[リストへもどる]
一括表示
タイトル某M教的気になる思考:弱いひと
記事No1695
投稿日: 2012/10/13(Sat) 18:01:24
投稿者桃青
タイトルに「某M教的」とはつけていますが、
今までのどれも「某M教」だけに見られる思考ではありません。

十界互具、三千一念の世界ですから、
某M教にあるようなことは、世間にどこでも出現しているのですね。

で、此処では、
「弱さを克服する。」
です。

そもそも、克服されなければならない「弱さ」って、どんなこと?

タイトルRe: 某M教的気になる思考:弱いひと
記事No1696
投稿日: 2012/10/13(Sat) 22:27:29
投稿者桃青
今まで、何年も様々なひとが
「強くなれ」とか「弱さを克服しよう。」とか
「私は強くなった。」
と、言われるのを黙って聞いてきた。

結果、
「彼は、強い。」という言葉も、必ずしも良い意味でばかり使われないし、
「彼は弱いね。」と、評されるひとが必ず悲惨な人生を送っているかといえば、あんがいちゃっかりと世渡りしていたりして、
ますます人間の弱さとはなんだろう。
と、わからなくなった。

タイトル仏教と人間の弱さ
記事No1697
投稿日: 2012/10/15(Mon) 12:14:51
投稿者桃青
「(人間の)弱さ」という言う言葉が、日常語として定着したのは、比較的新しいのではないだろうか。

大学時代、先輩が「それは、彼女の弱さだと思うんだよね。」
と言ったが、それまで、そんな言いまわしを聞いたことがなかった私には、それがとても新鮮に聞こえたことを鮮明に覚えている。

ふと気が付いたら、いつの間にか、
新聞でも、週刊誌でも、書籍でも、日常会話でも、
「自分の弱さ」を知る、とか、知れ、とか
「それが彼やあなたの弱さ」だ、とか、「人間の弱さ」について、
だれかがどこかで話している。

仏教では、どうなのだろう。
今まで、学んだ限りでは、「意志が弱い」「身体が弱い。」に類する表現はあっても、人間の弱さ、という人格に関わる表現は無かったと記憶しているが・・・。

「人間の弱さ」という人格に関わる表現は、やはり
「弱きものよ、汝の名は女なり。」というような、キリスト教的表現なのかもしれない。

今日日常、「自分の弱さをみつめて」と、言われる場合、今ほど「弱さ」が普及する以前なら
それは
「自分の欠点をみつめて」「自分の短所をみつめて」
と、言ったであろうと思われることが多い。

先輩が言った
「それが彼女の弱さだよね。」
が、指したものは、「したいことがあっても、親と揉めたくないので、できない。」
というものであった。

したいことの同志とも上手くやりたい。
親ともうまくやりたい。

あちらともこちらとも上手くやりたい。
こういう立場のヒトは、いつでもどこでも居るだろう。

仏教なら、そういう状態をどう見るのか。

タイトル聖書を読んで自分の弱さを知る
記事No1698
投稿日: 2012/10/16(Tue) 12:35:14
投稿者桃青
某M教のかたで、しきりに「自分の弱さを知れ!」と、書きこむかたがいた。
このかたは、高校生の時、聖書を読んで自分の弱さを知ったのそうだ。

私は、以前此処へ来られたプロテスタントのスパットさんから
「キリスト教の愛を知りたければ、取りあえず仏教を忘れて、
心を尽くして聖書を読んでみてください。
初心者ならマタイから。」
と、教えられ、
教えられた通りに、仏教を忘れて一心に聖書をマタイから読んだことがあった。
すると、読み進むに従って、なんとも言えない恐怖というか、心細さと言うか、真っ暗な荒野にどうしようもない自分が一人ぼっちでいるような感覚がして来たではないか。
思わずイエスに助けをもとめたくなった。
が、頭のどこかで
「ここでイエスを呼んだら仏教へは戻れなくなってしまうが、それでいいのか?」
という思いがわき、仏に信を置く事、大であった私は、そこの時点で一心に聖書を読むことを停止した。
以後、聖書を読む時は、参考書として読むことはあっても、心を尽くして読むということはない。
心を尽くして、すなわち、精神を集中して読めば、またあの恐怖に陥り、イエスを求めたくなってしまう予感がするからである。

「高校生のころに、聖書を読んで自分の弱さを知り、精神を集中して御霊を受けた。」と言われる某M教の、仮に鍋さんに、
私の体験を語り、「聖書を読んで自分の弱さを知った。とは、私の体験のようなことですか?」
と、尋ねたところ
「あんたのは、それまでの知識から来た妄想。
 ワシが知った自分の弱さとは全然違う!」
と、切り捨てられた。

うーん・・・自分の罪深さとか、どうしようもなさ、というかを、
持ちあぐねた心細さというようなもの、イエスにすがるしかないという心細さ、それを自分の弱さ、と言っておられるのかと思ったのですが、違った。

「それはどのようなことですか?」
と、尋ねても、鍋さんは、一切御自分の知った自分の弱さを語るということはなかった。
語りたくないのなら、無理に聞こうと思わないのですが、
この鍋さん、事あるごとに、誰かれに向かって
「ワシは高校生の時に、聖書を読んで自分の弱さを知った。
 自分の弱さを知れ!」
と、説教され、自分を持ちあげてくれない者や自説の誤りを指摘する者に対しては、誰であっても「バカモーン!」「クソターケ!」「とにかく頭を下げろ!」「少しは譲れ!」
などなどという高圧的個人攻撃の言葉を書き連ね、何が何でも意見を封殺しようとされていた。
自分の弱さを知って強くなると、こんなに他者に対して攻撃的になり、恥も外聞もない書き込みをするようになるのなら、
自分の弱さなど知らないほうが良いのではないかと、傍から見ていて思ったものです。
その攻撃の最中にも、相手に向かって「自分の弱さを知れ!」と言われる。

なんでしょうね。
このかたの言われる「自分の弱さを知る。」って・・・。
と、ずーーーーと思ってきたのですが、


じ・つ・は、
長年の疑問に最近、「これかも?」というものが見つかりました。

それは、

タイトルRe: 聖書を読んで自分の弱さを知る
記事No1699
投稿日: 2012/10/17(Wed) 12:11:23
投稿者桃青
さて、鍋さんの「自分の弱さを知れ!」を、私は、このように推理いたしました。

*某M教会では、教会員は、何かあるごとに「人間は弱いものです。」と、言う。
それは、だいたいがこんな感じ。
 「私は戒めを守れませんでした。人間は弱いものです。」
 「私のワードのビショップときたら、ああで、こうで、つまりビショップとしてなってない。人間は弱いものですね。」

この「人間は弱いもの」を、私は、なんとなく、親鸞聖人風に「どうしようもない、度し難い凡夫」
のように捉えていたのだが、それが鍋さんの言われる「自分の弱さを知る。」を、理解不能にしていたようだ。

 キリスト教、人間、弱い、で検索をかけると、たくさんの記事がヒットする。
牧師さんの説教もある。

それを出来るだけ沢山、読んでみた。
すると、私のように「人間の弱さ」を親鸞聖人風に「どうしようもない凡夫」と捉えている説教もあったが、それとはちょっと違う、どちらかと言えば、某M教の努力すれば神になるを思わせる趣の説教もあった。
そのどちらも、「人間の弱さ」で表現するところは

完全なる神、に対比して、不完全な人間。

というものであった。

ここで、私は、ぱっと、鍋さんが言う「自分の弱さを知れ!」が、わかったような気がした。
同時に「自分の弱さ」を知った鍋さんが、何故他人を「自分の弱さを知れ!」と攻撃できるのかがわかったような気がした。

推測ではあるが、鍋さんが高校時代に知った「自分の弱さ」とは、
何らかの能力、つまり「力」で括られるようなものが、自分において乏しい(不完全)と思ったのではなかったのか。
鍋さんは、自分が未熟であること、いうなれば自分はまだ「強い男」ではない。
と、痛感したのではないだろうか。
そして、強い男になりたいと努力して、自分は強くなった。
と自覚されたのだろう。

鍋さんが他人に向けて発する「自分の弱さを知れ」とは、すなわち
「オマエは自分が(俺様より?)劣っている。ということを自覚しろ」と、同義なのだ。

某M教会員が口癖のように口にする「人間とは弱いものです。」とは
親鸞聖人風に「どうしようもなく度しがたい凡夫である人間。」
あるいは「(原)罪の重さの前にうなだれるしかない人間。」
という人間の根元を見つめて出て来た「人間は弱い」ではなく、
努力すれば手に入る完全に至っていないという意味での不完全さ・・・「数学が弱いんだよね。」
というような使いかたでの「弱さ」なのであろう。

某M教は不完全な人間が、努力+神の恩寵によって、完全(神)になる。
という教えである。
神の恩寵を受けるためには、「某M教会員になる」という行動(努力)を必要とする。

人間は努力によって完全(神)に成れる。。。
人生がうまく行くか行かないかは、全て個人の努力で決まると思っている人間は、まことにやっかいだ。

彼らは、闘って得た戦利品を見せびらかすように、自分が良い思いをしていることを吹聴し、自分から見て吹聴するに足る戦利品がないと見るや、たちまち相手を見下し、哀れむ。
某M教の思いやりとは、勝者が敗者に、相手が自分の位置と取って代われないことを確認したうえで、優越感を抱きながら、戦利品の一部を投げ与えることなのだ。
言いかえれば、彼らは、自分が絶対優位の立場であること、相手が自分の位置に取って代われない事を確認するまでは、相手に思いやりと言う名の施しを差し出せないようだ。

そういう彼らは常に自分の優位性を確認していないと不安でたまらないのか、しばしば相手に無意味な攻撃をしかける傾向がある。

「私のほうがあなたより上なんだからね!」「あなたになど、この私が負けるものか!」
と、手当たりしだいにものを投げつけるような悪口雑言で相手を攻撃する人々を見ると
相手より絶対優位という立場でなければ、相手に親切にできないものなんですかね。
と、思うばかりであった。

タイトル原罪を認めるか認めないか
記事No1701
投稿日: 2012/10/18(Thu) 10:38:40
投稿者桃青
つくづく思うのだが、キリスト教で原罪を認めるか、認めないか、
ってのは、すっごく大きな違いなんだろうね。

クリスチャンのかたは、某M教のサイトをちらっと見ただけで、
瞬時に
「あ、ここ(某M教会)は根本が違う。」
と、いわれる。

某M教のサイトは、現在「人間が神になる。」という教義を明確には書いていない。
某M教の教義が「人間が神になる。」のもとに成り立っていることを知っていると、「ああ、ここらで匂わせているな。」と、解る程度にぼかしてあるので、ちら、と見ただけでは、
「根本が違う」とは、ならないでしょう。

ちら、っと見ただけで解るのは、原罪の取り扱いです。
某M教の創始者は、人間の原罪を理解できなかったのか、原罪をキリストが十字架に架かったことで、チャラにしたと、説いた。
なので、某M教は「人間というもの」へ深いまなざしを持つ途を閉ざされてしまったんだろうね。

某M教会の人々が「人間は弱いものです。」と言ったからといって、
彼らが人間の深淵を見てそう言っていると思うのは間違いである。
彼らは、世間のひとが、
「意志薄弱」とか「頭が悪い」とか「態度が悪い」「未熟である。」とか、いうような時、それに替えて
「人間は弱いものです。」と、言っている。

タイトル人間が神になる
記事No1702
投稿日: 2012/10/19(Fri) 12:43:39
投稿者桃青
中学か、高校か、多感なころ、こんな詩を読んだ。

「義務があなたにやりなさい。と囁き、
 あなたが、やります。と、答えたとき、あなたはまた一歩神に近づくのだ。」

同時にこんな詞を読んだ。
「選ばれてあることの恍惚と不安。」

私は、思わずうぇ〜と、頭を抱えて走り回りたくなるほど、恥ずかしさに顔が赤くなった。
なんというナルシスト、なんというエエカッコシイ、
上は、誰の詩かは知らないが、下は信奉者というほどのファンを持つ有名な詩人の言葉である。
それでも、私は、その言葉に感動も共感もなく、恥ずかしくてたまらなかった。

今でも恥ずかしい。
だから、私は、キリスト教にも某M教にも向いていないのだろう。


某M教の「人間は神になる」からは、二つの詩と同じエスプリが伝わってくる。
某M教で「努力すれば神になれる」と教えられ、自分は昇栄して神になろう、と、励んだひとが日本にも昔はいたと聞く。
その精励恪勤ぶりには、頭がさがる。
が、そういうひとは神になって一体何がしたかったのだろう?
「なすべき義務を果たせば、神に近づく」と詠った詩人は、どんな目的で神に近づきたかったのだろう?

おそらく何がしたい。ということもなく、高いところへ舞い上がって、「私はこんなに高いところへ来た!」とただ思いたかっただけなんじゃないかしら?
某M教の人々に、「なぜ、そんなに某M教が世界に広まって欲しいのですか?」
と、問い掛けて確たる返事が来たことがない。
教義は信じていないし、何のために某M教が世界に広まってほしいのか、考えたこともない。
それでも、某M教が世間で高く評価されることを願い、信者数が増えることを願う。
そのこころは、高いところへ舞いあがって、「こんなに高いところに私はいる」と、ただ思いたいのとなんだか似ているように見える。