この場合のボランティアとは地域の善意の人たちが自発的に行うそれではなく、NPO団体による事業活動を念頭に置いたものであろう。
善意のひとの単発的な活動では、とても、現在行われている福祉サービスをカバーしきれないからである。
そのようなNPO団体に、善意のひとが参加するかもしれないが、NPO団体の活動や運営自体は一つの事業であることを忘れてはいけない。

タイトル分かち合いましょう。
記事No1638
投稿日: 2012/09/05(Wed) 16:56:04
投稿者桃青
某M教では、福祉的諸問題に対する解決の手段として
「分かち合いましょう。」を呈示する。
分かち合いましょう。自体は、良い思いつきである。
が、この思いつきは運用に工夫しないと、大抵すぐに行き詰る。
特に某M教の場合は、行き詰るべくして行き詰るのである。

自由競争、自己責任の思想と、分かち合いましょう。は、
全く相反するものであるからである。
そんなことは、ぼーっとしている私でも気付くくらいであるから、
当の教会の人々は、なお解っているだろう。
自由競争、自己責任を至上の原理としながら、「分かち合いましょう。」を唱えるとどうなるのか。
それを見てみよう。

タイトルRe: 分かち合いましょう。
記事No1639
投稿日: 2012/09/06(Thu) 23:31:05
投稿者桃青
自由競争、自己責任を至上の原理としながら、「分かち合いましょう。」を唱えるとどうなるのか。

「ボランティアをするために金持ちになりましょう。」
と、なる。
実際に、某M教の機関紙でも幹部がそのように、書いているのを眼にしたことがあるが、日本の巷でも、
「ただカネ儲けしたい、というのは良くないけれど、困っている人を助けたいから金持ちになりたい。というのはいいんだ。」
と言う考えのひとは珍しくない。

私は、子供のころから、そう聞く度に、何かおかしい、何か違うような気がする。と、思われてならなかった。
大人になっても、しばらくは、何か違うような気がしてならなかったが、どう反論してよいのか解らなかった。

仏教を学んですぐにハッキリと、解った。
困っている人が困っていることを解決するのに、金持ちの施しを待つしかない社会は、ほんとうに良い社会とは言えないのだ。

タイトルウソの上に、おためごかしを乗せる。
記事No1640
投稿日: 2012/09/07(Fri) 16:29:32
投稿者桃青
自由競争、自己責任、
どちらも、仔細にみれば、曖昧で不確かなものです。

自由競争社会といいますが、真の自由競争は前にも書いたように不可能です。
自己責任、自己責任と言われても、貧乏であることの、果たしてどこまでが自己の行為の結果なのか。

自由主義社会では、自由競争が公正に行われている、というのは真っ赤なウソです。
生まれてこのかた、自由に競争している、自由に競争している。と
言われ続けて、自由競争しているつもりになっているだけなんですよね。

自由競争という概念が、マヤカシで、結果責任の範囲も曖昧なものなのだ。と、見えてしまうと、
自由競争、自己責任を検証することなく「それしかない。」と、思考の土台に置いて、ああだ、こうだと言っていて良いのだろうか?
と、思われてならない。

タイトルRe: ウソの上に、おためごかしを乗せる。
記事No1642
投稿日: 2012/09/08(Sat) 12:00:44
投稿者桃青
「ボランティアをするために金持ちになるのはよい。」
というおためごかし。

バブルのころには、私の周囲にも、マスコミにも、そんな言葉を吐くひとが結構おられました。
「アメリカ人は、ボランティアしたいために大金持ちになりたいと頑張って、金持ちは大金を社会に寄付することが当たり前なんだ。」と、真顔で言ってる大人もいた。

「自由競争社会では、富の偏在は必至であり、富の偏在を是正するために、キリスト教は富をもっている者に慈善活動をして、富を社会に還元するよう説いた。」
と、いうような解説を読んだこともある。

私は、へーっと思った。
富の偏在が良くないのなら、富の偏在を生みださないような社会をつくるべきだし、金持ちに個人の意思が関与する慈善事業への寄付を呼び掛けるより、金持ちから税金を徴収して、社会福祉を充実させたほうが良いのではないか。
というような私のような考え方が、彼らにいわせれば「大きな政府」
ということになるのであろう。

バブルのころに盛んに言われた、
「ボランティアするために金持ちになりたい。というのはいい。」
と、いう言葉、最近は聞きませんね。
「誰か、カネを回してくれないかなー。いや、カネを回してくれなくてもいい。仕事を呉れー!!」と、いう声ばかりです。

「カネよりは仕事が欲しい。」
これこそが人間本来の健全でまっとうな願いだと思う。
そんなまっとうな願いを持ったものが、社会を支えてきた。
まっとうに仕事して、平凡に生きる。
そういう生き方が保証される社会こそが、健全な社会なのだ。

一人のずば抜けた大金持ちが、「徳の高いひと」と煽てられ、良い気分で、大勢の者達に施しをする社会が良い社会のはずがない。