タイトル | : 仏教と人間の弱さ |
記事No | : 1697 |
投稿日 | : 2012/10/15(Mon) 12:14:51 |
投稿者 | : 桃青 |
「(人間の)弱さ」という言う言葉が、日常語として定着したのは、比較的新しいのではないだろうか。
大学時代、先輩が「それは、彼女の弱さだと思うんだよね。」 と言ったが、それまで、そんな言いまわしを聞いたことがなかった私には、それがとても新鮮に聞こえたことを鮮明に覚えている。
ふと気が付いたら、いつの間にか、 新聞でも、週刊誌でも、書籍でも、日常会話でも、 「自分の弱さ」を知る、とか、知れ、とか 「それが彼やあなたの弱さ」だ、とか、「人間の弱さ」について、 だれかがどこかで話している。
仏教では、どうなのだろう。 今まで、学んだ限りでは、「意志が弱い」「身体が弱い。」に類する表現はあっても、人間の弱さ、という人格に関わる表現は無かったと記憶しているが・・・。
「人間の弱さ」という人格に関わる表現は、やはり 「弱きものよ、汝の名は女なり。」というような、キリスト教的表現なのかもしれない。
今日日常、「自分の弱さをみつめて」と、言われる場合、今ほど「弱さ」が普及する以前なら それは 「自分の欠点をみつめて」「自分の短所をみつめて」 と、言ったであろうと思われることが多い。
先輩が言った 「それが彼女の弱さだよね。」 が、指したものは、「したいことがあっても、親と揉めたくないので、できない。」 というものであった。
したいことの同志とも上手くやりたい。 親ともうまくやりたい。
あちらともこちらとも上手くやりたい。 こういう立場のヒトは、いつでもどこでも居るだろう。
仏教なら、そういう状態をどう見るのか。
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