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タイトル某M教的気になる思考その二
記事No1679
投稿日: 2012/10/01(Mon) 12:09:36
投稿者桃青
今朝からNHKの新しい朝の連続ドラマが始まりました。

のっけから
「人の運命は選択によって決まる。」
と、きた。

困ったもんですね。
朝から「ひとの運命はそのひとの選択によって決まる。」
連呼されているうちに、某M教的あやまった思考が、
「それしかない。そうに決まっている。」と、社会を覆っていくのでしょう。

結論を言えば、
人の運命は、そのひとの選択だけでは、決まりません!!

某M教的気になる思考その二は、
人生の選択についてです。

タイトル選択の自由と自己責任
記事No1683
投稿日: 2012/10/02(Tue) 12:46:02
投稿者桃青
「選択がそのひとの運命をつくる。」
「運命とは選択なのだ。」

と、言う言葉が指し示すのは

その人の受ける全ての結果は、そのひとの選びによってもたらされたものだ。
という某M教的自己責任の考え方です。

本当に、全ての結果は、自分の選びによってもたらされたものでしょうか?
望むような結果とならなかったのは、自分の選択が間違っていたからでしょうか?
本当にそうなのでしょうか?

まずは、「選ぶ」ということを見てみましょう。

選ぶと言うからには、選ぶ対象があってのことでしょう。
選ぶ対象は、どのようにして「そこ」にあるのでしょう?

そこにある以外の対象が本当は他にもあって、それを知っていたら、そちらを選んだかもしれないでしょう。
どんなに選択肢を並べられても、そういうことです。
常に、知っていたらそちらを選んだかもしれない選択肢はあるかもしれない。
つまり、我々は、常に、自分が選んだわけでは無い対象が並んでいる中から、しか選択ができない。
たまたま自分の狭い視野に入ってきた選択肢から選んでいるだけなのに、
「運命は自分の選びの結果」など、おこがましいですよ。


また、眼の前の選択肢が、自分の意思だけでは選べない巧妙な仕組みになっていることもあります。
実は、こういう例は社会には多いのです。
こういう場合、その巧妙な仕組みを作った側が、
「いくらでも選ぶチャンスを与えたのに、チャンスを生かせなかったあなたが悪い。」
と、言いたてることもあります。
こういう場合「運命とは選択だ。」ということしか頭にないと、そのずるい者がつくった巧妙な仕組みに気付かないということもありますよ。
気が付かなければ、巧妙な仕組みを作った狡い者達の思うがままですね。

タイトル思うようにはならない。
記事No1684
投稿日: 2012/10/02(Tue) 19:02:19
投稿者桃青
「選択が運命をつくる。」

こんな言葉は、まやかしです。
日本には、人々の口に膾炙されたもっと役に立つ言葉があります。

「相手があることは思うようには運ばない。」

タイトル単純思考が国(世界)を滅ぼす
記事No1685
投稿日: 2012/10/03(Wed) 11:17:31
投稿者桃青
単に
「運命を切り開いていこう!」
というだけなら、まだ良いと思うのですよ。

「僕の前に道はない
     僕の後ろに道は出来る」
なら、まあ、良いでしょう。

しかし、
「人の運命は選択によって決まる。」
これは、だめです。

そのひとの受ける結果は、その人の選択だけでは決まらないからです。
アメリカ由来の「人生に成功する方法」風のハウツー本は、
その全てが、「こうすればこうなる。」という単純な因果律を元に書かれています。

実際には、何故「こうなった」か、は、ひとつやふたつの理由に帰結できるほど、簡単な話ではありません。
このことは、モノを考える場合に絶対に忘れてはならない「事実」でしょう。
なのに、殆どのひとは、それを忘れて、問題の解決策を探そうとする。

間違った現状認識から生まれた解決策で、問題が解決できるわけがないのです。

しかし、単純な因果律でモノを見ようとするひとは後をたちませんね。
後を絶たないどころか、最近どんどん増えている。

単純な因果律でモノを見るひとたちは、自分が建てた単純セオリーで問題が解決しない時はどうするんでしょうね。
単純因果律で成り立つ某M教のテキストは、単純セオリーに当てはまらないものは、存在を無視する。もしくは、抹殺しなさい。
と教える。

この対処法は、某M教ばかりでなく、単純因果律でモノを見るひとなら、誰でもそこへたどりつかざるを得ない対処法のようです。

ウソだと思うのなら単純因果律を唱える人々をじっとみていてごらんなさい。
最後は「抹消しろ」と叫び出しますから。

タイトル合理的というより、単純因果律
記事No1686
投稿日: 2012/10/03(Wed) 12:28:43
投稿者桃青
某M教のテキストに一貫して流れるものは、
「神の戒めを守れば、よいことがある。」
であり、合理的であることを好むアメリカ発祥ならではの解りやすい良い教えである。
といわれる。

そうですか?
「神の戒めを守れば、よいことがある。」
というのは、ごく単純な因果律の話としか思えないですけれど・・・。

何度も言いますが、現実は単純な因果律では動いておりません。
せめて、そのことだけでもきちんと教えておいたほうがいいのではないでしょうか?

単純な因果律を語るのは、某M教会員ばかりではありません。
そして、世の中には、単純な因果律では動いていないということを知りながら、単純な因果律を語って、ひとを動かそうとする扇動者もいる。
「この話は解りやすい。」と、聞いていたら、その解りやすさが単純な因果律から来ていた、ということもよくあります。

タイトル全ては選びの結果、という単純因果律
記事No1687
投稿日: 2012/10/05(Fri) 11:34:02
投稿者桃青
某M教徒が大好きなモノの見方に、
「全ては自分の選びの結果」
というものがあります。

彼らとやりとりしていると、この言葉がいろんな場面に出て来ます。
またはっきりと言わないまでも、言動の背景に「全ては選びの結果
」という思想が読みとれることもあります。

某大統領候補のオフレコ発言が、問題になりましたが、
あれも、
下層が下層であるのは、彼らの選びの結果である。
すなわち「彼らが望む結果を得られなかったのは、選択を誤ったか、あるいは努力しなければいけない時に努力しないほうを選んだから。」
という某教会員らしいモノの見方が見てとれます。
もっとも某M教会員ばかりでなく、アメリカ人には、そういうモノの見方をするひとが圧倒的に多そうですが・・・。

「全ては選びの結果」
これもまた単純な因果律です。
個人の身の上に起きる事どもは、全てそのひとの選びに帰着できると言う点で、便利で、解りやすく、しかも、話が
「ああすれば、こうなる。」「AならばB」
「こうなったのは、ああしたからだ。」「BなのはAだったからだ。」
という単純な因果律に乗っているので、論理的破綻がない。
なので、いったんそこに嵌ると抜け出せない。

抜け出すには、現実の出来事をひたすら観察して、
「いや、そうなったのは選びの結果ばかりでないぞ。」
と、言うことに気付いて行くしかないのですが、頭から
「選びの結果である。」と、思いこんでいると、なかなか、気付かないのですね。
気付かない、というより、「本人の選びの結果」に帰着できない出来事を見ても、頭の中で、「選びの結果」のストーリーを拵え上げて、現実の出来事と辻褄を合せて、「やっぱり選びの結果だわ。」と、納得してしまう。

また、「選びの結果だけではない。」と、気付いても、
「選びの結果にしておいたほうが、都合が良い。」
と、いうひともいて、そういうひとほど
「選びの結果だ。」と声高に言い立てるということもあります。

タイトル貧困の連鎖
記事No1688
投稿日: 2012/10/05(Fri) 12:18:43
投稿者桃青
「全ては選びの結果」とは、言えない。
という例をあげてみましょう。

例えば、某大統領候補の失言(本音?)を例として、
富裕、貧困について見てみましょう。

現在の日本社会では、
「一時言われた一億総中流時代は終わり、いったん、貧困に陥ると貧困の連鎖が起きて、貧困層が固定化する。
という現象が起きはじめている。」
という考察がされている。

「貧困の連鎖」とは、どのようなことか、
もし知らないかたは検索してみてください。
そこには決して「全ては選びの結果である。」では、説明できない事実があることが解るでしょう。

貧困の連鎖は、アメリカでも、日本に先だってその指摘がなされてきた問題です。

あるひとが貧困であるという原因の全てを
そのひとの「選びの結果」に帰着することはできないのです。
同時に、あるひとが裕福であることの全てをそのひとの「選びの結果」に帰着することもできません。

あなたは、貧困の連鎖という事実を見ても「全ては選びの結果。」「運命は選択だ。」という説を支持しますか?

タイトル耐え忍ぶor抹消しなさい
記事No1689
投稿日: 2012/10/06(Sat) 11:16:46
投稿者桃青
実際には、単純な因果律では動いていない現実。
その現実を単純な因果律で動いていると見ると、いざ何か自分にとって不都合な問題が起きると、さあ、もう対処法が解らない。

単純な因果律では、常に、「こうすればこうなる。」の世界ですから、こうして、こう、ならなかった時は、どうしますか?

某M教の見る世界は単純因果律の世界ですから、その答えは、某M教が使用するテキストをみれば出ています。

こうして、こうならなかった時は、
耐え忍ぶ、か、抹消(殺すを含む)しなさい。
と、教える。
つまり、こういうことです。
「こうして」の部分が「正」「義」なのですから、「こうなる」の結果も「正」「義」です。
 
 こうして→こうなる。
 「正」「義」→「正」「義」

 こうしたのに→こうならない。
 「正」「義」→「邪悪」「義ならず」

おわかりでしょうか?
某M教のテキストが、自分にとって不満足、不都合な事象に対処するのに
「耐え忍ぶ」か「抹消しなさい。」か、
の二つしか方法を出せない理由が見えて来ますね。

タイトル耐え忍ぶ
記事No1690
投稿日: 2012/10/06(Sat) 12:43:17
投稿者桃青
某M教の「耐え忍ぶ」は、
我(正、義)>彼(邪悪、義なし)
という構造の上に成り立っている。

相手に対して非がない私が、相手の理不尽を耐えている。

例えば、「小公女」のセーラが、周囲の意地悪にただひたすらじっと耐えている。
みたいなものですね。
「小公女」は、当時の少女たちを啓蒙教育するために書かれたようですが、同時代に、某M教が出ていますので、「耐え忍ぶ」も似たような構造なのでしょう。

こういう構造での「耐え忍ぶ」は、危険です。
自身の内部にある、不満や怒りの正体を見つめることなく、ただひたすら未消化なままに不満や怒りを抑え込んでいる。
くるりとひっくり変えて、いつ何時「抹消しろ!」に、変わるかもしれない。
日本の俗諺にも「堪忍袋の緒が切れる。」といいますが、
某M教では、対処法として「耐え忍びなさい」と同時に「抹消しなさい。」とも教えますから、ね。


私は、ずいぶん昔、統一教会からの奪還に同行したことがあります。
その時に対応に出てきた、教会の指導者の頬笑みと猫撫で声の薄気味悪さを、今も覚えています。
ヤクザの頬笑みも怖い(経験済み)ある種の精神病者の頬笑みも怖い(経験済み)ですが、宗教に嵌ったひとの頬笑みもまた独特の怖さがあります。
宗教のひとの頬笑みに感じるあの怖さはなんだろう?
不満や怒りを未消化のままに貯め込んで、微笑むからだろうか?

タイトル抹消しなさい。
記事No1691
投稿日: 2012/10/06(Sat) 14:46:50
投稿者桃青
単純因果律で成り立つ某M教の問題への対処法は、二つ。
「耐え忍びなさい。」と「抹消しなさい。」

アメリカ風にオープンマインドな某M教では、問題解決の方法としては
「耐え忍ぶ」より、「抹消しなさい。」のほうに人気があるようです。

「汚いものをどこかへ排除すればきれいになる。」
ですから、「汚いもの」にじっと対峙するより、汚いものは、さっさと視界から追い出して、一件落着〜。
究極の「追い出す」は、殺す、殲滅する。ですが、
機関紙や、教会員の書き込み、行動を見ていると、
目障りなもの、自分の理解を越えたものは、とにかく自分の視界から追い出そうとしているな。
という動きがよくわかる。