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タイトル人間は自由意思を持つのか
記事No1647
投稿日: 2012/09/11(Tue) 18:01:54
投稿者桃青
某M教は、いとも簡単に
「神様はー 人間に選択の自由と自由意思をお与えになりましたー。」
などと、言いきっておりますが、
実は
人間に自由意思があるのか、ないのか、というのは、
哲学では、未だ結論が出ていない命題なのですね。
最近では、浮気の遺伝子、アル中の遺伝子、なるものも発見されて、この問題はさらに混沌としてきました。

キリスト教なら、「神と自由意思は両立するか。」
仏教なら「縁起と自由意思は両立するか。」

縁起を突き詰めて行くと、自分の意思も縁起によって成り立っているということになる。
縁起によって成りった意思は、そのひとの自由意思と言えるのか。
どうなんでしょうね。

某M教は
「神様が、自由意思というものを作って人間に持たせてくれたのだから、人間には自由意思がある。」
で、終わりにしていますが、現実には、それでは説明できない事象は、いっぱいあります。
自由意思というものも、自由競争と同じで、そういうものがある気になっているだけで、実はあるか、ないか、あやふやなもののようです。

タイトルRe: 人間は自由意思を持つのか
記事No1650
投稿日: 2012/09/18(Tue) 12:24:01
投稿者桃青
「法華経の行者となる事は過去の宿習なり、同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし、仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし。」

どうでしょうか?
これを「選民思想」のように読むひとがいるが、
それは全く違いますね。

日蓮聖人がこの言葉で伝えたかったものは、「選民思想」のようなツマラナイクダラナイ思想ではありません。
なにしろ、この言葉が出て来るのは
『諸法実相抄』ですからね。

「宿業」は、ね。
ただ、様々な因縁の束、なのですよ。
様々な因縁がただ集まっているだけなのですよ。
ですから、
生まれて選民思想に出会いて「我選民なり」と名乗るも又宿業なるべし。
でしょう。

生まれて仏教に出会うも、選民思想に出会うも、
出会って、仏教に共感するのも、選民思想に共感するのも、
出会っても共感しないのも、それは、ただいろんな因縁が積み重なって、そうなるように条件が整ったからでしょう。

宿業の説明に、
「現世で報いとしてこうむる、前世に行った善悪の行為。」
などと、あって、それを受けて、「肉体を離れて存在する個の霊魂」を連想させるような解説が本当に多い。
あまり多すぎてイヤになる。

そいういうひとにかかると、日蓮聖人の御遺文は、
此処にある樹が、仏像になるか、木の椀になるか、
仏像になったからその樹は偉くて、木の椀になったら偉くない、
という話になってしまう。
切り倒された樹にしてみれば、迷惑なだけの話でしょう。
続いて、仏像に成った樹は、過去世において法華経を聞いたからで、汁椀のなった樹は、過去世で法華経を聞かなかったからだ。
などというのでは、某M教の選民思想と同じレベルの発想ですね。

どうですか?
日蓮聖人は、そんな単純な因縁話を言いたかったですか?
違うでしょう。

タイトルRe: 人間は自由意思を持つのか
記事No1657
投稿日: 2012/09/21(Fri) 23:22:43
投稿者三森至樹
> 某M教は、いとも簡単に
> 「神様はー 人間に選択の自由と自由意思をお与えになりましたー。」
> などと、言いきっておりますが、
> 実は
> 人間に自由意思があるのか、ないのか、というのは、
> 哲学では、未だ結論が出ていない命題なのですね。
> 最近では、浮気の遺伝子、アル中の遺伝子、なるものも発見されて、この問題はさらに混沌としてきました。
>
> キリスト教なら、「神と自由意思は両立するか。」
> 仏教なら「縁起と自由意思は両立するか。」
>
> 縁起を突き詰めて行くと、自分の意思も縁起によって成り立っているということになる。
> 縁起によって成りった意思は、そのひとの自由意思と言えるのか。
> どうなんでしょうね。
>
> 某M教は
> 「神様が、自由意思というものを作って人間に持たせてくれたのだから、人間には自由意思がある。」
> で、終わりにしていますが、現実には、それでは説明できない事象は、いっぱいあります。
> 自由意思というものも、自由競争と同じで、そういうものがある気になっているだけで、実はあるか、ないか、あやふやなもののようです。

>> 某M教は
>> 「神様が、自由意思というものを作って人間に持たせてくれたのだから、人間には自由意思がある。」
>> で、終わりにしていますが

 確かに、旧約聖書の創世記には、神がアダム(人間)を創って、その鼻から命の息を吹く入れたので、彼は人間となったという話があります。これは人間は神のイメージとして、神と同じような自由意志を持っていることの喩えの話でしょう。
 しかし話はそこで終わらず、アダムとその妻のエバは、その自由意志によって神の命令に背き、楽園を追放されたという話が続いています。
 つまり人間は自由意志を持っていることは確かで、その自由意志によってあれやこれやの善いと思えることを選択し、善いことをしようと行動するわけです。しかしその選択と行為が、究極的な基準から見て、必ずしも善い結果をもたらさず、むしろ常に悪い結果をもたらす、という問題があるわけです。
 だから親鸞聖人も、「善人なおもて」という言葉で、善人が自らの自由意志でなす「善」が結局、究極的な基準から見ては悪でしかなく、本当の善をもたらさないと言っているわけです。
 ルターも、原罪の支配のもとにある人間の自由意志は、神の目から見て、つまり究極的な基準から見て、義しいと結果をもたらすことができず、絶えず罪に拘束されて、悪い結果しかもたらさない「奴隷的意志」であると言いました。
 人間が自分の目で見て「良さそう」と思えることを選ぶ自由意志があるのは確かですが、しかしその結果が常に「絶対に善い」かどうかは、よく考えてみなければならないでしょう。むしろ親鸞やルターと同様に、人間には自由意志はあるが、絶対に善いと言えるようなことを実現する能力はない、というふうに考えるべきなのではないかと思います。
 ということは、「何か善いことを実現する能力」という意味で自由意志を考えるのであれば、人間にはそれがないとも言えます。

タイトルRe^2: 人間は自由意思を持つのか
記事No1659
投稿日: 2012/09/25(Tue) 11:59:20
投稿者桃青

>  確かに、旧約聖書の創世記には、神がアダム(人間)を創って、その鼻から命の息を吹く入れたので、彼は人間となったという話があります。これは人間は神のイメージとして、神と同じような自由意志を持っていることの喩えの話でしょう。
>  しかし話はそこで終わらず、アダムとその妻のエバは、その自由意志によって神の命令に背き、楽園を追放されたという話が続いています。
>  つまり人間は自由意志を持っていることは確かで、

なるほど。
某M教の「そこで終わり」は、此処で終わりということなのですね。

しかし、その「自由意思」も、神が造って持たせてくれた(神由来)であるというのなら、神とは無関係に存在するものではない。
神とは無関係に存在し得ない(神の息がかかった)意思は、純粋に人間の自由意思と言えるのかどうか?
という問題がある。

某M教は、「自由意思があるっていうのだから、あるのだ。」
という宗教ですが、キリスト教の方々の中には、そのあたりのことを悩ましく思われる方々もおられて、結論が出ないままになっている。
と、いうことなのではないでしょうか?

また、「人間には自由意思がある。」で、終わりにしている某M教でも、時々
「戦争は無くならない。なぜなら神が人間を争うものとして造られたから。」
のように、まるで人間には自由意思が無いようなことも言いますので、彼らも実は「神と人間の自由意思は両立するのか。」に対して明確な答えを持っていないのでしょう。

>その自由意志によってあれやこれやの善いと思えることを選択し、善いことをしようと行動するわけです。

これが、もともとの「性善説」ですね。

>しかしその選択と行為が、究極的な基準から見て、必ずしも善い結果をもたらさず、むしろ常に悪い結果をもたらす、という問題があるわけです。

あるひとにとっては、善い結果でも、別のひとには悪い結果
という相対的な問題もありますものね。

タイトル絶対の善、
記事No1660
投稿日: 2012/09/25(Tue) 17:12:18
投稿者桃青
>  だから親鸞聖人も、「善人なおもて」という言葉で、善人が自らの自由意志でなす「善」が結局、究極的な基準から見ては悪でしかなく、本当の善をもたらさないと言っているわけです。

そもそも究極的な善、あるいは絶対善というものを人間は知ることができるのでしょうか?
知りようがないものを基準にしても仕方ないと思うのですが・・・。

と疑問に対して、某M教は
「自分達は絶対の善を知っている。絶対の善とは神だ。」と、言いますが、
神とは何だ、との問いかけには、「神とは絶対の善だ。」
と言う。
それでは、絶対の善を知っているということにはならないのですが、
そう答える当人たちは、大真面目に絶対の善を知っているつもりになっているところが怖い。
某M教会には「相対的な善など興味はない。この教会には絶対の善があるので会員になった。」
と断言されるかたも珍しくない。
人間て「この教会には絶対の善がある。」と断言されると、すーっとその気になってしまうものなのでしょうかね。

絶対の善について某M教のように考えるのは、某M教だけというわけでもなさそうですが某M教の始末が悪いところは、
そのように「絶対善」について何も知らないのに、
「神様由来のものは善」として、三森さんが書かれたような「ひとが思いつくような善」を絶対善と等価にしてしまうところです。
これも某M教ばかりではありませんが・・・。

>  ルターも、原罪の支配のもとにある人間の自由意志は
>神の目から見て、つまり究極的な基準から見て、義しいと結果をもたらすことができず、絶えず罪に拘束されて、悪い結果しかもたらさない「奴隷的意志」であると言いました。
>  人間が自分の目で見て「良さそう」と思えることを選ぶ自由意志があるのは確かですが、しかしその結果が常に「絶対に善い」かどうかは、よく考えてみなければならないでしょう。むしろ親鸞やルターと同様に、人間には自由意志はあるが、絶対に善いと言えるようなことを実現する能力はない、というふうに考えるべきなのではないかと思います。

確かに「絶対善を実現する能力」は、人間にはないでしょうね。
人間には「絶対善」を知ることができませんもの。

>  ということは、「何か善いことを実現する能力」という意味で自由意志を考えるのであれば、人間にはそれがないとも言えます。

「自由意思」を論議する場合、「何か善いことを実現する能力」と捉えるのは、一般的ではない、と思われますが、どうでしょうか。

タイトルRe: 人間は自由意思を持つのか
記事No1658
投稿日: 2012/09/23(Sun) 12:57:26
投稿者修業者
自由意思ですか。
某M教は単純な自己中心型の選民思想で、某M教の教えが唯一絶対正しいのだ!と教会で洗脳されてしまうので、自由意志がなくなってしまうのだと思います。
仏教は、八万四千の法門があるといわれており、その中から自分に合った教えを選ぶことができるし、宗派や寺院の選択も自由ですので、自由意思で決めることができますよね。

諸法実相も一つの法門ですが、中古天台本覚思想に近くて、ちょっと首を傾げたくなる教えですね。
中古天台本覚思想とは、草も木も土もすべての生き物がそのまま仏であるという考え方です。
天台大師は密教に影響を受け、この思想を積極的に取り入れたため、他宗から仏教を堕落させたとして非難されたようです。
だって、すべてのものがそのまま仏であり、悪人もそのままで成仏できるなら仏道修行など必要ないですよね。

『諸法実相抄』は以前しんのすけさんが、「真蹟、古写本ともありません。」、「前半は偽書とする説が多いようですよ。」とおっしゃっていたよう、真偽未定のご遺文のようです。
「妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、」
これは、妙法蓮華経や凡夫が本仏だと教示しており、日蓮聖人のご意思に反するのではないのでしょうか。

> 宿業の説明に、
>「現世で報いとしてこうむる、前世に行った善悪の行為。」

これは部派仏教の因果性縁起の考え方、龍樹は厳しく批判し、相依性縁起(無自性)を説いています。

タイトルRe^2: 人間は自由意思を持つのか
記事No1661
投稿日: 2012/09/25(Tue) 17:56:43
投稿者桃青
修業者さん

お元気ですか?

> 『諸法実相抄』は以前しんのすけさんが、「真蹟、古写本ともありません。」、「前半は偽書とする説が多いようですよ。」とおっしゃっていたよう、真偽未定のご遺文のようです。

そうなのですよ。
日蓮系で「アレレ?な話」の出所は、たいていそんな御遺文がネタ元なのですけれど、その「アレレ?な話」を喜ぶひとが多いのです。
選民思想を連想させるような話もその一つです。
選民思想めいた解説に激しく頷いているかたを見ると、
選民思想が好きなかたは、時と場所に関わりなく、どこにでもおられて、そういうかたは
仏教も選民思想(を生みだしたもの)で読まずにはいられないのかな、
と、思います。

無自性を説く仏教ですら、選民思想で読んでしまうのですから、
選民思想(を生みだすもの)てよっぽど強力なんでしょうね。

タイトルRe^2: 人間は自由意思を持つのか
記事No1662
投稿日: 2012/09/26(Wed) 11:57:54
投稿者桃青
> 自由意思ですか。
> 某M教は単純な自己中心型の選民思想で、某M教の教えが唯一絶対正しいのだ!と教会で洗脳されてしまうので、自由意志がなくなってしまうのだと思います。

確かに、いったんM教という組織の一員となってしまうと、
組織を抜けるという選択肢を選び辛くなるようですし、
たとえ組織を抜けても某M教で培われた考え方のクセから離れるのは、とても難しそうです。
ただ会員の方々の御話を聞いていると某M教に惹かれるかたは、入信前から某M教のような思考の持ち主だったようなところも伺えますので、
某M教へ入ったから洗脳された。とばかりは言えないところもあります。
もともと持っていた志向が某M教に出会って花咲いた。
のだろうなあ。と、思われる方々も結構いらっしゃいますから。

どちらかと言えば、某M教に出会って、影響されて変わったというより、
元々某M教徒のようなひとが、某M教徒になる。
それも某M教を離れることができない要素なのかなあ。と、見ていますが・・・。

> 仏教は、八万四千の法門があるといわれており、その中から自分に合った教えを選ぶことができるし、宗派や寺院の選択も自由ですので、自由意思で決めることができますよね。
>

合った教えというより、
四悉檀。
説き方の違いだと思いますが、中には、
思い切り誤解されやすい表現をとったり、残念な誤解をしてしまったものもあります。
修業者さんのように、自分で調べる能力があるかたばかりではありませんので、釈尊の教え、大乗の教えを正しく伝えるよう日々努力することこそ専門職の役目だと思います。

> 諸法実相も一つの法門ですが、中古天台本覚思想に近くて、ちょっと首を傾げたくなる教えですね。

??
諸法実相も諸法空相も同じものですよ。
一般向けの仏教解説書にも、たいてい諸法実(空)相と表記されているでしょう?

タイトルRe^3: 人間は自由意思を持つのか
記事No1664
投稿日: 2012/09/26(Wed) 16:40:46
投稿者修業者
> 元々某M教徒のようなひとが、某M教徒になる。

そうかなぁー、
自ら望んで会員になった人はそうかもしれませんが、二世やアメリカのイケメン宣教師のフレンドリーな雰囲気に憧れて会員になった人も多いのでは?
やはり教会での洗脳の影響が大きいと思います。

> 思い切り誤解されやすい表現をとったり、残念な誤解をしてしまったものもあります。

仏教にも、真言立川流などの教えがありますからね。

> 諸法実相も諸法空相も同じものですよ。

諸法実相は方便品の十如是で説かれていて、大乗仏教の根本思想として重視されていますが、そのとらえ方は宗派によって少し異なるようです。
桃青さんがおっしゃる「諸法実相=諸法空想」は三論宗の考え方です。龍樹ファンの修業者にはこの考え方がシックリいくのですが...。
禅宗では「柳は緑、花は紅」といい、ありのままの姿を諸法実相といっています。
天台宗では空・仮・中の三諦を統一した中道の理としているそうですが、難しくてよく解かりません。

天台宗や真言密教でのとらえ方は、諸法実相と如来蔵・天台本覚が同一の思想のように解説されているので、ちょっと首を傾げたくなったのです。(笑)

タイトルRe^4: 人間は自由意思を持つのか
記事No1665
投稿日: 2012/09/27(Thu) 10:25:00
投稿者桃青
> 自ら望んで会員になった人はそうかもしれませんが、二世やアメリカのイケメン宣教師のフレンドリーな雰囲気に憧れて会員になった人も多いのでは?
> やはり教会での洗脳の影響が大きいと思います。
>

どうなんでしょうね。
いったん組織に入ってしまうと、
「此処で仲間外れになりたくない。」という気持ちも大きいのではないかと思います。

世の中には
スッパニパータの
「犀の角の如く独り歩め」

とか、
キリスト教の
「嵐に奔走される小舟の如き孤独、を信仰の糧に」
自分は生きたい。
というひともいるのだ。
ということが理解できないし、そういう生き方では生きている価値が無い、としか思えない人々が、某M教に惹かれるのだと思います。
某M教のかたがたは、友達がいないひと、恋人や配偶者がいないひと、子供がいないひとを、あからさまに軽蔑したり、哀れんだりしますが、
そのようなかたは某M教ばかりでなくどこにでもおられますが、
世間では、それに対して「変な友達ならいないほうがいい。」
とか、「結婚しない生き方もある。」とか、まあ、そんな声もあがるわけですが、某M教の教義は「男女の結婚」を前提としていますから、必然的に「結婚しなくては生きている価値がない。」「友達、配偶者、子供が無くては生きている価値がない」と、なって行くわけです。
もともと友達の有る無し、配偶者のあるなし、子供のあるなし、
で、そのひとの価値を測る傾向のあるかたが、某M教の教えに出会うと、「そうだ!そうだ!」」と、惹かれてしまうのかなあ、と、見ていますが・・・。

また、「自分と同じようなひと達だけで群れたい。」という傾向が強いかたも、別スレッドに書きました
「汚いものを排除すれば、きれいになる。」
という某M教を成り立たせている思考に共感しやすいでしょうね。

なので、洗脳されて某M教から離れられないというより、元々持っていた自分の思考を「あなたの考えは正しい」と保証されたがゆえに、離れられないのではないかと見ているのですが、どうでしょう?

> 桃青さんがおっしゃる「諸法実相=諸法空想」は三論宗の考え方です。

日蓮宗は、諸法実相=諸法空相ですが??
日蓮宗は、空観に留まらないことをもって気概とするので、
日頃、空をことさらに言及しない傾向があります。
空観に留まらない気概は大変素晴らしいのですが、言及し無さ過ぎるのも間違いのもとですね。

>龍樹ファンの修業者にはこの考え方がシックリいくのですが...。

わかりますよ。
「空観に留まらないのだ。」という日蓮門下の気概もわかっていただけたら、と思いますが・・・。

> 禅宗では「柳は緑、花は紅」といい、ありのままの姿を諸法実相といっています。

ありのままの姿を見れば、そこに自ずから「空」を見るでしょう?

> 天台宗では空・仮・中の三諦を統一した中道の理としているそうですが、難しくてよく解かりません。
>

平たくいえば、「空観に留まらない」ってことでしょうて。(笑)

> 天台宗や真言密教でのとらえ方は、諸法実相と如来蔵・天台本覚が同一の思想のように解説されているので、ちょっと首を傾げたくなったのです。(笑)

天台大師チギの教説と天台本覚思想は別物ですからね。