[リストへもどる]
一括表示
タイトル徳の高いひとを目指すひと
記事No1629
投稿日: 2012/08/30(Thu) 11:04:12
投稿者桃青
某M教は「私は、徳の高いひとになりたい。」というひとが集まって来るところなのだそうだ。
あるひとが、
「徳の高いひとになりたいというひとは、どうしても他人を裁くようになって行く。何故だろう?」
と、いわれた。

そりゃ、他人の徳の無さを指摘すれば、そのぶん自分は徳が高いように思えるからでしょう。
と、思ったけれど、言わなかった。
そのひとが、「徳の高いひと」にあこがれていることを知っていたので。


そうか、某M教は、「どうしたら世の中の苦しみを無くすことができるのか。」を求めるひとが集まるのではなく、
「私は徳の高い人になりたい。」というひとが集まるところなのか。
どうりで、鼻をピーンと空に向けた天狗さんが多いね。
と、思ったけれど言わなかった。
そのひとが、心から「徳の高いひと」に憧れていることを知っていたので。

「某M教の愛は、自己愛だと言われるけれど何故だろう。」
と、問うたひともいた。
「何故自分は徳の高いひとになりたいのか。」
を考えてみれば、答えは自ずから見えて来るのではないだろうか。

タイトル仏に成りたい
記事No1630
投稿日: 2012/08/31(Fri) 11:13:51
投稿者桃青
さて、 某M教は「私は、徳の高いひとになりたい。」というひとが集まって来るところなのだそうですが、

仏教は、本来「仏に成りたい」と言う者が集まるところです。
ある時、私は、ある御上人に
「日蓮宗では法華経こそ成仏の教えだ。と強調しますが、
 そもそも、何故成仏しなければいけないのですか?
 成仏してください、とか、成仏したいとか、いいますが、何故成仏したいのですか?」
と、尋ねたことがあります。

御上人は、はっとしたような顔をされて、涅槃静寂という言葉を使って何か言われましたが、私は何を言われたか覚えていません。
おそらく、当時の私には、理解不能だったからでしょう。

私が、今、問われたら、
「この世の苦しみを解決したいからです。」
と、答える。
うーん・・・解るひとには解っていただけるとは、思うけれど、
誤解もされそう。

タイトルなぜ、徳の高いひとになりたいのですか?
記事No1631
投稿日: 2012/08/31(Fri) 11:53:40
投稿者桃青
こんど
「私は徳の高いひとになりたい。」と言うひとがいたら、聞いてみよう。
なぜ、あなたは徳の高いひとになりたいのですか?
と。

タイトル徳の高いひと?
記事No1641
投稿日: 2012/09/08(Sat) 11:43:46
投稿者修業者
徳の高いひと、高徳ですか。
高徳といえば、尋常小学唱歌に「児島高徳」という歌がありましたよね。
某M教の方は勿論、今のご僧侶や東大生でも意味を理解することができないでしょう。

♪船坂山や杉坂と、
♪御あと慕ひて院の庄、
♪微衷をいかで聞えんと、
♪桜の幹に十字の詩。
♪「天勾践を空しゅうする莫れ、
♪時范蠡無きにしも非ず。」

まったくピント外れのレスで、失礼。
暇だし、書く事がなかったもんで...。(笑)

タイトルRe: 徳の高いひと?
記事No1643
投稿日: 2012/09/08(Sat) 15:49:56
投稿者桃青
> 高徳といえば、尋常小学唱歌に「児島高徳」という歌がありましたよね。

はい!はい!はーい!!
児島高徳!!
よぉ〜く、知ってますよー。

子供のころ、近くに高徳直系の御子孫が越して来られましてねっ!
伯父や伯母は「あの、児島高徳!」とほーほー言っておりました。
山陰の文人蟄居風の御宅へ子供だった私が御使い物を届けたこともあります。
質素で上品な初老の御夫婦をぼんやり覚えてますよー。

> 某M教の方は勿論、今のご僧侶や東大生でも意味を理解することができないでしょう。
>
> ♪船坂山や杉坂と、
> ♪御あと慕ひて院の庄、
> ♪微衷をいかで聞えんと、
> ♪桜の幹に十字の詩。
> ♪「天勾践を空しゅうする莫れ、
> ♪時范蠡無きにしも非ず。」
>

そんなわけで、伯父はこの歌を私に歌って聞かせて呉れたので、
よく知っています。
意味は・・・わからん。(笑)

タイトルRe^2: 徳の高いひと?
記事No1644
投稿日: 2012/09/08(Sat) 18:49:47
投稿者桃青
でもね。
明治政府の「忠臣」のプロパガンダに利用された児島高徳だって、
周囲が忠臣だの、武士の鑑だのと祭りあげたわけで、自ら名乗ったわけではない。
でも、某M教は、自ら「我々は地の塩だ。世の模範だ。」ですからね。
世の模範なんてのは、周囲が「ああ、あのひとを模範にしたいなー。」と自然と思うものじゃないですか?
そもそも、「見て見て!私って、徳が高いひとよ!」
て、これみよがしに振舞うひとが徳が高いわけがないでしょう。(笑)
しかし、某M教のかたに言わせると、
そのような考え方は、日本的価値観で、アメリカでは
「いかに自分が徳が高いかをアピールするのが当たり前なんだ。」
そうだ。
で、「はいはい、あなたは徳の高いひとですよ。」
と、いうまで「私って、こんなに徳が高いのよ。」
て、言い続けるんです。

例えばですね、実際、こんなことがありました。
学校で起きている問題を問題提起したら、
「私は、そういうことはしていません。私はこのように子育てして、子供には全く問題がありません。」
と、言いだす。
一時が万事、どんな場面でも、ちょっとしたとっかかりがあれば、「褒めてもらおう」と、自分のことを語りだす傾向があります。
誰かが苦しんでいる学校の問題を解決するより、自分が褒められることのほうが大切なのでしょうか。
「世に称賛されるひとになりなさい。」「世の模範となりなさい。」
と、しょっちゅう言われているとそうなってしまうのか、
「褒めて育てる。」の弊害部分なのか。

ほめられもせず、苦にもされず。
黙々と菩薩行する宮沢賢治の生き方や、
空中に文字を書くごとく、修業しなさい。
という天台の教えとは真逆ですね。
でも、聖書でも、右手がしていることを左手に教えるな、とかなんとか陰徳を説いているはずなのになー。

タイトル鬱病と自己愛性人格障害
記事No1645
投稿日: 2012/09/10(Mon) 10:40:23
投稿者桃青
私は、ほめられもせず、苦にもされず、黙々と菩薩行する宮沢賢治の生き方に惹かれるが、某M教では、そのような生き方はツマラナイものに見えるようだ。
某M教のかたに言わせると、
そもそも宮沢賢治の生き方に惹かれる事自体日本的であって、アメリカでは
「いかに自分が徳が高く、善いことをしているかをアピールするのが正しい行いであり、当たり前」
なのだそうだ。

なるほど。
日本人は古来鬱病的で、一億総(躁、の間違いではありません。)鬱病、なんて一時期、盛んに言われたことがありましたね。
その言いかたでいえば、アメリカ人総自己愛性人格障害、と言えなくもない。(笑)
某M教のかたとやりとりすると、アメリカ人の考え方とは、どういうものなのか、がなんとなく解ってくる。

某M教の学者も、「アメリカというものが知りたくて(←あの年代なら、アメリカに憧れて?)某M教徒になったが、その直感は正しかった。
某M教はアメリカそのものだ。」
と、いうようなことを書かれていたので、私の感じるところも、当たらずと言えども、遠からず。なのでしょう。と思っているのですが・・・。

自省的過ぎるのも問題の本質を見誤らせるが、問題を捉えるのに、他罰的観点ばかりでも問題は解決しないねー。

かって自らを一億総鬱病と捉えたのも日本人でしたが、最近は「世界では、自分に非があっても、自分は悪くない、と大声で激しく自己主張するほうが、主流らしい。」
と勘づいたのか、アメリカナイズされたのか、
自己愛性人格障害風のひとが、なんだか目立って来た。

「電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ。」
と、思え。と強要される社会もイヤだけれど、
「たとえ自分に非があっても、とにかく私は悪くない。と大声で叫ぶべきだ。」
と、いう社会もイヤだなあ。