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タイトル訃報
記事No1723
投稿日: 2012/11/05(Mon) 17:53:53
投稿者桃青
昔、少し関わりのあったひとが亡くなったと知らされた。
と言っても、亡くなったのは最近ではなく、5年前だったとのこと。
自殺だったという。
このひととは10年に渡って裁判をしたひとであり、このひとに出会ったばかりに、私の人生がおかしくなった。
と、恨みに思ったこともあったし、このひととの問題の解決を求めて、師匠のところへ行ったのだから、法華経と出会うきっかけとなったひとでもある。

亡くなったと聞いた瞬間は、「ああ、そうなんだ。」と、特に感慨もなかったが、自殺だったと聞いて、「ああ。可哀そうなひとだったなあ。」と、いう思いでいっぱいになった。
カネがらみでヤクザに追い込みでもかけられたのではないか。

彼もまた、裏をみせ表をみせて散る紅葉かな。
十一面観音のように、様々な相を見せて、いつか仏になって行くのだろうか。
合掌。

南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経

タイトル治ると信じることが家族の役目
記事No1724
投稿日: 2012/11/06(Tue) 10:54:15
投稿者桃青
亡くなったひとを被告として裁判を起こしたことがあった。
こちらもすぐに、裁判ということではなかったのだが、相手に話に行ってくれたかたの
「とうてい話し合いのできるひとでも一家でもない。
これ以上は警察とも連絡をとり、裁判にしたほうがよいかもしれない。」
と、いう御意見もあり、裁判を起こしたのだが、結局、第一審の判決がでるまでに10年かかってしまった。

今、振り返ってみれば、そのひとも、そのひとの家族の何人かも、ボーダーライン、あるいは神経症だったのだろうと解る。
また、そのひとの家族の中には糖尿病のひとも何人かいたのだが、現在、糖尿病と精神病との間には何らかの相関関係があるらしい。という見方も出てきているようだ。

このひとと関わったお陰で、私は一生行くことがないであろうと思っていた、警察署の中で話をきかれ、裁判所の証言台にも立ち、精神病の勉強もすることになった。
が、そのようなことがなければ、これほど熱心に法華経、仏教を求めなかったのではないか、とも思う。

精神病の勉強をする一環として、精神病のMLに参加していたことがある。
そこに参加していた精神科の医師が、繰り返し

「家族の役目は、必ず治る、と信じることです。
 いいかえれば、家族ができることはそれしかありません。」

と、書いていた。
私は、「精神病は、治る、ではなく、本人も、周囲も、どのように病気と付き合っていくか、その方法を見つけて行く。」
が、現実的対処法ではないのか?
と、理解していて、現在もその理解は変わっていない。
私のように理解している精神科医もおられて、私のような考え方を「ノーマライゼーションというのだが、その考え方は、患者にも家族にも人気がない。」
と、教えていただいた。
確かに、そのMLでは、
「治ると信じることが家族の役目」
という考え方が家族にも本人にも、すんなりと受け入れられていて
悲しい出来事があるごとに
「でも、必ず治ると信じることが家族の役目ですから、治ると信じて頑張りましょうね。」
と、互いに励まし合って悲しく辛い症状に耐えておられた。

現在では、その当時よりも、精神科領域での治験も薬物も多くなり、どちらかというとノーマライゼーション的考え方のほうが、広まっているように見えるのだがどうなのだろう?


「治ると信じることが家族の役目。
 家族にできることは、治ると信じることだけです。」

こちらも、今、振り返ってみると、その心情だけを見れば
それは、「私もあのひとも、あのひとも、いつか、仏に成る。」
と見る心情に、似ているのかも知れない。

タイトルRe: 治ると信じることが家族の役目
記事No1725
投稿日: 2012/11/06(Tue) 18:35:06
投稿者桃青
何故、ノーマライゼーションという考えが、患者さんや家族に人気がないのか、その当時は私は全く解らなかった。
今でも、はっきりと解ったとはいえないが、そのころよりは
「ああ、こういうことなのかもしれないな。」
と、ほんの少しわかるような気がしている。

そして、現在では、どちらかと言えば、ノーマライゼーションよりの考えが広まっているのは、社会に精神病に対して他の病気と同じく単なる病気であるという認識が広まったからではないか。
が、実社会でノーマライゼーションという認識が広まっているのに、ネットでは相変わらず精神病者の精神病である部分を誹謗する者が後を絶たない。
ネットの書き手は匿名であるので、年齢性別は解らないのであるが、内容から中高生ぐらいかな?と思われる人々が、何年前の認識なのか?という古い認識で、病者を嘲ったり、精神病を他者を誹謗するのに使っている。
ネット社会はまだまだ精神病に対して長く続いた偏見の暗黒時代が年齢の低い者にも変わることなく受け継がれているようなのが気に成るところです。

タイトル今昔物語より
記事No1726
投稿日: 2012/11/06(Tue) 18:43:45
投稿者桃青
今昔物語には、精神病を扱ったと思われる話がいくつか出て来る。

旅の僧が、ある村を通りかかったところ、男の村人たちが集まって何ごとかをしている。
何をしているかと尋ねたところ、
「村の者がひとでなくなったので埋めております。
 御坊には関わりのないことですから、どうか通り過ぎてください。」
と、いう答えであった。
旅の僧は、哀れなことだと思ったが、どうしようもなくそのままそこを通り過ぎた。

原文もこのくらいの短い話しですが、怖い話ですね。
「ひとでなくなった者」とは、精神病、あるいは認知症のかたではなかったのか。
「ひとでなくなる」も、ひとでなくなった者に接した者でなくてはわからないことなのだろうと思う。
ひとでなくなった者をコミュニティが持て余して生き埋めにしてしまうことも、昔ならあったかもしれない。

タイトルRe: 今昔物語より
記事No1729
投稿日: 2012/11/09(Fri) 10:21:30
投稿者桃青
今昔物語で僧が登場する話は、おおむね僧の働きによって問題が円満解決となる。
なので、この話も「僧の懇ろな供養で、ひとに立ち返った。」
となるのかと読み進んだら、私の予想を裏切って、旅の僧は「哀れだが、いたしかたない。」と、その場を立ち去ってしまった。

おかげで、私は以来、物語中のひとでないものになってしまって生き埋めにされたひとへの思いを悶々と抱えている。

タイトルRe: 治ると信じることが家族の役目
記事No1727
投稿日: 2012/11/07(Wed) 00:08:19
投稿者大悲山
こんにちは。

> 私のように理解している精神科医もおられて、私のような考え方を「ノーマライゼーションというのだが、その考え方は、患者にも家族にも人気がない。」
> と、教えていただいた。

精神障害関連の組織のお手伝いもしていますが、その中の雰囲気はというと・・・
ノーマライゼーションは、おどろくほど人気がないですね(>_<)
むしろ「必ず治る」と言わなければならない雰囲気があります。

【 投稿者により修正されました。】

タイトルRe^2: 治ると信じることが家族の役目
記事No1728
投稿日: 2012/11/07(Wed) 19:01:48
投稿者桃青
> 精神障害関連の組織のお手伝いもしていますが、その中の雰囲気はというと・・・
> ノーマライゼーションは、おどろくほど人気がないですね(>_<)

肢体に関する障害では、ノーマライゼーションという考え方は比較的受け入れられやすいようですが、精神障害関連には、ノーマライゼーションは人気がないですね。
どうしてなのか。
理由はいろいろで、何かひとつが正解ということではなく、いろいろな理由全てが、理由なのだろうと思います。

> むしろ「必ず治る」と言わなければならない雰囲気があります。

MLでも、それを書いている精神科医自身は、体質、資質だから治らない、と知っていると感じました。
「治ると信じるのが家族の役目です。」とは書くけれど、
「必ず治ります。」とは、書きませんでしたから。

しかし、患者や家族の絶望を怖れて、本当のことを言わない。
希望を持って生きられるようという配慮なのかな、と思いました。

本態をありのままに見つめないと、適切な対応策も考えられないのではないか、と思われてならなくて、実生活で複数の精神科医、心理療法士に尋ねてみましたが、
「患者さんも家族も、そのように考えるひとは殆どいません。」
と、いう答えでした。

ただ、ノーマライゼーションという言葉はあっても、実際に、では、精神障害のかたが、どういうかたちで社会参加して行ったらよいのか、となると、ちょっと思い浮かばない。

某M教コミュニティでは、障害のあるかたは、神によって自由競争への参加を生まれながらに免除されているひとたち、という位置づけです。
税金(什分の一献金)を免除するかわりに、男性なら神権から遠ざけられる。
神権から遠ざけられるということは、コミュニティの運営に参加できない。運営に参加できないということは、自分の意見を言えない。
つまりは、足手まといで邪魔だから、何も言わずに隅にひっこんでろ、ということです。
しかし、これは、某M教コミュニティだけのことではなく、今現在の日本の精神障害者の状況も似たようなものでしょう。

某M教会員には、たとえ良識派的ひとであっても、精神障害や精神障害者に対して差別的な思想を何かの機会にふっと披歴されることがあって、驚かされることがあるが、これも某M教の「障害者は自由競争を免除されたひと」という思想が影響しているのだろうか、と思われるのだが・・・。
自由競争を肯定し、大いに競争することを本分とするコミュニティにあって、その自由競争を免除されるということは、それは、そこにいるのは場違いな人ということになる。
某M教の学者は、韓国、日本の某M教会は経済的に自立していることを誇らしげに書くが、献金を免除される障害者ばかりがコミュニティ内部に増加したら教会の金持ちさを誇るどころではないだろう。
しかし、現実には、そのように精神障害者に対して差別偏見の思想を内包する某M教会に、精神障害を持つ教会員が多くおられて、障害者年金、生活保護費を収入とみなして献金を徴収されておられる。
これなども生活保護、障害者年金制度のある日本ならでは、であろうが、国民の税金が日本の某M教の経済を支え、「我が教会は金持ち」という彼らの誇りを支える一部となっているのか、と思うと複雑な気持ちになる。

タイトルちんばとよばれて大悟する。
記事No1730
投稿日: 2012/11/09(Fri) 11:29:53
投稿者桃青
先々代の師匠にはお眼にかかったことはないが、古い信者さんから逸話をよく聞かされた。

あるお弟子さんは、足が不自由であった。
足の不自由を因とした様々なことを苦しんで、内弟子にはいられて修行されていた。
先々代は、そのかたを用があるとき「ちんば!」「おい、ちんば!」とお呼びになった。
そのかたは、たまりかねて
「先生。私には名前がございます。どうか名前をお呼びください。」
と、お願いされた。
先々代は「おお、そうだったな。すまなかった。」と、お答えになったので、そのかたは「これで、これからは名前を読んでいただけるだろう。」と、思われたのだが、先々代はやっぱり「ちんば!」「おい、ちんば!」とお呼びになる。
そのかたは、腹がたつやら、なにやら、「こんなところへ来るのではなかった。」とまで思い悩まれた。
そうこうしているうち、ある時、はっと気が付かれたそうです。
「あ!私は確かにちんばなのだ。」と。
それ以後、そのかたは「ちんば!」と呼ばれる度に
「はぁーい!」と明るく返事して、足を引きづりながらくるくると用をこなされ、信者さんたちからも信頼を集められたと。

全てのかたが「ちんば!」と呼ばれて何事かに眼を開くということでもないでしょう。
その資質を見抜いて、「ちんば!」と呼び続けられた先々代の教化の御力も素晴らしいですが、呼ばれて大悟されたそのかたも素晴らしい。

タイトル差別のカタチ
記事No1732
投稿日: 2012/11/10(Sat) 09:52:41
投稿者桃青
精神障害者に対して差別思想を持つ某M教会なのに、(日本の?)某M教会にはなぜ精神障害者が多くいるのか?
理由はいろいろある。
昼間に街宣活動する宣教師が、他の者なら忙しく働いている時間にヒマそうにしている彼らに声をかけやすい、というのも一つの理由だろう。
他にも理由としていくつか考えられるが、ここでは触れない。
障害者に対して差別思想がある場所に、なぜ彼ら障害者が好んで滞在しているのか?
というほうに興味がある。

某M教社会が持つ差別思想に気がつかないのか、気が付いても居場所でありさえすれば、そんなことはどうでもいいのか。

「障害者は神により自由競争への参加を免除されたひと。」

これを障害者への優待だと受け止めるか、差別だと受け止めるかによっても違って来るだろう。
私は、差別者が差別を優待と誤解させることを目論んでいる言葉だと理解する。
この言葉をもって、障害者は某M教社会で優待されていると誤解してはいけない。
自由競争には基本、競争相手は少ないほうが良いのだ。
限られたフィールドの中で、美味しい餌を奪い合うとはどういうことなのかを考えてみれば解るだろう。

敬して遠ざける、という言葉がある。
「あなたたちは特別なひとだから、私たちがしているような競争などしなくてもよいのですよ。」
という優しげな言葉は、次の言葉へと続く。
「でも、競争に参加していないのですから、私たちと同じだと思ってはいけませんよ。」
「もちろんです。同じだとは思っていません。
 私たちはあなたたちと違って特別なひとなのですから。」

結局両方が差別し合っている。

タイトル治らない。でも、対処の方法はある。
記事No1735
投稿日: 2012/11/13(Tue) 10:11:20
投稿者桃青
根本体質の問題なので、治らないと思っていても、絶望したくないから、希望を持ちたい、という患者や家族の気持ちに寄り添いたいという気持ちが、

「治ると信じることが家族の役目です。」

という言葉になるわけですが、そのMLにも、
はっきりと
「治りません。」
と書く医者はいました。

今、振り返ってみると、

精神病の本態を見て
「治りません。」というのは、空観
治らないと知りつつ、患者や家族の心を慮って
「治ると信じるのが家族の役目です。」というのは仮観。
みたいなものかな。
と、思う。

では、中観ならば?
「治りません。でも、対処の方法はきっとあります。」
と、いって対処の方法を必死に探す。

タイトルRe: 治らない。でも、対処の方法はある。
記事No1736
投稿日: 2012/11/14(Wed) 10:42:14
投稿者桃青
「治らない。」と、はっきり言う医者は、空観的だ。
患者の絶望を痛ましく思い、「治ると信じましょう。」という医者は、「痛ましい」に偏して溺れているので、仮観的だ。
「治りません。でも、病気がもたらす問題を解決することはできます。
一緒に問題の解決方法を探しましょう。」
という医者は、中観的だ。

でも、ノーマライゼーションという中観的な考えは患者や家族に人気がないのですよねー。

それはちょうど宗教でも、現実の本質を見て問題の解決方法を探そう、という教えより、「解決をひたすら祈りましょう。祈れば、ある時ぱっと全て解決します。」という教えのほうが宗教としては、人気があるようなものかもしれない。

タイトル「ファミリー」へのこだわり
記事No1731
投稿日: 2012/11/09(Fri) 16:59:14
投稿者桃青
尼崎の事件。
図にしなければ、説明できない義理の関係で複雑に入り組んだ関係。

かのひとの一家も、またそうであった。
ほんの少しの手がかりから、養子、姻戚としてつなぎとめられた複雑な一族。
兄弟姉妹であると同時に、伯父伯母であり、従兄であり。養子であり養女であり。
その中央に女王蜂のように君臨する女帝。
という構図は今回の事件に似ている。
女帝が事あるごとに家族会議を招集するところ、複数の人間で恫喝に赴くところ。
そっくりといってよいほど似ている。
ただ、こちらの女帝には気の弱さと同時にどこか抜けているところがあったので、事件の女帝とは、違うタイプだと言えるかもしれない。
しかし、あまりに似ているので、驚くと同時に、世の中には事件性は低くても、そういう一族が形成されること自体は、報道でコメンテーターが大仰に「複雑ですねー!!」と、驚いてみせるほど特異なことでもないだろうと思われる。
普通のものなら、結婚とか養子とかするのには、それなりに身構えるものであるが、そこに居あわせているというだけで、ごく自然に、「じゃ、いっそ結婚したら?」とか「養女になればいいじゃない?」と、いう具合にファミリーが形成されて行くのは、ボーダーレスのレスたるところから来ているのではないかと思う。
養子とか、親戚とか、根底に「性」を介在させた関係でなければ、その関係に安心できない。というところもボーダーラインらしいところではないか、とも思う。