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タイトル役に立たない日がきっと来る
記事No1703
投稿日: 2012/10/20(Sat) 12:25:00
投稿者桃青
母が教えてくれたこと。

どんなに役に立ちたい、と思っても、
役に立たず、ひとの世話になるしかない日がきっと来る。

辛いだろうなぁ〜。


少し前に、インテリでキャリアもある女性をターゲットにしているらしい女性雑誌が、親の介護を特集していた。

開口一番。
「はっきり言って、家族にしかできないということは何もありません。」
ひぇ〜。
後は良い施設とは、から始まって、良い施設の選び方、見分け方、費用の話が延々と続く。
「在宅で介護」は、まったく選択肢に入っていない。

言いかえれば、現行の制度では、仕事している女性は、在宅で介護は不可能ということであろう。
施設へ送りこむ後ろめたさを、和らげる意味で、
「家族にしかできないことというものはない。」と、書いたのであろうが・・・。
実際、母を介護してみて、家族にしかできないということは、何もない、ことも解る。
家族にしかできないことがあるとしたら、それは家族として相手を大切に思うこと、だけであろう。

タイトルRe: 役に立たない日がきっと来る
記事No1704
投稿日: 2012/10/22(Mon) 09:47:30
投稿者修業者
> 役に立たず、ひとの世話になるしかない日がきっと来る。

私もこの歳になると、その日が刻々と近づいているように感じます。
できれば、そうなる前にポックリ逝きたいのですが...。

各地のポックリ寺やポックリ地蔵に参拝する人が増えているようです。
先日、従兄弟の告別式で知立に行った帰りに、ポックリさん(遍照院:知立市弘法町弘法山19)に御参りしてくればよかったのに、と思っています。

タイトルRe^2: 役に立たない日がきっと来る
記事No1706
投稿日: 2012/10/22(Mon) 16:48:57
投稿者桃青
> できれば、そうなる前にポックリ逝きたいのですが...。
>

残念ですが、昔も今も、ポックリ逝けるかたは、稀です。
稀だからこそ、ポックリ寺も流行るのでしょう。(笑)

以前は「原因不明の突然死」で片づけられても、現在その殆どは原因が解明されていますので、ますますポックリとは逝けなくなって来ているのが現実です。

昔は「人間食べられなくなったら終わり。」と言われ、次第にうつらうつらと眠ってばかりいるようになり、それに従って、食事も欲しくなくなり、水も飲みたくなくなり、自然に死を迎えた、らしい。
のですが、現在は、眠る傾向があれば、無理にでも起こして、体操させたり、興味がありそうなDVDを見せたり、外へ連れ出したり、なんとしてでも眠らせるものかと刺激を与え、
食べられなくなったら、無理にでも口に含ませ、嚥下反応が起きるツボを介助者がスプーンで刺激して無理やり飲みこませる。
果ては「胃ろう」ですからね。
うつらうつらして、自然に飢え死にするという死に方も、ぽっくりと同じくらい良い死に方だと思うのですが、どうもそれは現在では周囲がよってたかって許さないようですね。

タイトルRe^3: 役に立たない日がきっと来る
記事No1707
投稿日: 2012/10/23(Tue) 09:29:05
投稿者修業者
> 残念ですが、昔も今も、ポックリ逝けるかたは、稀です。
> 稀だからこそ、ポックリ寺も流行るのでしょう。(笑)
> ・・・・・現在では周囲がよってたかって許さないようですね

ももあおさん、夢も希望もなくなるようなことを書かないでください。(笑)
私が憬れているポックリは以下なのですから。

マァ〜、平均寿命ぐらいまでは健康に生きる。
そして当日は、
朝起きて家の周りを散歩し、ラジオ体操をする。
朝食は、ご飯に豆腐の味噌汁、白菜の漬物、それに塩鮭と生卵、
それから、近所に借りた家庭用菜園に行ってノンビリと野良仕事をして汗をかく。

昼食は、お気に入りの店で支那ソバと半チャーハンを食べ、スーパーでワンカップ大関(日本酒)3本と新鮮な刺し身を買って帰る。

午後は、庭の草むしり、部屋の掃除、模型造り、それに将棋クラブに行って2時間位将棋を指す。

夕食は、寄せ鍋と刺身で晩酌を楽しみ、雑炊で腹を満たす。
そして、風呂で温まり、着替えをして少し早めに寝る。
ちょっとエッチな楽しい夢を見ていたら、突如テレビの電源が切れたようにブッチと画像が消滅し、そして何もなくなる...(チ〜ン)。

私は仏教ファンですが、信仰心が全くなく、葬儀やお墓は必要ないと考えている。身辺整理をする際、遺言状にその旨記述しておこうと思う。

タイトルRe^4: 役に立たない日がきっと来る
記事No1708
投稿日: 2012/10/23(Tue) 16:41:04
投稿者桃青
> ももあおさん、夢も希望もなくなるようなことを書かないでください。(笑)

確かに・・・。
でもな〜 「あー、良い死に方だったねー。」
というかたより、「死ぬのも大変なんだなあ」と、思われるかたのほうが遥かに多いんですよね。
修業者さんも、周りのひとが皆ぽっくりと逝かれるかたばかりじゃないからこそ、理想的な死に方を夢みられるのでしょう?

> 私が憬れているポックリは以下なのですから。
> <以下略>

そうですねー。
修業者さんが書かれたようにいかれたかたを何人か知っていますので、まるっと夢でもないでしょう。
頑張ってね。

>
> 私は仏教ファンですが、信仰心が全くなく、葬儀やお墓は必要ないと考えている。身辺整理をする際、遺言状にその旨記述しておこうと思う。

修業者さんのお気持ちはよくわかります。
でも、
供養というのは、供養したいひとがするものですから、
御遺族のどなたかが、もし
「私は、どうしても修業者さんの供養がしたい。」
って、思われるのなら、それを止めることはできないものだと思いますが・・・。

タイトルRe^5: 役に立たない日がきっと来る
記事No1710
投稿日: 2012/10/24(Wed) 12:45:41
投稿者修業者
> 修業者さんが書かれたようにいかれたかたを何人か知っていますので、まるっと夢でもないでしょう。
> 頑張ってね。

はい、頑張ります。
でも、どのように頑張ったらいいのか分からないので、教えてください。

タイトルRe^6: 役に立たない日がきっと来る
記事No1711
投稿日: 2012/10/24(Wed) 16:51:24
投稿者桃青
> でも、どのように頑張ったらいいのか分からないので、教えてください。

そこなんです!
私の知っている、修業者さんが望んでおられるような理想の死を迎えられたかたに共通点があれば、何かのヒントになるかもしれませんが、表面を見ている限りこれといった共通点はないのです。
強いていえば、どちらかと言うと黙ってコツコツ平凡な人生を歩まれたかたばかりのように見えますが・・・。
これも私の知るかぎりですからね。
亡くなった師匠は、よく
「人間これ以上生きられないというくらい一生懸命生きたら、コロッといくから大丈夫、心配せんでもいい。」
と、言われてましたが、並みの者より遥かに一生懸命生きられたはずの師匠も最後はコロッじゃなかったですし・・・。
よく分かりません。

でも、修業者さんには、コロッと行っていただきたいですよ〜。

タイトルRe^4: 役に立たない日がきっと来る
記事No1712
投稿日: 2012/10/25(Thu) 09:23:32
投稿者しんのすけ
参照先http://www.docu21.com/
> 私は仏教ファンですが、信仰心が全くなく、葬儀やお墓は必要ないと考えている。

僕もお墓は要りませんし、葬儀はこだわりません。
僕も信仰心は薄い(周囲に比べて)信仰心とお墓と葬儀は関係ないですね。
むしろ信仰心の確立している人ほど、葬儀やお墓にこだわらないと思います。

タイトルRe^5: 役に立たない日がきっと来る
記事No1714
投稿日: 2012/10/25(Thu) 10:13:24
投稿者桃青
> 僕もお墓は要りませんし、葬儀はこだわりません。

お釈迦様もそう言われてますね。

葬儀も墓も、残された者がするものです。
なので、どんなに「私は、こうして欲しい」と、思っても、その思いを受け止めてもらえない場合もあるでしょう。

私は、もしかして
「本人の希望にそいたい。」と、思ったり
「どうしたらいいのか解らない。」と、迷うひとがいるかもしれないので、
金銭的時間的、そして心の負担になるべくならないような方法を意志表示して置いて、でも、それが叶えられなくても、別に構わない。
葬儀や墓など、好きにしてください。
したくなかったらしなくても良いのですよ。

という感じですね。

私の場合は、葬儀は面倒だと思うのなら直葬で。
墓は一応師匠の寺の納骨堂の一画で、既に先祖代々の供養をしています。
なので、納骨はそこと、身延山へ。
身延山には日蓮聖人の思いが残っている、と信じていますので。
母が元気なころに二人で、「これなら」という気に入りの骨壷を母の分と私の分を用意しています。
でも、それが叶わなくても、どうてことはありません。
久遠実成の仏と同じく「私」も、また生じるのですから。

タイトルRe^6: 役に立たない日がきっと来る
記事No1715
投稿日: 2012/10/29(Mon) 17:33:30
投稿者桃青
仏壇の下を整理していたら、母が自分の葬儀と納骨について書き残してあるものを見つけました。

内容は、元気なころに、母の口から聞いていたのと同じでした。
(おそらくそのころに、書いたのでしょう。)
あらゆる延命処置を拒否すること。
葬儀は身内だけで、行って欲しいこと。
葬儀に呼ぶ者の名前。(残念ながら、その中には既に亡くなったかたもおられます。)
納骨は、師匠の寺と身延山と霊鷲山へして欲しいこと。

母がまだ認知症ではなかったころには、確かに心からそう思っていたと思います。
でも、認知症になった母は、今、本心ではどう思っているのでしょうか?

認知症になると、「それまでのそのひとの生き方がわかる。」と言われるお医者さんもおられます。
それまで理性で蓋をしていたものが、飛び出してくる。ということは、確かにあると思う。

主治医の先生から
「100歳まで生きてもらわないと・・・。」
と、言われて嬉しそうに笑う母ですから、本心では延命処置もして欲しいと思っているのではないかと思ったり・・・。

葬式も本心では、盛大にして欲しいのではないか、と思ったり・・・。
書き残してあるから、といって、それが本心なのか、どうか・・・。

結局、葬儀も墓も、残された者が自分の「こう」という思いでするものなんだろうな、と、最近つくづく思います。

タイトルRe^7: 役に立たない日がきっと来る
記事No1716
投稿日: 2012/10/31(Wed) 00:17:05
投稿者しんのすけ
今日は先輩のお母さんのお通夜にいってきました。
お父さんの方は、呆けてしまって妻が誰かも解からない状態なので
施設のままでした。いろいろと役職を勤められて、息子さんも
それなりの立場なので参列者も多く、1000人以上だったでしょうか?
もし、故人が身内だけでと言われ、その通りにしたらどうなのかな?
後から、ばらばら弔問にこれだけの人が来ても困るだろうな。
葬儀は質素にとか、家族葬とか言いますが、それなりに生きてくれば
それなりに縁はできる、華美な式檀とかセレモニーは要りませんが通知はした方が良いと思っていました。

タイトルRe^8: 役に立たない日がきっと来る
記事No1718
投稿日: 2012/11/02(Fri) 10:29:02
投稿者桃青
> 後から、ばらばら弔問にこれだけの人が来ても困るだろうな。
> 葬儀は質素にとか、家族葬とか言いますが、それなりに生きてくれば
> それなりに縁はできる、華美な式檀とかセレモニーは要りませんが通知はした方が良いと思っていました。

「どうして知らせてくれなかったの?」と、寂しい思いをされるかたもおられれば、
「なんで私のところへ知らせが??知らせを受けたら知らん顔もできないし」と、やや迷惑に感じられるかたもおられるでしょうし・・・。

こちらも残された者が、知らせを受けた側のそのような心のリアクションを承知した上で、「ここに知らせる。」と決めてすることなのでしょうね。。。

タイトルRe^7: 役に立たない日がきっと来る
記事No1717
投稿日: 2012/10/31(Wed) 09:27:53
投稿者修業者
> 結局、葬儀も墓も、残された者が自分の「こう」という思いでするものなんだろうな、と、最近つくづく思います。

そうかもしれませんね。
人間の思いは変わるもので、今、葬儀も墓も不要と思っていても、死ぬ間際には寂しくなるかもしれませんから。
でも、妻や娘の勤務先の上司、同僚、後輩など一度も顔を合わせたことのない人の葬儀参列はいやですね。

タイトルRe^8: 役に立たない日がきっと来る
記事No1719
投稿日: 2012/11/02(Fri) 10:40:12
投稿者桃青
> でも、妻や娘の勤務先の上司、同僚、後輩など一度も顔を合わせたことのない人の葬儀参列はいやですね。

そういう関係なら、いやでしょうね。
御本人の親、配偶者は、ちょっと微妙かも。

ただ、盛大な葬儀へ一般会葬者として参列した場合、後方でおばちゃんたちがしている個人や親族に関する噂話がすごいことになっていて、故人や親族の知られざる一面を私のように何もしらない者まで耳にすることになります。
一般参加者多数の盛大な葬儀を計画されているかたは、御用心。です。
親族席に座っていると、そういう噂は聞こえてきませんからね。

タイトルコミュニティができること
記事No1705
投稿日: 2012/10/22(Mon) 11:26:09
投稿者桃青
「家族でなければできないことは何もない。」
と、書かれてあって、
あんれ、まぁ〜と私は驚いた。

では、最近、よく言われる
「介護に地域コミュニティの活用を」どうであろう。

これまた介護に関しては、
「家族にしかできないことは何もない。」
というのであれば、
「地域コミュニティでなければできないということは、何もない。」
と言えよう。
最近、私の住む地域にも、「おたすけ隊」なるものができました。
提唱者が某市会議員の後援者で議員の支援者が名を連ねているところを見ると、
まあ、一種の選挙運動かな。と思わないでもないですが、
悪いことではない。
介護老人がいる私のところへも「お気軽に御利用ください、」と、菓子折りをもって挨拶に見えました。
で、パンフレットの支援内容をみると、
電球の取り換え、高いところへの物品のあげおろし、家の掃除、や庭の草取り、植木の剪定、病院送り迎え。
等、身体が動く家族がいれば、当然家族がするであろうことですが、介護保険では対象となっていない事項が並んでいます。
さすが、議員とそのブレーンです。
介護保険の盲点をよく調べてあります。
草取り、植木の剪定はシルバー人材センターに依頼すれば、一日一万円程度かかりますので、それを無料でしていただけるのなら有り難いし、地域としても、依頼があって切ることができれば、防犯や台風対策にもなります。
私は剪定は業者に依頼していますが、今までシルバー人材センターに依頼していたひとが「お助け隊」に依頼するようになれば、それはそれで誰かの職を奪うことになるかもしれませんが、伸び放題の植木が地域に少しでも少なくなれば、それはそれで地域貢献になりますね。

「おたすけ隊」が、パンフレット通りに機能すれば、確かに、
現行の介護保険の不備を補って、地域住民には大いに助かる存在になるでしょう。
「お助け隊」の影にいる議員にとっても、お助け隊は使える組織にもなるでしょう。
「お助け隊」は、某M教のボランティアのようにゼッケン付けて町内を行進されていましたが、先頭は議員の御母堂でした。

が、ちょっと待て。
こういうかたちでの支援が、最近言われる「介護にもっと地域のコミュニティの力を活用すべきだ。」
のコミュニティの力に相当するのでしょうか?
それなら、介護保険の不備を国民にボランティアで補わせようとしているのでしょうか?

思いだしてみてください。
社会保障という概念が無い前は、国民は全てを自前でなんとかしようとしていました。
社会保障という概念が無い時代、某M教の学者さんが言う「コミュニティ(村)」は、至るところにありました。
それでも、悲惨な状況は同時にあったのです。
だからこそ「社会保障」という概念も制度もできたのでしょう。
コミュニティのボランティア、助け合いではどうにもならない部分があったからこそ、社会保障制度は徐々に整備されて来たのでしょう。

社会保障に関わる問題を、コミュニティへ丸投げしておけば解決するということは、全くありません。
第一、ボランティアが名乗り出ない地域はどうするのですか?

会員同士親密に愛し合って、どうしたら会員同士が愛を分かち合えるかばかり考えているという某M教のコミュニティでさえ、
「まずは親兄弟、できるかぎり公的支援を活用して、教会を頼るのは最後の最後。」
ですからね。(笑)
某M教のコミュニティというのは、愛を分かち合いという願いで集った人々ばかりで構成されえいるはずなのに、「教会を頼るのは最後の最後」だと言うのですから、たまたま御近所に住みあっただけで、喧嘩や揉め事が起きなければ万々歳。という地域社会のコミュニティに何を期待して、
「社会保障に関わることに、もっと地域のコミュニティの力を活用すべきだ。」
と、言うのでしょうね。

ロムニーさんは
「国民が同朋(兄弟)を世話する」(「世話する」は創4:9の言葉) 形から離れ、「政府が我々を世話する」ようになるのは望ましくない」
のように考えていて、某M教の学者さんはじめ、日本の某M教会の人々は、こういう考えを支持しているようだが、政府を構成する人々は国民でも同朋でもないのかな?
「社会保障制度などなくてもやって行ける。コミュニティさえあればいい」と、某M教のコミュニティの有様を見ても、そう言えるのかな?

タイトルコミュニティと役に立たない者
記事No1709
投稿日: 2012/10/24(Wed) 10:23:14
投稿者桃青
「教会員になったら一生面倒見ますよ。一生どころか永遠に。」
某M教が言っていることはそういうことですね。
わお!いいところじゃん!!
と、入ってみたら、やがてそれには一つの大きな条件があることに気付く。
それは、
「あなたが、教会の役に立っているならね。」
です。

「役に立っている。」を判定するには合理的なアメリカの宗教らしく誰にでも眼に見えるかたちで解りやすい基準がありますが、ここでは省きます。

愛にあふれた集いも分かち合いも、教会(コミュニティ)の役に立っているひとのためのものなのです。
役に立っていないひとは、要らないひとなので見向きもされません。
見向きもされなかった役に立たないひとが、時々見直されるのは、役に立つひとが少なくなったので、もう一度役に立つひとになってもらおうという時だけのようです。
全員で運営するコミュニティには、役に立たないひとは居ないほうが効率的な運営ができます。
某M教のコミュニティと役に立たなくなったひととの関係には、さすがになんでもハッキリとモノを言い、合理性を追求するアメリカらしさが表れていますね。

さて、国家コミュニティと役に立たないひと、との関係は、どういう関係が望ましいのでしょうか?
某M教流の役に立たないひとは要らないひと。
それも、ひとつの考え方ですが、国家という組織の中にある某M教なら、某M教の役に立たなくなったひとを「役に立たないひとは要らない。どっか他所で面倒見てもらってね。」
と、知らんぷりして、役に立つものだけで楽しくやることも可能でしょうが、国家となるとそういうわけには行きません。

国家社会に役に立たない者は必ず、居るのです。

役に立っているものでも、いつ「役に立たない」立場になるかもしれません。
国家はそういう「社会の役に立たないもの」に対してどう対処するのが、望ましいのか。
これは難しい問題です。
ただ、某M教では答えは決まっています。
「役に立たないものは要らない。どこかへ行って呉れ。」

「役に立たない者は要らない。」
こう思っているのは、某M教会ばかりではありません。
この思いを社会の共通認識としてよいのか、よくないのか。。
さあ、どうでしょう?

タイトルRe: コミュニティと役に立たない者
記事No1713
投稿日: 2012/10/25(Thu) 09:39:51
投稿者桃青
考えてみれば、社会保障というものは、
コミュニティの運営上には全く役に立たないものを、役に立たないままに、その生存権を認め、保証しようと言う考えの上に成り立っている。

某M教会会員から、「当選すれば某M教の強力な広告塔になる。」と期待される某大統領候補氏は、その著書の中でこう述べている。

「アメリカを史上世界で最強の国にしたのは、自由を希求する心、発明、創意、果敢、開拓などの精神にほかならない。」

このどこに「役に立たない者」が、居る場所があるだろう?
自由競争主義で組織を運営するのなら、企業から国家まで、役に立たない者は居ないほうが、効率的にその目的を果たすことができます。
「某大統領候補氏の思想には、某M教の影響が見られる。」と、タイム誌は分析しているが、某M教コミュニティが、コミュニティの運営に役に立たないものに冷淡なのも、「組織運営の役に立たない者は、邪魔者。足手まとい。」
という企業原理が働いているからなのかもしれない。